1.忠義 たとえばそう、正義のヒーローになって世界を悪から守り平和に導いたり。 たとえばそう、苦難に満ち溢れた人生でも、前世で運命を共にした白馬の王子様が迎えに来たり。 そんな想像をしたことはないだろうか、私はある、どちらも。時にはヒーローだったし、時にはお姫様だった、剣を振り未開の地を探索したこともあれば、杖を抱き面白おかしい生き物たちと魔女として暮らしたこともあった。 老若男女、様々な立場で暮らす人々を拙い知識で想像し、夢を膨らませて日々を過ごした。堪らなく嫌だったのだ、自分の世界が。 誤解を招きそうだが、決して百にも満たない村で生まれ、狩りをしたり作物を育てたりして過ごす、その穏やかな生活に不満があるわけではない。  ただ今の自分ではない人生を歩む、そんな自分を想像するたびに思うのだ。今よりも自分に合った生き方が、どこかこの世界にあるのではないかと。 実際に体感してみれば、元の生活がよかったと思うのかもしれない。しかし、それでも比べる前に一つしかない選択肢を、何よりもかけがえのない人生だと胸を張る自信は、村にいるだけの私にはないのだ。 そんな探せばどこにでもいるような刺激に飢えた村娘、みんなみんな夢を見るものの、決して村を出ずに大人になって、家庭を持ち、次第に慌しい毎日に夢を見ていたことも忘れてしまう。でも私は違った、ある日、唐突に、夢を見ることすら許されなくなった。 二年前のあの日、武器を持った人相の悪い男達が村に来た、誰がどう見たって盗賊の類。しかし村を荒らすことなく頭と思わしき人物は叫んだ、この村の長を呼べと。 その時話した内容が、村を襲われたくなければ一年ごとに若い女と、定期的に食べ物を寄越せというもの、脅しと称してもなんら変わらない話し合いを終えて、村長の指に残ったのは契約の赤い宝石の指輪。これで逆らうことすらも許されなくなり、名実ともに村ごと盗賊の奴隷となりました、おしまい。 とまあバッドエンドの御伽噺ならここで締めくくられて、自分達は幸せだなとか、こうならない為にも対策をしておかないなと思考し本を閉じる。 でもこれは現実なわけで、すぐさま私達は、娘と食料を用意し盗賊に引き渡し、とんでもない災難だと悲しみを忘れる為に小さな宴を村全体で開いた。 そこまでも地獄、これからも地獄。食料は今までの二割増しで減っていき、慌てて作業量を増やせば疲労で人が倒れ、満足に生産できずに村が飢える。そして満足に動ける人が足りずに悪循環の完成。そんな生活を二年なんとか続けながらも、私自身はまだ夢を見ていた。 素敵な冒険者が偶然この辺境の村に来て、その正義感に単身で盗賊を壊滅させたり、もしくは私が突然神々の人を越えた力を与えられ、その魔法とかで村を救うとか。 四六時中現実逃避し、どこか他人事のように村で過ごしていたら、再び唐突に私が夢を見る期限を通達されたのだ。 そう、次の娘として生け贄に選ばれたのです。 そこからは更にどん底の日々。希望を抱く余裕すらなく、ただただ部屋に閉じこもり、どうしてこうなってしまったのだと、行き場のない後悔に涙を流す。 でもそれも今日で終わり、村から出る日が来たのです。 この日を前にして、私は一つ決意することができました。一つだけ、決して涙を流さないこと、笑顔でいること。私を送り出す村の人達の罪悪感を少しでも無くすことと、決して暴力には屈しないというささやかな抵抗。  この抵抗を糧にして日々を生きよう、時には素直に悲しむことのできないことが、私を苦しめるかもしれないけれど、きっとそれは私が死ぬまで、今の私を維持するために必要なことだろうから、屈した私、壊れた私なんかのままで死にたくはない。  そしてついに村人全員が見送る中、私は村の外に出ました。笑顔のままで。  最悪だ、極めて最悪だ。  この治安の悪い世の中に、町や村を離れるなんて危険極まりなく、商人でさえ護衛を多くつけたり、集団で移動しなければやっていけない中で、戦う術を持つ俺はその町の特産品、主に宝石等の高価で嵩張らないものを運ぶことを生業にした。  お陰で若くして、しかも馬車すら無いのにもかかわらず、生活するのには困らない程度には稼ぐことに成功している。その分、命という代償を常に天秤に賭けねばならないわけで、同業者などほとんど見たことはないが。  そんな生活が一年、いや二年だったかな。 (二年)  まぁ結構長く続いた時に、俺の手元にはしばらくは働かないで済む金と、何度も襲われながらも、大きな怪我一つせずに過ごせた自信の二つがあったわけだ。  そこで成人したばかりで、まだ垢ぬけていない若造が考えることは一つ。地図に載っていない距離の、どこにあるか正確にはわからない村から村へ、現地で取引と、情報収集を同時に行いながら進むことにしたわけだ。  王都や商業都市近くの地図に載っているほどの、知名度ある場所の慣れ親しんだ特産品を運ぶよりも、見知らぬ土地を突き進み、まとめて清算した方が利益も効率もいいというもの。  そして実行し、あの方向に村があると言われ、三日もあれば着くだろうと、地図にある最後の村を出てから五日目である。 道を間違えたのか、まだ着いていないだけなのか、はたまた村など既に無くなってしまったのかは知らないが、昨日から持っていた食料が全て尽きたことだけは確かである。 知識ある植物だけを食べ進め命を繋いできたが、そろそろたんぱく質が取りたくなってきた。動物でもいればいいと注意を張り巡らせて歩くが、申し訳程度に整えられた道を挟む森には、何一つ気配など感じ取れないでいる。 罠でも仕掛けて食料確保に急ぐべきか、それとも今すぐ来た道を戻り、村を目指すべきか。どこにあるかわからない村を目指すという、無謀な行為に疑問を感じながらも、真上に差し掛かりつつある太陽に身を焼かれながら、惰性的に足を前に進めることを止められないでいた。 (そろそろどうするか決めた?) 「いや、まだ少し時間が必要みたいだ」 うっすらと掻いた汗を拭いつつ声を発する、それに対し彼女、フィーは涼しげな顔で提案した。 (自らの意思で決めかねる時は、運にでも委ねればいいのよ) 「おっしゃる通りで、体感三キロ歩いて状況が変わらなければ一休みにしよう」 (私が測りましょうか?) 「自分でやるよ」 (なら宣言するわ、あなたは納得がいく結論が出るか、足が動かなくなるまで歩き続ける)  やれやれといった仕草で彼女は嫌味を言った。 (ウィル、そろそろじゃない?)  しばらく経った頃、声をかけられ疲労でうな垂れていた顔を上げる。どうやら森を抜けるようで、背の低い草花達が背を伸ばす草原が広がる。歩き続け完全に森を抜けきると、隅の方に村と思わしきものが見えた。 「二キロとちょっとか、宣言が外れたな」 (結果論ね)  ふん、と不満そうに鼻を鳴らすフィーを無視し、いざという時の為に残しておいた水筒の水を一気に呷る、温く嫌な臭いになっている水に少し咽た。  そこからもまた歩き続けるだけなのだが、終わりが見えているか、いないかの違いは大きく、自分でもわかるほどに歩く速度が速くなっており、小さく注視しなければわからないような村は、次第に生活を想像できるほどに大きくなっていた。  そこで初めて村の方向から、三名の人影がこちらに向かっているのに気付く。どう声をかけようかと思案するが、慌てて目を伏せる。どうみても男二人の風貌が盗賊のそれだったのだ。 一瞬抜刀するか、背中を向けて走り出すかを考えたが、もう一人の人物を見て思いとどまった。 女だった、恐らく村の娘だろう。ブロンドの腰までかかる長い長髪に、出るところは出ているスタイルのいい体。攫ってきたのかなんなのかは知らないが、随分と上質で、一瞬いくらで売れるかなと思案してしまった。  だんだんその顔が近づいてくることに気付き、慌ててトラブルを避け道の隅まで避ける。あんなに大きな荷物さえあれば、癪に障られない限り飛び火はしないだろう。  近づくにつれ、不安でほんの少しずつ上がる心拍数を感じながら、距離は五十も切った。  あくまで自然に視線を前に逸らしながら、もう後一呼吸もすれば通り過ぎるだろう距離、そこで彼女は意図的に目を合わせて来た。 「こんにちは、村に行くんですよね。いい所なのでごゆっくりどうぞ」 予想外の行動に動揺し、ワンテンポ遅れで片方の男が先に進むように促す。俺もまた、予想外の行動に言葉を返せず一人立ち止まっていた。 笑顔で言ったのだ、彼女は。これから自分がどうなるのか、わからない年齢でもなかろうに。それを理解してもなお、見ず知らずの旅人に笑って見せたのだ。 その悲痛さだからだろうか、堪らなく、胸が苦しい。 (あんな笑顔をする子を見捨てるの?) (……なんの義理もないじゃないか、面倒なだけじゃなく因縁まで付けられる可能性がある) (そうやってまた理性で感情を抑えつけて、それがどれだけ自分を苦しませるかわかっているくせに) そこまで言われてようやく太刀の柄を握る。 (責任取れよ) (いくらでも相談に乗ってあげるし、慰めてもあげるわ)  フィーの体が霧散したのを確認し、右手に持っていた太刀の刀身から布を払う。百を軽く超える巨大な全貌と、片刃の太刀の途中から両刃に変わる、この二点の格好から、初めて見る人は皆、装飾剣と勘違いするが、実用性は過去の記憶が証明してくれる。  まだ急に殺気立った気配に気付いていないのか、三人は素知らぬ顔で歩き続けている。その背中に一定まで足音を殺して近付き、抵抗できない距離まで迫った刹那、全力で走りだす。  反応が早く、振り向いた方の胸を貫く、骨の折れる嫌な感触。十分な助走とそれが生かされる重量、そして突き刺すことに適した刃の作りは、体格のいい男の肉を斬り裂き、骨すら折りきり背中から血濡れの刃を覗かせる。  耳に入るのは短い悲鳴と、もはや言語になっていない怒声。深くまで突き刺さった刃を抜く為に、既に物言わぬ肉塊を蹴り飛ばす。  構え直した時にはまだ余裕があり、腰から短剣を抜き取り振りかぶる途中。短剣にしては大げさな動作の合間に一呼吸入れ、こちらに伸びる刃を握る手首に合わせ太刀を斬り上げる。  斬り落とされた手は何もない空間に飛び出し、手の持ち主は痛みのせいか腕を抱える。その姿に多少の憐れみを感じつつも、無防備なその体の首を冷静に刎ねた。  大きく深呼吸し体を落ち着かせながら、刃と体に少しだけ跳ねた血を拭う。そして自分でも展開の速さに扱いかねる女は置いておいて、少し背の高い草むらに死体を移動しつつ所持品を漁った。金目のものとまでは言わないが、少なからず腹を膨らませるものが欲しかったところだが、その期待さえ裏切られた。 (そろそろ彼女構ってあげないと、空が落ちて来たような顔してるわよ) 俺以外にも姿が見えるのなら、真っ先に彼女に話しかけているわと、再び姿を見せるや否や、呆れ切った表情でこちらを見るフィー。 そこで初めて俺は自らの意志で彼女と視線を合わせる、近くで見ても整った容姿だ。 (村に連れていくか、どこかで売るかどちらが金になると思う?) (例え後者だとしても前者しかありえないわ)  わざわざ俺だって、希望で吊り上げて落とすようなまねはしたくはないので、そんなゴミを見るような視線はやめて欲しいのだが。それと売るなんて面倒だ。 「あ、あの」 流石に長々と声をかけずにいた俺に愛想を尽かしたのか、彼女から声をかけてきた。 「助けてくださって本当に嬉しいのですが、実はその……」 いきなり長々と話し始めた女に辛抱強く付き合っていると、先ほどの問いかけが如何に無駄だったかが理解できた、助けないこそが真に自らに相応しい答えだったと。 先ほど慰めるとまで言った女が、明後日の方角を向いている現実を見て思うのだった。 (フィー、俺はもう感情的になるべきではないと今回の旅で痛感した。軽い遭難に空腹に面倒事、挙句その全てが命にかかわる) (何バカなことを言っているの、女の子だけじゃなく村まで救って、名誉に溺れて飲むお酒はきっと素晴らしい味がするわ) (十中八九、飲む前に死ぬけどな) うじうじ五月蝿い、と少女のものとは思えない眼力で、罵声がその口から飛び出たので、慌てて返答を待っている女に声を返す。 「話は理解した。俺にも責任がある、このまま逃げるわけにもいかないし、ひとまず村の長に合わせてくれないか」  少し何かを考え、はいと頷き先導する女。胃袋と同じく中身が寂しいリュックから、雨天用のコートを取りだし、目深くその背中からかけた。 「着ておけ、今回の供物が帰ってきたら、粛清を恐れて村がパニックする」 「あ、ありがとうございます」  不審な挙動に疑問を感じ、最後にコートを洗ったのはいつだったかと、記憶を掘り返しながら後に続いた。  村に入りその辺にいた男に声をかけ、旅人であることを告げると快く迎え入れられる。  どうやら女の言ったいい所というのは間違いないらしい。場所によっては嫌な顔をされるのは当たり前。更には極稀にだが、このような辺境の村では、余所者が近づくなり無条件で武器を取り、襲いかかることがあるらしい。治安の悪い世の中が原因かは確かではないが、情勢を悪い方向へと向ける、一つの原因であることは間違いないだろう。  女が長の場所に無言で向かう中、好奇心でこちらを見つめる顔達に、不慣れと自覚する愛想笑いで敵意がないことを示す。  村自体は大して特徴はなく木製の家が立ち並ぶ。強いて特徴を上げるとしたら、村人の肉体が貧相なものが多いことと、総じて皆陰湿な雰囲気を出していることか。  その雰囲気だけでも払えられればと、宴の準備か設営と、建物から漂うそれぞれの料理の香りが、やっとまともに食べられるのかと、期待で活性化する胃袋が痛い。  ここです、と他と差が見当たらない家の前で立ち止まる。散漫した意識で、腹をさすっていた手でドアをノックした。  しばらくし、ゆっくりと開くドア。 「旅の者だが少し話しをいいだろうか」 はぁ、と曖昧な返事をする老婆を、半ば強引に部屋に押しやりドアを閉める。 「ティア!?」  顔を見せた女、ティアを見るなり、どういうことかと見開いた瞳で、俺とティアを何度も見る。 「このことについて話したいのだが、その前に簡単な食べ物を頂けないか、ここ一日まともなものを口にしていなくて……」  今度はティアも目を見開いた。 「すみません、わしも何かしてやりたい気持ちはあるんじゃが、こいつのせいで如何とも……」  そう言いながら撫でる指には、赤い宝石をあしらえた指輪。契約の指輪とも言われるそれは、互いが口頭で了解したことを半永久的に行わせる。王族や、商人の大きな取引に使われるものなのだが、こうして悪用されることも少なくはない。あくまで口答した、が条件なのだから、脅して望むことを言わせてもいいわけだ。  そしてこの場合、指輪に込められた呪いは、供物と村人を含め反抗しないことが含まれているのだろう。まぁ指輪の話は聞いていて、協力は初めから期待していなかったわけだが。  ちなみに村長には、人攫いだと思い助けて報酬を貰おうとしたが、今回の事情を聞き、どうにか村全体に協力してもらい、盗賊を倒さないかと話した。まぁいろいろ無茶があるのは自分でわかっているが、この状況を正当に近く表すのが、乗り掛かった船以外に言葉が見当たらない。  ごちそうさま、と空になった食器を置き立ち上がる。 「どうされるおつもりじゃ」 「まぁ行くしかないだろ」 「一人でとは正気とは考えられん。本来無関係な立場なのだし、気分が悪いだろうが村を見捨てて逃げるべきじゃ」 「俺もそうしたいんだがね。最善は尽くしてくるが、失敗したら余所者が勝手なことをして村を滅ぼしたと呪ってくれ。まぁ準備は勝手にさせてもらったし、なんとかなるだろう」  気だるさを感じながらも、ドアに手をかけ呆けた顔のティアに振り向く。 「おい女、お前も来るんだよ」 「はぁ……、えっ?」 盗賊の住処は洞窟を住みやすく改良したもので、仲間が長らく帰ってこいないのにもかかわらず、うつらうつらと船を漕ぐ、慢心からか不真面目極まりない見張りの首を刎ねつつ、二人も横に並べない狭い入り口を進む。 今回の作戦における自らの重要性からか、強張ったティアの肩をそっと叩く。 「落ち着いて、冷静にやれよ」 「は、はい。あの、もし私が失敗とかしたら……」 「その時は全力で逃げるから俺を恨め」 (逃げるな、死んでも戦え)  声をかける前より、更に血の気の引いた横顔を見て、余計な一言を言ってしまったかなと、少しだけ反省をする。尋ねられたから答える、これが間違いとなるのが人付き合いを面倒と感じる要因の一つであるのは間違いない。  自分よりも緊張している人間を見て落ち着いていると、明かりが強くなり視界が開ける。 十メートルも奥行きのない部屋の正面に、玉座のような木製の椅子に座りふんぞり返る、頭と思わしき人間が一人。そこから取り巻きが一時、二時、三時、離れて九時の方向に一人ずつ。  敵意が全身を突き刺すのを感じ、部屋の入口の前で立ち止まる。しかしティアは震える足で部屋の中心まで移動しきる。 「で、これは一体どういうことだ?俺の部下は?」 「実は……」 「お前には聞いていない!」  怒鳴られて委縮した様子を演技しながらも、さっさと話しを進めてくれと不満が募る。 「あの、そちらの方二人はあの方が斬り捨ててしまって……」  今でも俺を斬り殺さんと殺気立つ室内、正直逃げたい。 「事情を話したら村には迷惑はかけたくないそうなので、ひとまずこちらに来て指示を仰ごうと話になりました」 「そうかそうか、それでお前はどうして俺の部下を殺してくれたんだね」 「すまない、ただ謝礼が欲しかっただけなんだ」  金の為によくも仲間を云々と怒声を上げ始めた男達、まさに自分のことを棚に上げてだ。 煮るなり焼くなり好きにしてくれと言わんばかりに、俺はこの状況で右手の太刀を地面に置いた。  カンッと柄と地面が触れ合う音。それを合図にスルスルとスカートを持ち上げるティア。  いきなりなんだと、興味心よりも気でも狂ったかと目を疑う盗賊達。これで完全にではないが意識がだいぶ俺から逸れる。  急に静まり返った室内に、長い時間が経ったような錯覚を覚える。ようやくスカートが太ももの大部分を見せた時、二つの小瓶が服から落ちて割れる。  中身の草は幸いにも、混ざり合い燃え上がる。一般的に火を熾すのは火打石なのだが、規模の大きい火種が必要な場合は、混ぜれば燃えるこの二種類の草も選択肢に入る。  次にティアはスカートを下ろし、いくつか筒状のものを取りだす。ここで盗賊達が反応し、爆薬で心中でもすると思ったのか、止めるより先に慌てて逃げようとしたり、物陰に隠れたり、その場に伏せたりとそれぞれ反応した。俺はもちろん強く耳を塞いでいたのだが、数少ない顔を上げている人間はティアの方を注視している。  火種に無造作に筒を放り込むティア。続いて広がる爆音に、抑えた手と耳に詰めていた綿を越えてまで鼓膜が震える。 最後まで盗賊が真似しないように、耳を防がずに立っていたティアは、後遺症こそは残らないものの、しばらく立つことはできないだろう。  そして綿すら無く無防備だった盗賊達は、必要以上に火薬を詰めた動物避けの爆竹に、意識の大部分まで持っていかれている。 急いで太刀を構え、まずは頭の胸を一突き。続いて九時の方向の男を一突き。比較的かたまっていた三人は、それぞれやりやすいように胸を突くか、首を刎ねてことを終える。  そこで一息つく間もなく足音、音に反応しての増援か、部屋の左右に伸びた通路から、それぞれ一と二。運よく近場の通路から出て来たのは一人だったため、惨状に動揺しているうちに袈裟斬り、咄嗟に出て来た片腕を斬り飛ばし、そのまま胸を突く。速度を重視した動きのため貫通こそしなかったものの、見事骨を避けて刺さり致命傷を与える。 「ティア立てるか!?」  たいした反応がないことを見るに厳しいのだろう、急いで男との間に入るが既に二人とも剣を構え、いつでも斬り合える距離に迫っていた。  ここで考えられる流れは、こちらが片方に斬りかかりもう片方に攻撃される。咄嗟で斬られない可能性もあるだろうが、さすがに不安すぎて命は賭けられない。 最悪なのは二人同時に攻撃してくること。間違いなく片方の刃は俺に届く、しかしこの選択は命が惜しければできない。もちろんこの辺境の村を従えて、王様気取りの盗賊の部下にはできない選択だろうから、俺はただ寄らば斬るぞとティアが立てるまで現状を維持するだけでいい、彼女が移動さえできれば、一対一の状況などいくらでも作ることができる。音が鳴り響き一分近く、敵の増援もほぼないとみていいだろう。 こちらの考えを流石に理解したか、男の片方がこちらを警戒しながら移動を開始する。たいした考えなしに反対側に回り込んでくれれば、二人の距離が空き疑似タイマンに持ち込める、ティアの命は知らないが、俺と村を救えることを考えたら躊躇うまでもない。 しかしそんな淡い期待は裏切られ、男は剣を置き、置かれていた長いテーブルを構えた。太刀の射程を気にしてのことだろう、確かに有効な手段だが、その大ぶりの攻撃を一度避けてさえしまえば、その隙にもう片方に斬りかかれる。 敵から与えてくれたチャンスが迫りくるのを、今か今かと待ちわびる。 そして訪れた、斜め上から振り下ろされる形。もう一人は衝撃の隙を狙うようでまだ動かない。つまりこのまま動いていな方に斬りかかれば、机は当らないし二対一で不利な現状を打破できる。 太刀を構え直し踏み込んだ、そこで気づく。このテーブルの角度はティアの頭を貫くことに。 どうする、と自問自答が頭を焼きつける。 避ける手段は、防ぐ手段は、互いが助かる手段は、このチャンスを逃すのか、頭に当たらないかもしれない、当っても死なないかもしれない、死んだとしても俺は無事だし村も救える、彼女もきっと本 (そんな選択肢で迷うな!!) ボキッと骨の砕ける音、上腕骨が目に見えて変形していた。 それでも、それでも彼は倒れなかった、彼は倒れず右手で太刀を握り続けた。 眼帯で隠れていない方の右目が、先ほどとは桁違いの殺気で滲む。あれほどの重量の攻撃を受け、それでも立ち続けることが人間離れしているのにもかかわらず、痛みに泣き喚くどころか、敵を殺す為になお前に進むというのだ。大の大人二人が腰を抜かし、命乞いをするのも無理はない。 そこからはただの虐殺だった。戦意喪失した二人の命を奪い、重傷を負った原因である、まだ満足に立てない私を丁寧に支え外に連れ出してくれた。そして一人で中に戻り、片腕だけで残っていた残党を片づけて来たのだ。 こうして二年間も村全体を縛り付けていた呪縛は、たった一人の若い旅人によって解かれることとなりました。 「大丈夫でしたか!?」 あぁ、と頷きながらも体がふらつく、さすがに疲労と左腕の傷が体に響く。 「中にいたのは全員仕留めて来た、村に帰ろう」  しっかりと体を支えてくれるティアに軽く礼を言いながら足を前に出す。 (お疲れ様) (どうも、おかげさまでこのありさまだ) (別にたいしたことないでしょ、その右腕の温かさと柔らかさに比べたら) (そうだな、腕一本で人一人守れた自己満足に浸れるなら安いものさ) (それだけじゃないでしょ、滲み出ていたわ。殺したくない、守りたいって後悔が頭から) (……) (何を勘違いしているかわからないけど、自己利的思想は理性的に行うものじゃないわ。その逆、感情的に行うものなんだからね) (わかっているよ、だから今だけ責めるのはやめてくれ、傷に響く)  気が回らなかったのを自覚してか、お大事にと、聞き落としそうな音量で呟いて、フィーは姿を消した。 「大丈夫ですか?限界ですか?」 「……いや、少しぼんやりしていただけだ」  フィーとの会話によほど集中していたのか、実際に限界に近かったのかは知らないが、気づけばもう間近に迫った村から、何やら宴とは違った喧騒が聞こえる。 「なんだ、何が起きている」 「なんでしょうね、争っているわけではないみたいですが」  疑問と多少の警戒をしながら村に入ると、集まっていた村人たちがこちらを見るや否や歓声を上げた。その気迫に怖気つくティアと、頭痛に呻く俺。  訳が分からなく黙ってリアクションを待っていると、人ごみの間から見慣れた老婆が近寄ってきた。 「おぉ、なんと無事に戻ってきたのか!」 「お婆様、一体何事なんですか?」  実は、と話し始めるがたいした真相ではなく、コートを被っていても狭い村では当然ティアは感づかれ、もしやと思い村人が追ってみれば、長の家でとんでもない話が進んでいるではないか。 慌てて村中に話を広めたら、これを機に旅人と共に盗賊を滅ぼすべきだというタカ派と、村の男よりも多いのに勝てるわけがないというハト派に分かれて口論が始まる。  指輪のある長に感づかれては不味いと、ばれないように揉めている間に俺達は急いで出発。今すぐ追いかけようとしたタカ派を止める為に、ハト派が長を呼び出し指輪で見事村ごと動けなくなりましたとさ、そして未だに揉め続けていたわけだ。 (盗み聞きされていたってことでしょ、なんで気付かなかったのよ) (飯が上手かった) フィーは呆れたように溜め息を放ち、今日はそれ以降言葉すら発しなかった。 「何はともあれ無事でよかった、その様子だと盗賊は……」 「あぁ、頭含め十四名仕留めて来た。後で気の強い連中で死体の確認と、遺品を漁ってきてくれ。言われていたよりすこし少なかったが、まぁ多少の報復程度はもう大丈夫だろう」 タカ派であろう集団を見ると、それぐらい任せておけと総じて首を縦に振った。 「なんとお礼をしたらいいか……」 「礼は後でいいから今は休ませてくれ。左腕と長旅でもう体が限界だ」 その言葉を聞くや否や、是非家にという声が飛び交う。それを制してくれた長の家に、ティアに支えながらそそくさと逃げるのだった。 (おはよう)  おぼろげで、まだ寝ていたいと消極的に自己主張する意識に活を入れる。  久し振りに柔らかい布団で寝れたなと、お世辞にも豪華とは言えないそれに心から感謝する。  しっかりと治療された左腕を見て、昨日は手当されながら寝てしまったことを思い出す。どうやらしっかりと固定されているらしく、骨もずれておらず痛みも感じない。  そこで思い出したように左の肋骨も確認するが、上手く衝撃を逸らせたようで違和感は感じない、怪我をしていたとしてもヒビ程度だろう。 (外で何か楽しそうな声がするわよ)  言われてみれば愉快な音楽や、楽しそうな声が響くことに気づく。胃袋に何かを詰めたくて、隣に畳まれていた衣服を適当に羽織りドアを開けて、 「「おはようございます、英雄殿!!」」  すぐさま閉めた。 (……嫌がらせだろうか) (どうみても素直な好意でしょうが) (目立ちたくない上に、善か悪かは置いておいて人を殺したわけだ。おいそれとあの純粋な視線を受け止めることはできそうにない) (持論はどうであれ構わないけど、あの人達には関係ないでしょうね) どうしたものかと胃袋と相談していると、ほんの少しドアが開いて見慣れた姿が転がり込んできた。 「おはようございます」 「あぁ」 「失礼しますね」  無愛想な挨拶に眉一つひそめず、左腕の確認をしてから乱れた衣類を直してくれる。 (完全に惚れているわね) (勘弁してくれ) (どうして?好かれるのは悪いことではないし、言えば靴でも舐めるわその子) (村にいる間ずっとつきまとわれるのだろう、息苦しいことこの上ない) (それだけで済めばいいわね) (どういう意味だ)  さぁ?と何が面白いのか微笑むフィーに懸念な視線を送っていると、どうやら身支度が終わったようだ。 「ありがとう。あとあれはどうにかならないのか、目立ちたくないのだが」 「やっぱりさっきのは不快に思われましたよね、皆も反省していたのでもう大丈夫ですよ」  あんなに元気のあるのは久しぶりですと、困り半分嬉しさ半分といったところか、微妙な笑みを浮かべながらティアは手を引く。 「そういえばお名前まだ伺っていませんでしたね」 「ウィルと呼んでくれ」 「わかりました。ウィル様、ウィルさん、ウィル君……ウィルさん、私はティアです」 「あぁよろしく、ティア」 「今更自己紹介だなんて変ですね」  えへへ、と小恥かしそうに笑うティアに連れられ外に出た。  先ほどのような精神攻撃はないが、それでも十分参りそうなほどの好奇の視線を浴びる。 「こちらへどうぞ」  どうしたものか棒立ちで悩んでいると、ティアが席を作ってくれたのでそこへ向かう。  辺りを見渡すと昨日の辛気臭さは見る影も無く、体こそ痩せ細っている人間が多いものの、村の将来に不安を感じる余地はないと感じた。 それと視線が合う人間が多いこと、もっと互いに目を見て話せと内心愚痴を垂れつつも、大衆の前露骨に俯くわけも行かず、ティアを見つめ一心不乱に食事をしたいと願うのだった。  実際に席に着くと俺の内心を見抜いてか、隣に座る彼女で視線を大幅に減らせることに気づく。片手でも食べやすいものばかり取り寄せてくれることで、彼女の心配りに感謝しつつも食事を始める。  実際食べ始めてみれば食事に集中できるだろうと期待してみたが、ティア以外に俺の意思を尊重する人間は少ないらしく、終わらない質問攻めが始まった。  どこからきたのかとか、年齢とか、仕事等の一般的な質問ならまだしも、左目のことや、昨日の争い、女性の好み等の込み入った質問には、もはや丁寧に答える気など無くなり曖昧にぼかしたり、嘘でたらめで応対した。挙句何度も同じ質問をされた気がするので、明日からはよくわからない俺の噂が独り歩きしているだろう。  流石に食事を終えてまで質問攻めにあうつもりは全くなく、行きたくもないトイレの為に席を立つことにした。 「案内しますね」  もちろん俺より早々と食べ終わっていたティアは、待っていましたと案内を買って出る。 「この村では外でする文化なのか?」  どこの家に案内するわけでもなく、愉快な喧騒が遠く聞こえる丘まで移動してから初めて疑問をぶつける。 「あら、本当に用を足したかったんですか?」  既に腰をおろしていた彼女の隣に座り態度で返答する。感が良すぎるのも問題だな、何かこう恐怖に近いものを感じる。 「さっき言っていたことですが、本当に容姿が幼く、巨乳で、男勝りな性格の女性が好きなんですか?」 「なんだその化物は」  言葉にしてから想像する、フィーに胸が付いたようなものか? (その想像は成長しない私に、とても失礼だとは思わないのかしら?)  男勝りは否定しないのか。 「ですよね。じゃあ私なんかどうですか?スタイルはいいですし、男勝りではないですがしっかり尽くしますよ」 「すまない、気持ちは嬉しいが本当は同性しか愛せないんだ」 「いやまぁどうでもいいんですけどね、こっちが本題じゃないわけですし」  相変わらずめげる様子すら見せない女だ、今の自分を犠牲にした冗談をどうでもよさげに流されて傷ついているのはこちらなのだが。 「何故私を助けたんですか?」 「……既に説明しただろう、人攫いだと思って助けた報酬を期待したんだ」 「助けるどころか関わろうともしなかったじゃないですか」 「演技に決まっているだろ」 「本当ですか?」「あぁ」 「演技だったんですね?」「あぁ」 「お金が欲しかったんですか?」「あぁ」 「でも実は嘘」「あぁ」 「可愛い子見て突然ムラムラしちゃった?」「あぁ」 「もう孕ませたくて堪らない?」「あぁ」 「え、本当ですか。じゃあ今すぐ私の家行きましょうか!」 (……おいフィー、どうにかしてくれ) (今時稀に見る積極的な子じゃない、付き合ってあげれば?) (そうじゃない) (わかってるわよ、さっきみたいに適当に答えればいいじゃない) (その結果がこれじゃないか) (嫌なら面倒でも本音を言えば?) (お前に煽られるまま気まぐれでやったってのに、俺自身の本音があるわけないじゃないか) (あなたは煽られただけで命を賭けるような人柄だったかしら。多少なりとも私の言葉に思うところがあったのでしょう?)  あの時フィーが言った言葉は「理性で感情を抑えつけて」素直に受け止めるとつまりは、俺自身がその時やりたいことを、他者の視線で、もしくは自らの未来を見据えてやるべきでないと切り捨ててしまおうとした。そしてこの場合俺のやりたいことは、 「答えたくなければいいんですけどね、ただ好きな人の考えていることを少しでも知りたかっただけですし」 「吊り橋効果って知ってるか?」 (あ、思考から逃げた)  五月蝿い。 「もちろん知ってますよ、極限状況下における一組の男女が恋愛感情を錯覚するものですよね」 「知っていて何故そうする」  この言葉が何か気に障ったのか、彼女は感情を剥き出させた。 俺に対して初めて、冷静に、獰猛に、悲しげに。 「……別に錯覚が恋の始まりだっていいじゃないですか、ずっとずっと待っていたんですよ、あなたのような存在を幼い頃から、何度も何度も」 「ウィル殿、少し話があるのじゃが」  そこで空気を読んでか、読まないでか村長が現れ言葉を遮る。個人的には助かったのだが。 「ティアも一緒に来てくれるかね」  はい、と少し感情的になり過ぎたのか、目の端の雫を指で弾き彼女は立ちあがり、二人で老婆の後ろに続いた。 「お礼の件じゃが、まずはその傷が癒えるまで生活を全面補助しよう、良ければ好きなだけ衣食住気にせず暮らしていただきたい。その上で別に何か渡したいのだが、どんなものがよろしいかね?この村の者全員、飢えて死ぬことにならなければ喜んであるものを差し出そう」  ありがたくもそろそろこちらから切り出そうとしていた報酬の話をしてくれる、厳密に依頼人として村を救って欲しいと言われたわけじゃないが、五日も歩き、娘一人どころか村全体を救った際に腕まで折った。そこまでして自分が勝手にやったことですから報酬はいりませんと、慈善事業を行ってはやりきれなくてたまらない。しっかり働きの対価として貰えるものは貰っておくに限る。 「丁寧な対応に感謝する、まず滞在だが完治とは言わずともある程度治るまで厄介になる。別の報酬だがあの赤い指輪、それと嵩張らずに金になりそうなものは遠慮せず貰おう」 「その程度で構わないのかね、大きいものでも欲しければ人をつけて運ばせるし、ましてや我々に不要な指輪など」 「あぁそれだけで構わない」 (腕三、四本折っても指輪二つだけで十二分にお釣りが出るでしょうに) (強欲と罵ってくれても構わないが) (別にいい心がけじゃない?この様子じゃ村もたいして困らなそうだし。それどころか働かずに永住しても許されそうよ、この際ここに腰を据えない?) (……返答は必要ないな)  反骨極まりない態度にフィーは、何度この問答をさせるのだと、不満というよりも、何度叱りつけても意図的に同じ過ちを犯す子供を見るような、そんな容姿には不相応過ぎる母性溢れた表情で俺を見下すのだった。 (そうね、いい加減その思考はやめたらいいと思うわ。確かに悲しむことは減るだろうけど、あなたの為にならないわ)  彼女の言い分はわかる、きっとそのほうが自らに有益なのも理解できる。しかし、それでもなお、素直にはいと頷くことはできなかった、今はまだ。 「そうおっしゃるならわかりました。して滞在するにあたって何かと不便がありましょうぞ、ましてやその左腕、ただ生活するだけにもままならないことが多くあることでしょう」  嫌な予感がする。 「お嫌でなければそのティアを、付きっ切りで身の回りの世話をさせましょう」 「いや、それには……」 (おい) 「……何から何まで感謝します、ティアも嫌でなければ是非よろしくお願いしたい」 「え、いいのですか?いや、喜んでお世話させて頂きますね、こちらこそよろしくお願いします」  二人ともが頭を下げ合うという奇妙な光景に、何故か満足そうに鼻を鳴らすフィーが、そちらを見なくとも安易に想像できた。  夜、昼過ぎまで寝ていたせいか、村が寝静まっても未だ目が冴えており、軽く睡魔が訪れるまで歩くために外に出た。 光源は所々に火が焚かれているだけで、月明かりが無ければ歩くことに不便を感じただろう。その分少ない光源のお陰で、頭上に広がる星の海は大きな町から見えるものとは格段に規模が違う。  特に用もないわけで、星を目に焼きつかせながら村を回っていると、門の付近に人影が立っているのが見える。こんな時間に誰かがいるとは思わず、多少の警戒をしながらそちらに向かう。  はっきりとその姿を捉えると、その人物が宴でも見覚えがあることに気づく。恐らく印象に残っていたのだろう、明らかにこの村とは違う血の流れている風貌と、戦いを知っているだろうその気配を。  気配といってもオーラ等の非科学的なものではなく、仕種や表情などのこと。自らの手で人を殺めたり、殺める為の訓練をしたことがあるものはそれらが違う。 「こんな時間に何をしているんだ?」 「おうこれは旅人さん、俺は普段通りに仕事をしているだけだぜ」  いやに陽気に返事をした男は大体三十半ば辺りの年齢か、短く切りそろえられた茶髪に、顔からは比較的大らかそうな印象を受ける。その顔はアルコールのせいか真っ赤になってはいるものの、酒に呑まれているわけではないらしく理性が感じられた。体格もがっちりとしていて、決して愉快なおっさんとは言い切れない。 「あんた昼間から起きていただろう?今日ぐらいさぼったって村の連中も許してくれるさ」 「それは理解して気楽にやっているさ、お前もいるか?」 「いやけっこうだ、昼間にこれでもかと飲まされた」  酒と思わしき液体をのどに流し込むのを見て、そんな赤い顔をしてまで見張りをする意味があるのかと問い正したくなった。 「ところでお前さんすげぇな、一年前にここに来て、それから自分なりに村を少しでも良くしようと思ったが、あんたは来てから一日でその元凶を潰しちまった、俺にはとてもじゃないが真似できねぇ」 「別にそれが普通だろう。俺は若く愚かで、たまたま運が良かっただけだ」 「そこまで理解して自らを愚かと称するか、流石村の英雄様は違うね」  敵わねえやと、恐らく残っていた酒を全て飲み干し咽る中年の男。 「村も戦うことを覚えたし、しばらくしたら俺も仕事が無くなるな」  割と死活問題の気もするが、この村をそれなりに見てきた彼は素直に笑った。  見た所この村は、争う精神も、技術もなかったのだろう。しかし今回の俺が一つのきっかけとなり精神は手に入れた。技術を会得するのもそう遠くはなく、きっと俺達のような余所者が居なくとも、自分達の力で自衛できるようになるだろう。 「そこに至るまではあんたの仕事だろう、たっぷりやる気ある連中をしごいてやれ」 「そうだな、それは楽しそうだ」  何を想像したのか笑みを漏らすと、少し寂しげにポツリと漏らした。 「……もうここは居づらいな、少し俺には眩し過ぎる」  酔いに舌を滑らした失言だったのか、表情に笑顔とは裏腹な憂いを見せた彼が、無言で村の外に向き直るのを確認し、俺も黙って帰路についた。 「今日からこちらを使ってくださいね」  翌日案内されたのは、今は使われていない空き家。 「前の持ち主は?」 「他の家で幸せな家庭を築いていますよ」 だからだろう、いくつか必須と思われる物が見当たらないが、短期滞在するには問題ないだけの家具は残っていた。それ以外に目新しいものはそこら中に適度に被った埃だけか。 「掃除が必要だな」  埃にまみれて寝るなど考えたくもないし、必要なく置かれていっただろう調理器具や食器を見ても、流石にこのまま食事をしたいとは思わない有り様だった。 「それは私がやっておくので、どこか暇でも潰してきてはいかがですか?」 「いや、手伝うよ」  今までの生活を思い出してみれば、常に仕事か体を休めていただけで、たいした趣味も無く、ましてやこの何もない村でいきなり手持無沙汰に陥っても逆に困る。それに身の回りの掃除すら全て他人に押し付けるのは性に合わず、嫌なしこりを胸に抱いて食事をする様子を想像するのは難しいことではなかった。 「そうですね、じゃあお願いします」  内心見透かしてか彼女らしくなくあっさりと認める。 そして二人で掃除を始めるのだが、普段一定の場所に留まらない俺の掃除の手際がいい訳がなく、更には左腕がまともに動かないことに四苦八苦しているうちに、ティアが九割片づけた上で洗いたての器具で昼飯まで作ってしまった。 「ん、美味いな」 「そう言っていただけると嬉しいです」 「ほら、自分でも食ってみろよ」 「では失礼して」 すっかり使用人気分なのか、作っておいて調理台に置いたままだった料理を取りに戻る。 「共に食事をとるのは面倒ではありませんか?」 (人間アレルギーだと思われてるわよ) 「別にその程度どうとない、毎日でも食べたいぐらいだ」 「そこまで言って頂けるとは、では毎日作らせていただきますね、他で食べる時は一言いっていただければ」 「別にわざわざ言わなくてもお前なら察するだろ」 「まぁそうですね」  俺好みに濃い味付けでスープを口に運びながらそう答える。この味も恐らく昨日の宴での様子を見て見抜いたのだろう、ティアの洞察力のなせる技か、はたまた恋する乙女は恐ろしいということなのか。 「この後はどうなされますか?」  その後、終始無言で食べ終わった料理の後片づけをしながら、ティアはそう尋ねた。 「村の中でも見てみようと思う」  昨日酔いどれが語った新しい仕事がどうなっているかが気になる。 「案内が必要ですか?」 「いや、今日はいいよ。明日は昼前に出て村の仕事を見て回りたいからその時頼む」 「わかりました、いってらっしゃいませ」 「あぁ、あとは頼む」 「はい」  まるで疲れなど見せず洗い物をするティアに、片腕では完全に役立たずの俺はさっさと背を向けるのだった。  当然のように、もうしばらくしたら日が赤く染まり始めるような時間帯に仕事をしている者などおらず、楽しそうに走り回る子供達と、それを見てくつろぐ大人達に挨拶をしつつ、聞き出した村外れへと向かう。  聞いていた通りやる気ある十名前後の若者が、昨日酒を飲みながら仕事をしていたとは思えない男に、罵声を飛ばされながらも体を動かし続ける光景が広がっていた。  邪魔にならないように木陰に座りながら様子を見る。 ほぼ独自で編み出した戦術で感覚的に戦う俺とは全く別に、どこかでしっかり訓練を受けていたのだろう、安定した体作り、そして基本戦術を教える男は間違いなく他者を鍛えるには自分より適しているのが分かる。 (ウィルも一緒に一から鍛えてもらえば?) 「長い間このスタイルで戦いすぎて、今更どうにもならないだろう、この獣じみた戦い方は」 (まぁ私もそう思う、今更どうにもならないわね。それで本音は?) 「腕折っているのだから、たまには長期休暇と洒落込みたいのが半分」 (半分?) 「……八割」 (素直でよろしい、今まで一心不乱に頑張り続けて来たもの、もっとこうして過ごしても誰もあなたを責めないわ)  責めない、ね。ふと浮かびそうになった懐かしい顔ぶれに囚われる前に、仕事後だというのにまだ頑張る若い連中に意識を向け、温かい陽光に誘われつつ、退屈に欠伸を漏らした。  空が赤く染まり、初夏にもかかわらず木陰では肌寒くなってきた頃、ようやく終わったようで人が散り始めた。  仕事と訓練で流石に限界らしく、足を引きずるように移動する背中を見送っていると、指導係がこちらに向かってくる。 「お前さんも」「ウィルだ」 「リグレットと呼んでくれ。ウィルも随分と暇だな、なんなら一緒に手伝ってほしかったものだが」  リグレットと名乗った彼は、一人では手が回らないと困り果てた様子ではなく、二人でやったほうが楽しそうだと言いたげな表情をする。 「俺は生憎人生初の英雄様期間を堪能中でね、わざわざ同年代の連中に罵声など浴びせる暇などないのさ」 「その英雄様が見ていることを自覚するだけで、あいつらは更に倍の力を出せただろうよ」 「そして疲労で明日は寝込むと」 「まぁそういうことだな」  軽口を叩いてはいるが、先の様子を見るに明日は一日ぐったりしている人間がいるだろう。村を守るという決意は素晴らしいが、熱意に振り回され本来の仕事をしなければ意味はない。 「どうだ、様子は」 「まぁまぁだな。図体がいいとは言えない連中だが、それでも熱意で自分のものにするだろう。二年も溜めた鬱憤だ、せいぜい爆発させるべきだと思うね」 「そうか」  不本意とはいえ俺が焚きつけたようなもの、その言葉を聞いて多少なりとも安堵した。 (無理そうだったら君なりに頑張ろうとした?) (さぁね) (私との間ぐらい素直になりなさいよ)  気持ちの悪い笑みを浮かべるフィーに呆れつつ、リグレットに別れを告げて家に戻った。 「ごちそうさま」  家に帰ると当然のように夕飯が作られていたわけで、時間まで調整したのかと、疑問が浮かぶ温かさの料理で体を満たす。 (あそこにいた時周りを確認した?) (確認した時にもし見つけていたら、俺は既にこいつを叩き出している) (実は君でさえ気づかないほどに気配を消すのが上手いとか) (……冗談はやめてくれ)  冗談ならいいわねと、気味の悪い笑い方をしながらフィーは消える、今日はもう出てこないつもりなのだろう。 「それじゃ服を脱いでください」 「えっ?……いやなんでもない、頼む」  直前の会話が会話ために為過剰に反応してしまうが、ティアの持っているタオルを見て納得する。片腕で拭くことのできない個所の垢を落としてもらい、自分で仕上げ、そして残りの洗面を済ます。  その間に彼女が布団を敷いてくれたのだが、違和感を覚える。 「何故二つ布団があるんだ?」 「一つが良かったですか?」 「……いや、もういい。頭が痛い、さっさと寝よう」 「はい、おやすみなさい」  してやったりといった顔を隠すことなくランプを消し、ティアが横になるのを確認して俺もそれに倣う。  きっとあの老婆は世話をしろといっただけで、共に暮らせとは言っていなかったが、意図的に隣の女が曲解したのだろう。  まぁ、布団の隙間自体は十分空いているわけで、特別普段との差を意識する必要もないだろう。極論襲われさえしなければ構わないので、まず問題はないだろう……問題ないよな?  普段の生活よりも早い就寝の上、幾分かの不安を抱えつつも、まだ体から抜けきっていない一昨日までの疲れのせいか、気づけば意識は落ちていた。  軽快に物を刻む音や、お湯が湧く音で意識が覚醒し始める。 いつかこうして目覚めるような、家庭を持つことになるのだろうかと、現状では全く想像できないイメージを描こうとして飛び起きる。慌てて衣服と体を確認するが、どうも異変はなく、無事に朝を迎えられたようだ。 「おはようございます、左腕でも痒いですか?」 流石に勘のいい彼女でも、明後日の方向を向いた思考は想像できなかったらしく、無難に勘違いしたようだ。 「おはよう、少しな」 「ちょっと待って下さいね、今見ますから」  否定して、じゃあなんですかと問い詰められるとボロが出そうで、勘違いに乗らせてもらうことにする。 「お待たせしました、腕を見せてください」  少しずれていた包帯を直してもらう間、なんとなく間近にある彼女の顔を見る。垢一つなく、顔色を良く見せる程度にだけ化粧してある姿は非常に好感が持てた。 「もう洗顔も済ませたのか」 「そうですよー、ウィルさんの女性への期待を私が裏切るわけにはいきませんからね」  そういいマニュアルに載っていそうな笑顔をするティア。別に思春期に入ったばかりの男子が、思い描いているような女性像を抱いた記憶はないのだが。 「歯に野菜が引っ掛かっているぞ」 味見の名残か、普段ならわざわざ他人に指摘するものでもないが、先ほどのように言われてしまったらからかってみたくもなる。それに対しティアは珍しく少しだけ頬を朱に染めて、わざとですと言い訳を吐き捨てて立ち上がる。 その普段とは違い抜けた姿に、僅かにどぎまぎしていると唐突に振りかえってきた。 「可愛いと思いました?」 「あぁ、少し可愛いと思った」  その頬に先ほどまでの恥じらいは見えず、投げやりにそう答えるしかなかった。 (どう思う?) (……五分五分ね、まるでわからない)  素か意図的かと二人で思案していると、その間に出来上がった料理を運ぶティア。その仕草は心なしか気分がよさそうだった。 (九対一で素ね)  確信は得られないのか、一は残っているのが素直だった。  朝食を終え片付けを待つ間に、収納こそできないものの最低限はと布団を畳む。その後随時拭かれ終わって行く食器を慎重にしまう。  ありがとうございますと見当違いな礼を流しつつ、村を見て回る為に外に出た。 「各自の仕事を見て回るんでしたよね」 「あぁ、これを機に普段見ることのない仕事を見てみようかと」 「素晴らしい考えですね。ではさっそく行きましょうか、皆も喜ぶでしょう」  外に出て、近場から軽い説明を受けながら案内してもらう。まず村の中だが、布や家具をそれぞれ一ヶ所に固まり、知識と技術を共有して作っていた。そして少し村の外周で家畜から乳や毛を取る、たまにだが家畜を近くの川で潰し肉や皮を剥ぐこともある。更に村から離れると、野菜や果物の畑が広がり、村の大多数がそこで汗を流すことになる。ちなみに普段食べる肉の大多数は、近くの森で狩りをして手に入れるそうだ。資材や土地柄の要因から町と比べ、狩りの方が小規模の村では優先されるらしい。  こうして各自が生産したものを、それぞれ必要性に応じて村全体で配分するらしい。普段の金銭に変換する工程を挟まないだけで、少し温かみを感じるのは気のせいか。  村を回り終わり最後に寄った畑で貰った林檎に二人で齧りつつ、すっかり人の気配も感じられない村外れの木陰で、昼食を作り始める時間を待つことにする。 「それでお前の役割は?」  仕事というよりも、村という一つの共同体が各自の役割をこなし支え合っている事実を認識し、仕事という言葉をなんとなく避けて素朴な疑問を尋ねる。 「私ですか?私は……なんでもしましたね、人が足りない所に常に行きました」 「そんな立場の人間が他には?」 「いえ、私ぐらいですね、自らに適した役割を各自がこなしているわけで。緊急で人手が必要な時は皆助け合いましたが」 「じゃあなんでまた。たとえ全ての役割をこなす才があったとしても、一種類の役割に集中した方が楽じゃないのか」  彼女が日毎に必要な場所を支援しに行くことが、たとえ全体の作業効率を上げたとしても、彼女自身の技術を学ぶ量は何倍にも膨れ上がり、昨日とは違う役割に順応するために、リズムを整える手間まで出てしまう。  そう考え尋ねると一旦ティアは言葉を詰まらせる。視線を泳がせながら、そして少しずつ、答えづらいというよりも答えを解きながら言葉を繋ぐ。 「……なんて言えばいいんでしょうね、退屈が嫌い?」  退屈が嫌い、ただそれだけの言葉でも、ただそれだけだから何通りにも解釈できてしまう。  理解しようと思案しているとそれを見てか、何かを決断するように目を閉じ、一つ深呼吸をして彼女は会話を再開する。そこからは長年水をため続けたダムが決壊するような勢いだった。 「始めから話しましょうか。私この村の暮らしがあまり好きではないんですよ、好き嫌いで括るものではないですけれど。幼いころから想像、物語を考えるのが好きな子だったんです、今でもそうなんですけどね。幸か不幸か毎日自分にはないものを想像すると、だんだん自分の人生に自信が無くなってきて、この世界のどこかにはもっと自分にあった生き方があるんじゃないかって、そう思うと居ても立っても居られなくてまず小さいことから、そう、いろいろな役割を経験すると、今とは違った視線で元の生き方と見つめ合えるんじゃないかって、そうしたら自分の生き方はこれしかない、ってものが見つかるんじゃないかって、そう思ったんです」  怒涛のごとく攻め寄せる言葉の波、呑み込まれないように一つずつ噛み砕いてその言葉の意味を、ティアの想いを吟味する。 二回目か、彼女がこんなにも感情を見せたのは。 (共感できた?) (いや)  できる筈がない、生まれて何十年と悩み続けて来たその苦しみに、こうして吐露された直後に共感できるわけがない。しかし理解ならできる。 (流石に共感できないでしょうね、でも理解はできたでしょう、たとえ彼女しか持たないような悩みでも) (あぁわかっている、この想いは無下にしちゃいけない) (そう、ならいいわ。で、具体的にどうしてあげるの?) (彼女から申し出た時だけ付き合ってあげようじゃないか、その自分の人生に自信を持つ方法に)  その言葉にフィーは心底意外そうに首をかしげる。 (そんなこと言っていいの?まず間違いなく付き合うはめになるわよ) (その時はその時だ、甘んじて面倒を引きうけよう) (君らしくない) (そうだな、自分でもそう思うよ。でも、こうして長年悩み苦しんでいたことを、出会ったばかりの俺に吐露してくれたんだ) (そこまで自覚しての決断なら私から言うことは何もないわ、精々いつか訪れる別れに恐れながら日々を楽しみなさい)  愛情、そう愛情まみれた皮肉に顔を綻ばせつつ、さっさと返事してあげなさいと言わんばかりにそっぽを向く少女。それに答え、普段使わない気を使って言葉を選びながら、俺は声を発した。 「その、なんだ、全部共感できるわけじゃないが、お前が、ティアが感じていることは大体伝わった。一昨日俺が踏み躙ったものもそれだったんだな。悪かった、出会った頃からティアは凄いと思っていたんだ、何でもできて、冷静に自分を見れて、だから少し気を許し過ぎて、何言ってもティアなら許してくれるだろうって思ってしまって。ティアも人だよな、女の子だよな、しっかり意識するよ。だから、ティアも遠慮しなくていいんだ、俺達は使用人と主人の関係ではないし、決して出会ったばかりで凄く親しいとも言えないが、それでもこうやって想いを受け止めることはできるんだ、受け止めるだけじゃない、もしかしたらティアが悩んでいることを解決することも手伝えるかもしれない、遠慮しなくていいんだからな。でも流石に限度はある、その時は俺も正直に言うから、逆に俺が頼んで無理なこともティアは正直に言っていいんだ、無理なら無理、嫌なら嫌。逆に嬉しいことも伝えあおう、こうしてもらうと嬉しい、ああして欲しいなって言えるような、そういう関係になろう、俺達は」  実際こう上手く言葉が出たわけじゃなく、何度もどもったり間違えながらも訂正し、みっともない姿で想いをぶつけた。 それでも最後までじっと視線を絡ませ聞き終えてくれたティアは、返答せねばならないと、何かを言おうと何度か口を開け閉めして、結局言葉が見つからなかったのか、涙を浮かばせるだけで堪えていた感情を、遂に我慢しきれずに嗚咽を零しながら泣きだした。  それを見て俺は、今だけだと自分に言い聞かせながら彼女を抱き寄せる。  いつか、幼い日、誰かにこうしてもらった気がして、今はない記憶に哀愁を感じながら、胸を濡らすティアの頭を撫で、気持ちが落ち着くのを雲でも見ながら待つのだった。 「あの、ありがとう……ございました」  十分とそこらか、もうしばらく続くかと予想していた涙は止まった。切り替えが早いのは、彼女の意識的要因ではなく本質らしい。 「もういいのか?」 「はい、今まで誰かにこうして曝け出せたことなくて、しかも好きな人に受け止めてもらえたことが幸せで、もう十分です」  好き、ね。流石にその気持ちに応えることはできないが、拒絶はしていなことを言葉にする。 「そうか、俺も嬉しかった。こうして人に頼られたことがほとんどなくてさ」 「こんなに迫られて迷惑じゃないですか?」  あんなに長い間頑張って話し続けたのにもかかわらず、未だ人間アレルギーと思われているらしい。自らの行いの代償は重い。 「迷惑ならその時は言う、さっきも言ったがティアはティアの好きなように、やりたいことはやればいいし、やりたくないことはやらなくていいんだ」 (その言葉、自分の胸に刺さらない?) (慣れないことをしているんだ、茶化さないでくれ)  その言葉を彼女はしっかりと噛み砕き飲み込む。 「そう、ですね。それじゃ家に帰って、二人とも見た目を整えましょうか。それから一緒にお昼を作りましょう」 「別に構わないけれど、まともに手伝えないが」 「おバカですね、一緒にやることが大切なんですよ」  俺が乙女心まで理解するのはいつになるかなと、いつもより少しだけ近い距離で、二人笑いあいながら帰路についた。 「ようウィル。余程暇なのか、ティアまで連れて」  夕方、前日とは違いティアと二人で訓練の様子を見ていると、全ての内容を消化したのか連中が解散している中、リグレットは煽り文句を言いながら絡んできた。 「この村が如何に暇をつぶす手段がないか、あんたもよくわかっているだろう」 「町にはそんなに娯楽があるのですか?」  余所者であるリグレットに、普段から好奇心旺盛な彼女は質問攻めをしていたように思うが、実際は盗賊がやってきた時期の後にリグレットと出会ったため、他者から情報を得てまでまだ見ぬ世界を夢想するよりも、現状を打破する空想に溺れていたらしい。  その質問に気さくなおっさんは、いかに楽しいものかを表すように、大げさな身振りを加えて説明する。 「あぁあるさ、市には様々なものが集まって見ているだけで楽しいし、娯楽も全てティアに教えていたらきりがないほどある。おかげで町は夜も眠らず所々で笑い声が上がるのさ」 「へぇそうなんですか」  実際見たことが無ければ想像も難しいだろうに、好奇心旺盛なティアはそれっきり想像の町に引きこもってしまった。 「それで今日はどうだった?」 「見ていたならわかるだろう?」  今日も成果は満足のいくものだったか、先ほどの余韻を違う種類の笑顔で塗りつぶしつつ更に笑う。よく笑う男だ、笑顔が相当似合う。だから尚更、あの夜の最後に酒で見せた表情が気になる。 「指導係様の意見を直接聞きたくてね」 「人数は昨日より増えた、欠席者もなしだ。仕事に支障が出たとも聞いていないし、この調子なら自分達で最低限の自衛をできるようになるまでそうかからないだろう」 「大体どれぐらいだ?」 「二ヶ月ぐらいか。もともと人と争ったことが無かっただけなんだ、人間が如何に驚異か理解できれば自然と自衛できるようになる、俺はそれを手伝っているだけだしな」  二ヶ月、俺も手伝えばもう少し早くなるだろう。 (珍しく慈善事業?) (休暇も三日も続くと飽きる、それなら少しでも動いて、食う飯を上手くしようと思って) (無茶はしていない?)  人一人救う為に命まで天秤にかけて、今更この程度で何故心配するのか。 (していない。それに普段はもっと気を張って暮らしているんだ、たとえ日中動いたとしても休暇とさほど変わらん) (そう、なら好きにしたらいいわ。私も退屈していた所だし) (それに) (なに?) (俺もたまには共同体に属してみたいんだよ、村を救ったからってただ飯食って寝る日々じゃなく、対価考えずに汗流して、お疲れさまって飯食う関係に)  互いに胸の内を見せ合い、男と女であることを意識してどぎまぎする。 なんて繊細な感情は俺にはなくて、食後に横になっていれば、いつの間にか寝ていたらしく朝日が昇っていた。  朝食を食べ終え洗顔を済ませると、俺は畑に向かうことにした。昨日で下見し、一番片腕でも成果を上げられると感じたのが畑仕事。作業量はもちろん他人の半分だが、俺が働くことでティアも働くことができ、なおかつ勝手に皆の士気が上がる。  隙を見せれば周りが作業を奪おうとするので、なんとかそれを阻止しつつお昼。一旦家に戻り食事を済ませると、次はリグレットと合流する。昨日までのように遠くで見ているだけではなく、彼と肩を並べ指導を手伝う。時たま意見を言えば、それが間違っていても正しくとも、それを共に受け入れることでどちらかの糧になり、充実した時間を過ごすことができる。そうして一日体を動かして家に帰ると、空腹で上乗せされた味の料理と、気持ちよく眠れる布団が迎えてくれるのだ。  そんな日々を一月もすれば、気さくに話せる友人ができる程度には村にはすっかり慣れるし、リグレットとは半日、ティアとは丸一日過ごすわけで、皆との仲が深まるのに長くはかからなかった。  しっかり行った訓練のお陰か、最近の夜の見張りは交代制で、リグレットも朝から起きるようになる。それから昼は毎日、夜は気が向いたら三人で食事を楽しむことになっていた。  そして今日、腕を固定する包帯も最低限になっていた俺は、昼食時に二人にこう切り出した。 「明日村を出ようと思う」  共に生活しているティアはなんとなく察していたのだろう、特に驚きこそしなかったが、少し影を曇らせる。それに対しリグレットは至極当然な反応をした。 「……なんでまた急に」 「急にじゃないさ、そろそろ出ようとは前から思っていた」  ティアと出会い、人との触れ合いを極端に避けることはなくなったが、避けようと思った原因は解決していない。 それに頃合いだ、理由の言い訳にするようだが俺は本来旅人だ、一ヶ所に留まることはやめ、同業者の少ない危険な仕事に身を戻すべきだ。少なくとも仕事として成立していたということは、誰かに求められるということなのだから。 「その腕が完治してからでも遅くはないだろう?」 「俺は本来旅人だ、ここには長く留まり過ぎた。しかしこの左腕だと流石に不便があるだろう、だからこうしてあんたに話しているんだ」 「俺に左腕になれと?」  肯定に頷く。 「別に左腕と同じく四六時中縛るつもりはない、腕が治るか商業都市に着くまででいいんだ。あんたにも悪い話じゃないと思うだが」  あの夜に見せた憂いは、彼と過ごす中で度々見ることになった。立派な大人が隠しきれないほどの負の感情、それが一月以上も続くとなれば一時的なものでは確実になく、この村に来てから、もしくはこの村に来る前に背負った重荷なのだろう。ならばここに滞在して治る見込みは極めて薄いことになる。 「確かに。もうこの村に俺の居場所はないだろうし、優しさに甘えるつもりもない。そうだな、ついていくよウィル……いい機会かもしれないしな」  それを自覚してかは知らないが、いい返事が返ってくる。 「そう言ってもらえると助かる。今から長に話をつけて来るから、後片づけよろしくなティア」 「……あ、はい。いってらっしゃい」  まだ話が続くと思っていたのか、拍子抜けしたような返事が返ってくる。 (かわいそ) (俺からは言わないさ、必要なら必ずあいつは自ら言うだろうし)  そこからは忙しかった。わざわざ騒がれたくない為に前日に報告したのにもかかわらず、小さい村では瞬く間に話は広がり、準備をする間に何度も村人の別れのあいさつに顔を出さなければならなかった。やっと終わらせると夜も遅く、慌しく食事等を終わらせると、一息つく代わりといわんばかりに寝る時間になった。  ランプを消しまどろみ始めると、ようやくティアが話しかけて来た。 「ウィルさん、起きてます?」 「あぁ」 「あの、迷惑だとは思うんですが……」 「あぁ」  余程言いづらいことなのか、それっきり黙りこんでしまう。 「ティアは」 「なんでしょうか」 「ティアはどうしたい?迷惑だとかそうじゃないとか以前に」 「……ついていきたいです。見たことない世界を見たいです、まだまだ一緒に居たいです」  返事は力強かった、感情に流されるわけでなく、理性的に。 「そうか、じゃあ一緒に行こう。明日はいつもより早く起きて二人で準備をしよう」 「ありがとう、ございます」 「まだ素直になるのは難しいな、二人とも」 「そうですね。こんなに長い間一緒にいるのに、それでも難しい」  この世界に人々はたくさんいるけれど、誰かを完全に信頼できる人はどれほどいるのか。 家族、俺には馴染みのない言葉だが、ティアの家族は人柄こそ悪くはないけれど、彼女特有の悩みを受け止めることはできなかったそうだ。あれ程人がいい血を通わせた親しい人物でも、信頼する第一歩すら踏み出せない。 にもかかわらず意図的な一目惚れをしたティアは、その相手である俺を信頼しようと前に進み続ける。それに対して釣り合う信頼に、俺は答えることができるのか。 (なに今更不安になっているのよ)  伝えようとしたわけではなかったのにフィーは反応した。自覚はできていなかったが、それほどまでに不安が大きかったのか。 (いや、ティアの信頼に答えられるのかなと) (別に彼女、答えてほしいと思ってないんじゃないかしら。無償の精神が、君には理解できないかもしれないけれど) (今の俺には少しだけ理解できる、何日村で汗水垂らしたと思っている)  その見下した態度に不満を感じ、こちらも負の感情を隠さず言葉をぶつけたら、返ってきたのは優しい頬笑みと言葉だった。 (そう、しっかり成長しているのね。なら君が答えたければ自然に答えられるだろうし、なにも気にすることはないわ) (確かにそうだな、俺もまだまだティアを信頼できていないみたいだ) (己の未熟さを理解できたら寝なさい、期待や不安で寝過したら、出発時に皆から指を指されて笑われるわよ) (……それは考えたくもないな。さっさと寝ることにするよ、おやすみフィー) (おやすみなさいウィル、また明日)  明日、明日は日常が変化する日だと意識せざるおえない言葉。 「そろそろ寝ましょうか」 「あぁ、おやすみティア、また明日」 「はいウィルさん、また明日」 その言葉を最後に、残っていた胸のしこりが取れ、すでに限界まで来ていた睡魔に抗うことを止めた。 2.天使と魔族 夢を見ていた、久しい旅の感覚と、久しく感じるある不安。その二つに呼び寄せられてか、夢には懐かしい顔ぶれが揃っていた。 目の前に広がるのは自分自身の幸せそのもの、温かな人々。その幸せに俺は決して手を伸ばすことはできなかった、手を伸ばそうとは思わなかった。気づいていたから、これが夢だと。普段明晰夢とは無縁なのだが、それでもなお彼らが過去の残滓だと気付くことができた、それほどまでに彼らの死は俺に根付いている。 おいどうしたんだよ、一人離れてないで楽しく皆で飲もうじゃないか。 二年分小さくなった俺の頭を、本当の息子のように撫でながら楽しげな輪に入れようとする優しい手、一瞬その手を受け入れそうになり、慌ててその手を払いのけ、これは夢だと意識する。少しだけ、不安と幸せが遠ざかった。 すまん、気に障ったか? 自分が悪いのに、本当に申し訳なさそうに気を使ってくれる、その悲しげな表情に胸が張り裂けそうで、堪らず背を向けて走り出した。どこでもいい、どこでもいいから遠くへ、どこかあの幸せが届かない場所へ。 出会いや触れ合いが幸せなように、別れは悲しいもの。それだけじゃなくその二つは比例し合い、幸せな分だけ悲しみは大きくなる。それなのにもかかわらず、たったあれだけのやり取りで、こんなにも走り続けている僕の胸は痛い。 あれだけでも胸を悲しみが突き破り死んでしまいそうなのに、これ以上の悲しみなんて想像すらできない。 いや、想像できないどころじゃない。既に俺は体験していたじゃないか。 だから俺は人を避けていたんじゃないか、少しでも悲しみを減らす為に。 それなのに、それなのに…… 「……んっ」  言い表せぬ恐怖から意図的に目覚め、知らず知らずに肺から足りなくなっていた空気を求め喘ぐ。呼吸が落ち着いても流れる汗はすぐには止まらなかった。 (……おはよう、君も最悪な目覚めのようで) (同じ夢を見ていたのかもしれないな、お前も酷い顔色だぞ)  血色はわからず汗も流すことはないが、それでもフィーは調子が悪いと、一目でわかるほどに酷い表情をしていた、鏡があれば同じ表情が浮かんでいただろう。 (あの人達の?)  同じ人達を指しているだろう、額を拭いつつ肯定する。 (それでどうするの?) (どうするも何も変わらないさ、このままだ)  夢が原因で二人と別れる?馬鹿馬鹿しい、と普段なら一蹴するところだが、夢を見た直後で感情的になり過ぎているのか、きっかけさえあればそうしてしまう気がする。 (そう、覚悟だけはしておくことね。明日かもしれない今すぐかもしれない、別れなんてものはいつも唐突よ) (フィーお前最近おかしいぞ、建設的じゃない意見が増えている) (そう感じたのなら君が成長しているのよ、私はいつまでも変わらないから。成長したように見えても根本だけは変わらない、私はきっとそういうものだから) (自分をそんな風に言うのはよせ)  嬉しそうに、そして悲しそうに言うフィーを見ると寂しさを感じ、堪らずその言葉を否定する。  ガサガサと草むらが揺れるのが聞こえ、最後の見張り順だったリグレットが姿を現す。 「凄い汗だぞ、体調でも悪いのか」 「いや、少し嫌な夢を見ていただけだ、すぐ落ち着く」  渡されたタオルで汗を拭きつつ答える。 「そうか。そろそろ飯にしよう、ティアを起こしてくれ」  隣を見ると昨日最後に見た時は、俺と同じように木にもたれ寝ていたはずのティアは、服が汚れるのも構わず草むらにうつ伏せで伸びていた。 「おい起きろ、朝だぞ」  声をかけるとビクンと反応はするもののすぐには起きられないらしく、少しでも覚醒の手助けになればと体を擦り体温を上げる。 「ありがとうございます、もう大丈夫」  全然大丈夫そうではない顔色で、のっそりと起き上がり体に付いた土や草を払い落す。 「お前の望んでいた冒険の、目覚め初日はどうだ」 「最悪ですね、疲労は予想通りですがここまで汗と虫で痒いものとは」 「朝飯は用意しておくから汗だけでも拭いてこい」 「お言葉に甘えそうします」  タオルと水を取り出し俯きながら離れる背中を見送り、三人分の朝飯をリグレットと共に用意する、用意といっても干し肉やパンなどを人数分に分けるだけだが。 「案の定酷い顔だったな」  何故か嬉しそうなリグレット、教え子か我が子を見るようなものか。 「まぁそうだが起きられただけ十分だ」 「あと二日倒れずに歩けたらいいんだがね」  それはそれでと、トラブルすら楽しめるのか笑い声を大きくする。 「流石に倒れるわけにはいきませんよ、見張りまでせずに休ませてもらっていますし」  笑い声に反応したかのように戻ってくるティア、その表情は疲労こそあるもののいつも通りのものだった。 「まぁキツイ時はすぐ言えよ、置いていくから」  ティアに食事を渡しつつ自分の分も口に運ぶ。乾燥し味が薄い肉を失望と共に水で流しこむ。噛み足りなかったようで呑み込むのに少し苦戦した。 「そこは看病とまでは言いませんが、せめて担いで連れて行って下さいよ」 「勘弁してくれ、人一人担いで歩いたらすぐに潰れる」 「そのときはリグさんが私達を背負って村まで辿り着いてくれますよね」 「おう任せておけ、三人で潰れてのたれ死のう」  冗談が冗談のままでと祈りつつ食事を終え荷物を背負う、最後に右腕で太刀を持てば、後に食べ終わったティアでさえ準備が終わっていた。 「すみません、本当は私が先に食べ終わり左腕の代わりになるはずなのに」 「お前が旅に慣れるのが最優先と三人で決めたんだ、悩むぐらいならその時間を自分の為に使え。まだ柔らかい布団まで二日あるぞ」 「ちゃんとわかっています。にしてもあと二日ですか」 「よっと。なんだ二日は厳しいか?」  なりゆきから三名の中で最も多い荷物を背負うリグレット。俺より体格が良くて片腕も無事なら当然か、まったく苦にもならなそうな様子を見ると、自らが足を引っ張っているほんの少しの罪悪感は霞んで消えた。 「いえ、と否定しきれないのも悲しいですが違います。以前ウィルさんが私の村に来る時、五日ほどかかったと言っていた気がしたのですが」 「リグレット」 「あぁそれな、俺が来たときは面倒で山とか丘とか迂回しないで進んだんだが、それが近道だったのか三日で済んだんだ」 「直進より迂回の方が手間取るとは とんでもない地形ですね、だから異常に私の村は来客が少なかったんですね。ところでその辿った道の地図とかあるんですか?」 「いや、ないが俺の頭にあるなら大丈夫だろう」 「……それってもし記憶違いだったら」 「五日以内で済めばいいな」  遭難は物事を慎重に行おうと、日頃の思想を見直した原因の一つではあるが、出発前に散々意見したのにもかかわらず、数年前の記憶を決して疑わないリグレットを今更止める気力は俺にはない。 もし仮に遭難し、餓死寸前まで至ってしまったら初の食人記念を彼に贈呈しよう。 ……軽く想像して体が吐き気を感じる、冗談でも知人を食すなんて考えるものじゃないと、新しい教訓を胃で体に刻む。 世の中には嫌なのに生き延びる為に、人を食わざをおえなかった人々の話が稀にある、俺がもし、その状況に陥ったとしたらどうするだろうか、食べても生き延びるか、食べずに死ぬか。きっと答えは出せるはずだったが、今は考えないようにした。  一見高くそびえる山も、登ってみればそれほど高度も無く歩きやすい地形をしていて、そんな山を下りたり登ったりしながら二日間歩いた。 その間、流石にリグレット以外誰も登ろうとはしないのか、盗賊どころか人っ子一人見当たらず、たまに出て来る危険そうな獣を爆竹や、ティアが護身用にと持ってきた短弓で追いはらいながら進んだ。  そして昼過ぎ、見慣れた景色が眼下に広がり、しばらく歩けば目的地も見え、俺とティアはほっと胸を撫で下ろすのだった。  疲労で朦朧としているティアの為にも、真っ先に宿に向かい部屋を借りる。彼女がすぐに再度動けるようになるか不安だったので、ひとまず三日分の滞在を宿の主に伝えた。 「これなんですか?」  部屋に入るなり彼女は尋ねた。 「ベッドだ、その上で横になって寝る」 「へぇこれがベッドですか、ふかふかで居心地がいいですね」  知識としてはあったのだろうが実物を見るのは初めてだったのだろう、宿の主だって安物だと肯定する寝具を全身で味わい安らぐティア。予想通り瞬きをする間に彼女の意識は深く落ちていた。 「無防備すぎるだろう」  服ははだけたままで、そのまま眠ってしまったティアに布団を被せる。 「なんだ、襲ってしまいそうか?」 「冗談、この程度で襲っているなら既にやっている」  リグレットは呆けて瞬きをし、言葉の意味を理解してから口を開く。 「……まだやってないのか」 「付き合ってすらいないのに何をするというのか」 「付き合ってすら……お前面白い奴だな」  何が面白いのか盛大に声を張り上げ笑う、一瞬ティアの方を見るが全く意識が戻る予兆はない。 (君の甲斐性がないのを笑っているのよ、あんなに長い間想いを寄せて来る異性と、一つ屋根の下に居たっていうのに、ねぇ?) 「いやいや笑ってすまなかった、普段の様子を見てすっかり勘違いしていたようだ。まぁそういう関係も特殊ではあるが悪くはないんじゃないか」  俺は何を言えばいいのだろう。 「ここまで気持ちがいいのは久し振りだ。まだ大丈夫なら今から下で酒でもどうだ?」 「付き合うよ、寝る前にしばらく食べられなかった味の濃いものが食べたい」  宿の下にある酒場に降り、料理が届くのを待っている間に、久し振りだからかリグレットは味わう暇もないほどに酒を飲み続け、料理が届いた頃には既に出来上がっていた。  未だに酒を飲み続けるリグレットを放っておいて、質の悪さをごまかす為に異常なまでに香料を使われた肉にかぶりつく。鼻孔に広がる刺激の強い匂いと肉の脂が喉を滴り、胸にささやかな幸せが広がる。 「やはり最高だな、旅路の後にはこれに限る」  同意するが料理にも手をつけてから言って欲しいものだ。 「鏡を見てみろ、まだ昼なのに夕日が映る。部屋に戻った時、お前があいつを襲わないように気をつけろよ」 「あぁ、それなら大丈夫だ。俺が愛している女は一人だからな」  村に居る間、見たことも聞いたこともない訳だが。 「なんだ、脳内にでも飼っているのか」 「あぁ、二年前からな。守れなかった、娘と共に目の前でだ」 「……そうか、その思い出大切にしろよ」  ティアがこのやり取りを見たら無神経と思うだろうが、実際親しい人間が死ぬことは、戦う術を持つ人間にとってはあまりにも日常的過ぎる。一々そういった出来事と出会うたびに慰め、慰められるのは両者にとって負担にしかならない。  しかしだ、目の前で己の不甲斐無さが原因で家族を失ったのなら、二年経っても強靭な心についた傷を癒すことには至らないのだろう。 皮肉なものだがその傷に親近感を抱いたのも事実だ。 (似た者同士ね、君は特別な悲劇の主役じゃないのよ) (知っている、それでも俺はその記憶を克服できない)  決して触れ合えないことを理解していても、無言でフィーは俺の頭を撫でる仕種をして気配ごと姿を消した。 「そろそろ食えよ、食べ終わるまで思い出話聞いてやるよ」  それから二時間、二つ目の夕日が顔を見せるまで彼は喋り続けた。妻の話、娘の話、嬉しそうに、悲しそうに、話題も表情も目まぐるしく変わりながら、俺はその様子を、時たま相槌を打ちながら静かに聞いていた。  翌日、流石に呑み過ぎたのか二日酔いに唸るおっさんを部屋に置いて行き、長時間睡眠で歩く程度には元気の出たティアと共に外に出る。 「私の村とは全然違うんですね」  物珍しそうに辺りを見渡すティア。 彼女には悪いがあの村は、集落と表現した方が適切で、この村には石造りの建物が主な上、村の中は歩きやすく道が整えられている。もちろん人口も二倍以上はあり、取引は物々交換ではなく貨幣が主。 これでも目的地である商業都市と比べたら地味極まりなく、辿り着いた暁には彼女は素晴らしい反応をしてくれるだろう。 必要なものを補充した後、結構な量の荷物を宿に置きに戻る。その際リグレットにも声をかけようかと思ったが、相変わらず今にも吐きそうな顔をしているので無視し、二人で下に昼食を食べにいく。 ちょうど昼時だったのかテーブルはほとんど埋まっており、注文した後に最後の席を二人で埋める。 「やっぱり隣の村に来ただけでいろんな人がいますね」  周りを見渡すと多種多様な人間、容姿もそうだが飛び交う言葉にも地域ごとの訛りが混ざり合う。人の視線を気にせずに辺りを見渡し、興味心を満たすティアにはもう慣れたので、俺は俺で料理が届くまで混沌とした言葉の海に意識を泳がせた。  しばらくそうしていると一瞬辺りが静まり返るので顔を上げる、どうやら原因は出入り口付近にあるらしく、そこに意識を向ける。 目に飛び込んできた人物は予想外のものだった。 「後で話すから変な真似はするな」  彼は何ですかと言いたげなティアを黙らせる。  入ってきたのは一人の男、俺と同年代だろうか。俺とは違い適度に伸ばして、清潔感が損なわれない程度に金髪を切り揃えている。糸目に高めの身長、どことなく高貴な存在と認識するがその解釈は間違いなく、その背中にあるものが全てを表している。  翼、真っ白な翼。鳥類のそれとは違い、羽毛は細くまとまり、邪魔にはならないように下に垂れ下がっている。  天使と呼ばれるそれは概念として把握こそしていたが、実物を見るのは初めてで、その上その初めてが片翼と来た。恐らく周りも同様だったのだろう、一瞬沈黙こそするが特に気にかけることではない為、すぐに店内は音を取り戻す。  俺も再び目を伏せ意識を落とそうとしたが、不幸にも足音がこちらに近づいてきた。 「相席いいかな、他に空いていなくてね」 「好きにしてくれ」  思わず周りを見ると、実際テーブルが完全に埋まっていない場所は他にもあった。  再び視線を彼に向けると、先ほどは気付かなかったがどうやら連れがいたようだ。  天使の背後から出て来たのは、長身の男と比べるとあまりにも小さい人影で、その姿を白いローブで覆っている。一瞬修道士かと連想したが素顔すら見えないほどに、目深く被る修道士は見たことは無く、別のなにかだと自己否定。男か女かもわからないだけでなく、年齢も計れないそれの為にも、席が空いていて、唯一女連れだったこちらに来たのだろうと予想ができた。 「リリ座って、何か食べたいものはある?」  リリと呼ばれた彼女、だろうか。彼女は問いかけに反応する素振りも見せず、悠然と一点を見つめ続けた。見つめたと表現するのはおかしいか、そこには何もないのだから。  恐らく日常的なやりとりだったのだろう、丁度料理を運びに来た店員に適当な二人分の注文を頼みこちらと向き合う。 「申し訳ない、俺のせいで君達まで注目を浴びることになって」 「いえいえ、構わないので気にしないでください」 「そうか、ありがとう」  隠そうともしない好奇心を見てか、男は素直に礼を言った。  出会った当初こそ俺を最優先に考え行動していたティアだが、どうやら恐ろしく強い好奇心には優先度が負けるらしく、誰かのように時たま俺の意思を尊重しないことが増えて来た。  別にそれは悪いことではなく、周りを尊重しつつも自分を貫く姿勢は人間としての理想ではないだろうか。 しかし多少の変化が大きくなり、いずれ人の命までを自分勝手に扱うようにならないのかと、ありもしない心配を抱いてしまう。 (最近ティアにまで人権を無視されている気がしてならない) (私に愚痴っても慰めすら返って来ないと予想はできなかったのかしら)  理不尽を強いていたことを、自覚していたとは。 「どうかこちらに気を使わず手を進めてくれ」 「あぁ、そうさせてもらうよ」  この状況で気にせず食えたものではないのは一般的な意見、そんなもの俺には通用せずに口を動かし始めた所で、再び声をかけられる。食っていいのか、よくないのかどっちだ。 「眼帯が少し歪んでいる」  左目を指す仕種と共に伝えられる親切心、食欲に負け短気な感情を覚えてしまったことに恥じつつ、これ以上恥をかかない為にも一度眼帯を外してしっかりと付け直す。 「どうだ?」 「……うん、それでいい、大丈夫」  ニュアンスが予想していたものと少し違うと感じ、ティアの方を見てみると彼女も同感だったらしく、不思議そうに彼を見ていた。 「旅人と見受けるけど、目的地とか聞いてもいいかな」  流石に相方も無口で、料理も届かないのでは暇、というか間が持たなかったのだろう、他愛もない世間話。 「商業都市に向かっている、その途中の村を中継にはさむが」 ぱっと広がる笑顔。 「奇遇だね、俺達も同じなんだ。せっかくの機会だ、一緒に同行させてもらえないか?」  ……流れが怪しくなってきた。確か最近にも似たような経験をした気がして、何気なくティアを睨みつけるが、こちらを見つめるのは嬉しそうな笑顔。こちらの悩み等露知らず、新しい出会いの期待に喜び笑っている。 「この子はしっかりと俺が負担するし、弾避け程度にはなると思うが。なんだったら護衛代として金を払ってもいい」 「ウィルさん、お金を貰うなんてしませんよね?」  既に承諾することが前提である。 (別にいいじゃない、大きく不利益になるわけじゃないし。商業都市までとあちらが決めているのだし、彼らと親しくなりたくないのなら、旅路の間だけ無愛想にしていれば自然とその後の関係なんかなくなるわ)  フィーに言われるまでもなくそれは理解している。俺達は現在たった三名の上、戦い慣れていないティアに、片腕が使えない俺と足枷が二つも付いている。 まずないとは思うが二桁以上の盗賊達に襲われた場合、互いが互いを庇い合って死者なしに逃げきることもできなくなるだろう。ただ二名人数が増えるだけで話は別で、二倍近く人数が増えたことで威圧感も増え襲撃を防止し、大規模の盗賊に襲われた場合でも標的が増えるわけで、全員無事に逃げきる、もしくはあまり考えたくはないが、親しくないこの二人を囮にすることで三人は逃げきれる可能性が格段に増える。 「こちらからもお願いしよう、共に同行してくれないか?」 「そうか、ありがとう。報酬はどうしようか」 「いや、それは構わない、こちらにとっても利益があることは、わざわざ言わなくともあんたも理解しているだろう」  肯定。 「ただ条件がある、その人物の素性が知りたい。特別な理由で狙われる要人だったら割に合わない」  彼の隣に座る人物に視線を向ける、すると何か不都合があるのか少し眉間に皺を寄せる。 「できないのだったら悪いが……」 「いや、できる。恐らく姿を見てもらうだけで十分だ」  たとえ万が一、一国の王だと言われても俺は顔すら知らないわけなのだが。  そんな疑問も彼女の素顔を見れば吹き飛んだ。 「……そうか、そういうことか」  その言葉に男は悲しそうに笑う。 「君は俺を嘲笑うかい」 「いや、尊敬するよ。是非名前を教えてくれるか」 「俺はディー、この子はリリ。これからよろしく頼むよ」  これが翼を失った青年と、言葉を失った少女との出会いだった。 「女の子でしたね、普通の」  その後こちらも自己紹介を済ませ、今後の予定を決め終え戻った部屋での第一声。 「普通じゃないさ、今から話す」 「……何かあったのか?」  幾分か顔色が良くなったがまだまだ青いリグレット。疲労のせいで長引いているようだが、そろそろ起き上がれるようになるだろう。 「目的地まで同行することになった二人の話だ、無理に返事をしなくていいから話はしっかり聞いていてくれ」 「わかった」 「まず先に言っておくがティア、今から俺が伝えることは嘘偽りないつもりだが、実際の事実とは差異があるかもしれない、独自の偏見、先入観で塗り固められているかもしれない。もちろん普段からお前と話すことにこれらが含まれているが、今から伝える事柄は重要で、捉え方によってあの二人との今後の付き合い方が大きく変化する可能性がある。だからどうか自分自身を保って欲しい。決して俺やリグレット、一般大衆の意見に左右されず、俺の言葉から事実のみを掬い上げて、ティアとしての真実を見つけてほしい」 「……はい」  唐突に重い切り出し方をしたが、ティアはしっかりと意識を切り替えられる。リグレットもまた、言葉こそ発しないが身を引き締める様子が見れた。 「こんな言い方をしておいてなんだが、そんなに緊張はしないでいいからな。ティアはこれまでも未知と遭遇した時に、しっかりと自分の真実を見つけることができた。今まで通りでいいんだ」  わかっていますと微笑むのを見て言葉を続ける。 「まず男の方。特徴は背中に白い翼が生えている一点のみ。天使と呼ばれる彼らは貴族として社会的地位を与えられつつ、代々歴史を記録し続けている。どんな些細な事柄でも正しく、決して干渉しないように」  何か質問があるのか小さく手を上げるティアに、視線で喋るように促す。 「翼が生える基準は何ですか?偶然翼の生えた人間を天使とし貴族にするのか、天使の血が流れる人間に翼が生えるのか」 「後者だ。あくまで天使と呼ばれる家計に翼が生えている」 「なるほど。それと否定しないということは天使という人間を超えた存在ではなく、人間に翼が生えた存在を天使と称しているということで正しいでしょうか」 「俺が少なくともそう思っている、翼が生えていること以外人間そのものであるわけだし。ただ俺と違い幼い頃から天使という概念を認知している人は、人間とは別の存在と考えていることもある」 「そのことについて天使達の解釈は?」 「特に聞かないな、記録の中には自分達のことも記されているだろうが、記録が閲覧されることは稀だと聞く。本人に直接尋ねても、自らのことを問いただされるのは気分もよくないだろうし、適当にはぐらかせると思う」  そこで初めてティアは驚きを顔に出す。 「え、記録が使われるのは稀なんですか、あんまり意味がない気がしますが」 「記録している事実で十分影響はあるんじゃないか。王都、商業都市近くの村辺りまでは人の生死の詳細程度なら事細かに記録されていると聞くし」 「記録されていると意識することで、悪行を避け善行を意識せざるおえないわけですね。続きをお願いします」  少し会話を思い出す時間を要した。 「事柄に干渉をしないということは傍観するということ。その傍観の力は強くたとえ戦場の中心だとしても、誰も天使に干渉することができない、あちらが干渉してこないからな」 「それってどういう……」 「言葉通りだ、物理的干渉できない。誰も斬りかからない、誰も斬りかかろうと思わない、決して何にも巻き込まれない」 「それはおかしい、たとえその現象が精神的なものだとしても、流れ弾まで当らないのはもはや魔法です」  何が魔法なのか、干渉しない故に干渉されないというルールの天使に疑問を持つのならば、人に翼が生えたり四肢があるのも、人間というルールの上に成り立つ結果ではないのだろうか。 しかしティアの思考は正常だ、翼は今まで彼女の知識に前例のあり様が無かったのだから、ベッドは心地良い物と疑わずに新しい知識として脳に刻むのと変わらない。 それは至極当然の思考で、異常なのはそれを疑える俺の頭だ。 「魔法、か。いい機会だ、リグレットもよく見ておけよ」 「ん?」 「なんだ、天使と同行するってだけで最高なのに、これ以上面白いことを体験させてくれるのか」 「面白いかどうかは保証しかねる、個人的には面白いがもしかしたら間逆に感じるかもしれない、これ何かわかるよなティア」 「契約の指輪ですよね……私達を縛っていた」  露骨に表情を歪める。彼女の人生を狂わせる寸前まで陥れたものの上、今の会話に何の関係があるのだと言いたげに。 「そうだ、今から俺とティアで契約しよう『提案、ティアはウィルにやれと言われる度に顔面を殴る』承諾してくれ」 「いやです」  即答である、勢いに任せれば何とかなる気がしたのだが。 「実験の為の一時的なものだ、頼む」 「……『承諾、ティアはウィルにやれと言われる度に顔面を殴る』」  指輪を互いの中指に通す、これで契約は完了。指輪に定められたルールが、それを外すまで互いを縛る。 「忌々しいですね、やはりこの指輪は」 「まぁそう言うな、すぐ外すから」  余程鬱陶しいのか、付けたばかりなのに右手で外そうと試みるティア。もちろん一度契約してしまえば少しもずれないのだが。 「ティア『やれ』」  言われたティアは表情こそ拒絶しているものの、体はゆっくりと俺に近づいてきて遂に腕を振りかぶった。恐らく彼女の全力だろう拳を右手で払う。  同年代の女性よりかは遥かに筋肉がついているだろうが、それでも鍛えられている人間にはまだ足りない。彼女が人と争わなければいいのだがそれも難しいだろう、一応あの村の連中と共に訓練は受けていたのだが、あくまであれは集団対集団の自衛手段。一対一で敵を戦闘不能にする、もしくは逃げられる状況を作る為の術を教える必要があるか。 「『提案、契約の終了』」 「……『承諾、契約の終了』」 「そう気を落とすなって、悪かった。お礼によければ一度だけ契約してもいいぞ」 「え、いいんですか」 「あぁ、なんでもいいぞ」  遊びのように契約する俺達を見てかリグレットが非難を浴びせる。 「おい、安易な契約はするもんじゃないぞ。一度きりで外すと口約束しても契約の前じゃ無意味だ、一生ティアの言いなりになって過ごすのが目に見えている」  それに対しティアは完全な無視を決め込み、俺もその意思に同調する。 「いえ、もういいましたよね。さっさと契約しましょう」 「どうぞ」 「おい」  そこでティアは欲望に塗れ過ぎて潔さすら感じる笑顔をした。 「『提案、ティアがしてと言ったら頬にキスをする』」 (この子最高に面白いわ) 「以外に謙虚だな『承諾、ティアがしてと言ったら頬にキスをする』」 「これでいいんです、唇以上は気持ちも欲しいですしね」  指輪を付ける時も終始笑顔を崩さない彼女。先ほどまでの指輪への不快感はどこへいったのやら、愛おしそうにその道具を見つめている。 「それでは、ウィルさん『して』ください」  ニヤニヤと俺が動くのを待っているが、その期待には答えず不動を貫く。 「……あれ?『して』ください」  動かなかったのが聞き逃したと解釈したのか、もう一度はっきりと口にする。 「拒絶する、俺はキスをしない」 「え……」 「なっ……」 「わかったか、俺は今明確に拒絶し行動しなかった。お前が普通と、当たり前と信じて疑わなかった日常を俺は打ち破った」 「魔法……ですか?」  そう尋ねるティアの表情には既にだらしない笑顔は無く、今何が起きたのかを受け入れ、真実を知ろうとする真剣な好奇心のみ。 「いや、違う。俺からしてみれば、ただの指輪で言いなりになる現象が魔法だ。どうだ、面白かったか?それとも、常識の通用しない俺に恐怖を感じたか?」 「いえ、恐怖は感じませんでした。ただただ驚愕ですね……」 「リグレットは違うだろう?魔族を知っているお前は」 「魔族?」  知らない単語にはすぐに食いつく貪欲さ、好奇心に溺れる今こそ彼女に相応しい姿。 「それは後で話そう」 「確かに恐怖は感じたが、お前がどういう人間かはよく知っているつもりだ。恐怖より感嘆が何倍も強い」 「そうか、その年齢でそう言えることは凄いな」 (よかったわね)  そう言いながらも内心はかなり胆が冷えていた。一般的に常識の効かない存在は恐怖の対象でしかなく、忌み嫌われるものだ。ティアに一つの考え方を教えるやり方としては効率的でも、万が一拒絶されるかもしれない可能性を考えると、途方もない不安が俺を掴んで離さなかったのだ。 「つまりこの指輪と天使の傍観は同一の原理であると?」 「その答えは自分で考えてほしい、俺も自分の意見を完全に肯定はできないし、何より自らで回答を導くことが重要だと思う」  指輪を外し、尋ねられた問いかけに答える。が、この件に関してはたとえ俺の考えが事実だったとしても、それを聞いて理解しただけでは本人の真実には成りえない。  リグレットも思う所があったのか、特に言及もせずティアと共に頷いた。 「天使についてはこれが最後。両翼はそれぞれ得た知識を改変なく記録する『真実』と、決して干渉せず全てを見届ける『傍観』を象徴している」 「え、片翼が普通じゃないのですか」 「あぁ、あの天使は堕天している。他者によって傷つけられることはない天使の羽根は、真実、傍観どちらかを犯した時のみ親族によって切り落とされる。貴族の名誉と共に束縛もなくなる、真実が切り落とされれば嘘をつくことができるようになり、傍観が切り落とされれば個として生き、動けるようになる」 「先ほどの状況から見るに彼が過去に犯したのは傍観。残っている翼が傍観ならば、彼は私達に干渉するのも、何か曰くの付いているあの子と、二人で旅をしているのも避けるべき行為。更に言ってしまえば堕天した原因、いえ堕天した理由も彼女の可能性が高い」 「呑み込みが早いな、でも俺の言葉を疑えよ」 「わかっています、後でゆっくり幾つもある可能性を考えて楽しみますよ」  想像は彼女の得意分野。俺には考えもしないような奇抜で、それでも現実的な選択肢を幾つも用意して、これからの生活で自分の真実を絞っていくだろう。 「これで天使の話は終わるがリグレットは何かあるか」 「いや、概念は俺も知っている一般的なものと変わりがないから問題はないだろう。意図的にお前の意見として話した内容は興味深いものばかりだったが。それよりも早く曰くつきとやらの少女の正体が知りたい」 「ティアも進んで大丈夫か」  頷くのを確認し、一旦目を伏せ話題に合わせて意識を切り替え、会話全体の構成をイメージする。 「天使が連れていたのは、魔族の少女だ」 「堕天使が連れていたのは魔族とは、これは興味深いことになってきたじゃないか。早くそいつらと対面して会話をしてみたいものだ」  根っからの刹那主義者らしく笑うリグレット、過去のことでそうなってしまっているのだろうが、似たような境遇を持つ俺とは大違いな影響だ。もちろんあちらが素晴らしい。 「さっきも出てきた単語ですね」 「あぁ、魔族の外見的特徴も一つだけ、瞳孔が赤いこと」 「瞳孔が……赤い」 「魔族以外の全ての人間を神族と呼ぶ神族主義者曰く、血を好み瞳まで赤く染め上げた魔族は人類の敵であり迫害すべき存在だ」 「実際そうなんですか?」 「いや、三十以上生きてきて、そういった話は聞くことはあっても経験はしたことないな。実際にそういうことがあったとしても、迫害されたことによる飢えや怒りが原因だと思うが」  リグレットと違い俺は数える程度には襲われたが、飢えるものに限っては虐げられる痛みを知っているせいか、命までは狙おうとはせず極僅かな食料を取ればすぐに去っていく。  非道徳的行為であることには間違いないが、魔族以外の楽をしたいが為に盗みや強盗を行う輩よりはましだと感じる。 「争いを避けるために根拠なき迫害を行い、自分達で争いの種を生み出しているわけですか。面白すぎて反吐が出そう」 「確かにそうだな、大部分もそれに気付いているが魔族を庇護することはできない」 「迫害する人間達に目を付けられるから?」 「それが八割、残り二割が魔族がよくわからない技術を持っているからだ」 「へぇ、それってどんなものですか?」  ここでティアは再び笑顔を見せる、確かに面白くない話題よりも未知の希望にあふれた話だろう。 「俺がさっきやったことも魔族の技術とされるもの、他には身体能力が高いのだが前者のインパクトが強すぎて一般的知識にこちらは霞んでいるな。それほどまでに契約できない、常識が通用しない人間が怖いのだろう、人々は」 「未知は怖いことではないと思うんですけどね。特に私は未知を恐れていたらどうしようもないですし」 「確かにお前さんが一々恐怖を感じていたらこの先正気を保てないな」 「ですよね、きっと知らないことの方が多いのに」  三人で朗らかに笑いあう、どうしても暗くなってしまう話題なのでリグレットの軽口がいつも以上に心地良い。 「まぁ魔族の話はこんなものだ。魔族との付き合い方は実際に迫害の現実を見て、どうするか考えても遅くない、少なくともその場に迫害主義者がいなければ普通に付き合ってもいい」 「そうします、いろいろ教えて頂きありがとうございました」 「それじゃ俺は飯でも食ってくるかな、興味深いスパイスも大量にもらったことだし、のんびりと遅いランチを楽しんでくるよ」  すっかり元に戻った血色のいい顔で、リグレットは下に降りて行った。昼過ぎの空いた食堂で、期待に一人笑いながら飯を食うのだろう。少し不気味だ。 「私も村を観光しながら色々考えてみますね」 「ティア、ちょっと待て」  呼び止めておきながら俺は少し行動に躊躇うが、その思考を停止し勢いで彼女の手を取り甲にそっと口を付ける。 「こんな挨拶代わりになるようなものでよければ」 「……ありがとうございます!行ってきますね!」  何が起きたのかを理解するのに一呼吸要した後、喜びを体全体で表し、脱兎の如く走り出したティアの足音はすぐに聞こえなくなった。 (気障ね) (あんなにも純粋に求めてきたのに、何もしてやらなかったら惨めじゃないか) (何、同情で勘違いさせるようなことをしたの?) (ティアは賢明だ、勘違いすることはないだろう。それに同情だけではないかな……) (え、遂に恋しちゃったの) (いや、そうではないがなんとなく、なんとなく喜ぶ顔が見たかった) (……そっか、恋じゃないね、それは。君が成長した証拠だよ、まだ少し手段を選べないようだけれど) (それっていいことなのか?) (成長って言ったでしょ、悪いことのわけがないじゃない)  ならどうして、フィーはそんなにも悲しそうな顔をしているのだろうか。  もっと成長すればその理由もわかるようになるのだろうか。  物心ついた時から長く過ごす彼女にも、たくさん笑ってもらえるようになるのだろうか。  村を一通り見て回る間、終始身に付きまとわる不安感は拭えなかった。 決して悪いものとは言い切れない不安感。未知の場所に居る期待感と、未知故に感じる不安感、珍しく彼が居なく一人で歩く寂しさ、周りの人間との距離感、そのどれも理由なのだろう。  周りの距離感は私の精神的なものが主で、特に服装の差が大きいか。私の服装も決して悪いものではないと自覚しているが、他人と比べたら運動性に優れていても、装飾が地味であることは否めない。  目的地に着いたらしばらくの間は移動しないだろうし、街中で着る普段着でも買おうかと思い気づく。そういえば自分のお金を持っていなかった。  出会ったころに比べ、打算的とは呼べなくなってしまったウィルさんに頼めば、当面の個人的なお金も用意してくれるだろうが、流石にそこまで迷惑をかけるつもりはない。何か私にできる仕事を探し、今まで使って頂いた金銭を返すついでにでも、私服は買うことにしようか。 「こんにちは、また会ったね」 「こんにちはディースさん、リリさん」  彼らも散歩だろうか、先ほど知り合ったばかりの二人と再会する。 「さっきとは視線が違うね、俺達の話を聞いてきたんだ」 「そうです。今まで自分の村が私の全てだったので、興味深いことばかりで幸せです」 「でもまだ幸福感は満たされないようだ。さっきまでは天使を見ていたのに、今度は俺達を見ている」  流石に洞察力が凄い、見聞きしたものを記録するだけではなく、実際に天使達は足を使って情報収集することがあるのだろうか。傍観する誇りがあるならば、ある程度は傍観せざるおえない状況があるわけで、きっとこの推測は正しい。 「そうだ、今の内に話しておこうか。彼は今暇そうかな?」 「……部屋で休んでいると思いますけど」 「場所は?」 「手前から二番目です」 「リリ、俺が迎えに行くまで彼の所に行っておいで。今日だけじゃなく日頃から彼をよく見ておくんだ、俺達の進む道が見えるかもしれない」  それだけ言うと彼女の頭をそっと撫でる、それを合図にか黙ってリリは宿へ向かった。  何度反芻しても彼の言葉は理解できない。彼女には理解できているやりとりなのかもしれないが、天使とやらは皆、意味深な会話しかできないのだろうか。 「そういえばリグレットに会ったよ、あちらの顔は知らなかったから声をかけてきてくれて助かった」 「ディースさんから見てどんな人でしたか?」 「気さくな人だったよ、俺達の素性を気にすることなく楽しく喋ることができた」  その様子が安易に想像できた、彼はいい意味で遠慮がない。そのくせ問題のある一線は越えないから安心できる。 「ところで何を話してくれるんですか?」 「あぁ、リリの話だ。しばらく一緒に過ごすから同性である君にも話を聞いてほしくて」 「気をかけてほしくて?」 「まぁそうなるね、気が向いたら程度でいいのだけれど。魔族の話は天使と共に聞いたかな?」 「はい、いろいろと」 「迫害の延長でね、彼女は目の前で家族を殺されたんだ。なんとか彼女自身は何事も無かったけれど、言葉は失ってしまった」  ウィルさんは迫害以外の表現をしなかったが、やはり虐殺まで繋がることがあるのだろう。  少し想像、いたいけな少女の目の前で悲劇が起こる光景を。  今までの家族の温もりを失った絶望、矛先が自分に向く恐怖、理不尽な暴力に対する怒り、こんなものか。  その中でも彼女は絶望が大きかったのだろう、一方的な行為に自我の無意味さを知り言葉を棄てた、もしくは単純に心が壊れるほどの痛みを感じたのか。 「最近も似た人に出会いましたよ」  痛みに負けないように、痛みを忘れ、逃げ続けている人が。  彼に何があったのかはわからないが、普段の様子からそういった過去を持つことはすぐに見てとれる。人を避けるくせに人恋しい人間の種類なんてそうそういない、大切な人を失ったことのある人だけだろう。  そういえばリグレットさんが私の村に来たのも、家族を失ったからだと聞いたことがある。あの人は逃げることも、屈することも、未だ決めかねているようだけれど。 「……珍しくはないよね、こんな悲劇は。その人は立ち直れそうだったかな」 「なんとも言えません、私が無茶を強いて立ち直れるかは彼次第ですから」 「そうか、君達に近づいたのは正解だったようだ」  それを聞いて嬉しそうに頷くディースさん。 近づいた、というからにはやはり偶然ではなかったのか、万が一の悪意を探る為に少し真意を探ろうか。 「彼の眼帯、わざわざ指摘するほどずれてなんていませんでしたよね。それと関係あるんですか?」  その問いかけに初めて黙るディースさん。  答えたくなくて、というよりは答えていいのかどうか黙ったのだろう。あまりにも露骨過ぎて少し笑みがこぼれてしまう、眼帯がずれているかどうかとは違う、個人差ではごまかせない嘘はつけないようだ。 「ならこの問いかけなら、両方に答えてくれますか?」 「……なんだい」 「神族と魔族のハーフは、瞳の色はどうなるのですか?」 (君はどこにも行かないの?) (ここでは仕事もないし、特に趣味もないし、次の村に向かう準備も済ましたし、こうなれば後は心身ともに休むためにも、ぐうたら寝転がるだけだろう) (何少し偉そうに言っているのよ、それなら趣味でも探せばいいじゃない、明日も休めるのだし) (なら明日を趣味探しに費やすさ、今日は寝る) (君がそう言って何かをやったためしがない、今日やりなさい)  いつものように小言が始まったので、それを子守歌にウトウトしているとノックが響く。 「どうぞ」  ティアとリグレットが帰ってくるには早すぎるので、宿の主かと思っていたので見せた姿は以外だった。  リリと言ったか、天使の連れていた少女。相変わらず暑苦しそうなローブを目深く被っている。 「なんだ?」  しばらく返事を待っていたが当然何もなく、伝言でも持っているかと手を見るが、それらしきものもない。 「とりあえずそこ座れ」  その言葉には素直に従い、壁際にあるティアのベッドに腰を下ろす。 (なんだと思う?) (見当もつかないわ、何かこの子が居たら面倒がおきそうだったのかも) (まぁそれしかないよな)  このまま彼女からのアプローチが無ければ、俺はただ共に居ればいいのだろう。寝てしまうのはだめだろうか。  無言で佇む不気味さを少しでも緩和させようと、顔が見えるようにフードを下ろす。抵抗は無く、じっとこちらを見つめる瞳と視線が交わる。  以外にも彼女は俺を見ていた。初対面時は何も見ていなかったようなので、ここに来たのは何か明確な目的を持っているのではないのだろうか、それも彼女が喋らなかったら知ることはできないだろうけれど。  しばらく様子を見るが、それでもじっとこちらを見続ける。あまりにも暇すぎて、俺も妙な対抗心が生まれてしまったのか、ひたすらに視線を通わせ続けた。 「なんだ、この異様な空間は」  数十分ほど経ってからリグレットが帰ってくる。 「俺も知りたい」 「まぁ何でもいいが、脂っこい物食べすぎて腹がきついからまた少し休む、騒がないでくれよ」  せっかく起きれたというのにまた寝るのか、愉快すぎるだろう。 「この状況で騒がしくなると思うのか?」 「違いねえ」  その反応を見るに酒場で既に対面でも済ませて来たのだろう。リグレットは横になってすぐに静かに寝息を立て始めた。  彼が帰ってきて状況が変化、するわけもなく、喋らない人間が部屋に一人増えただけである。再び、良く言って見つめ合う二人に飽きたのか、フィーの気配はどこにもない。  今度は一時間ほどか、悪く言って睨み合っていた俺達にも変化が訪れた。  おそらく、ほぼ確実に退屈だったのだろう、リリの瞼が睡魔を訴え始めたのだ。俺からしてみればその変化ですら嬉しく感じ、じっといつ寝るかいつ寝るかと待っていたが中々寝つかない。それどころか寝るのを拒絶し、拳を爪が食いこむほど握りしめる。 「……そこまで起きなくていいんじゃないか?眠たければ寝てもいいぞ」  そう宥めてもしばらくは抵抗していたのだが、次第に姿勢を崩し遂には横になった。横になってもなお僅かな抵抗は続けるので、頭を怯えられないように気をつけ、そっと撫でたらすぐに目は開かなくなった。  俺はその様子に満足感を抱きながら、夢の世界に続いた。  室内に新しい気配を感じ目が覚める。既にランプが部屋を照らしていて、日が落ちているのがわかった。 「なんですかこの状況は」  入口の方を見ると、ティアとディースが室内を見て笑っている。こんな早い時間に三人ともが寝ていたらそれなりに面白いのだろう。 「特に何も無く、一緒に居ただけだがそれでよかったのか?」 「それでいい、ありがとう。少し二人で話をしたかったからね」 「ウィルさん、簡単な文字の読み方教えてもらっていました!」  余程嬉しそうに報告するティア。そういえば文字を教えていなかったが、この様子だといい教師を見つけたようだ。是非満足するまでそいつに張り付いてほしい。 「そうか、よかったな。俺は上手く教えられないだろうから、根を上げるまで知識を絞り取ってやれ」 「これからもお願いしますね」 「わかったよ」  苦笑いこそしているものの、満更ではないらしくそう答えるディース。 「少し早いですけどこれから晩御飯でもどうですか?皆で明後日からの予定を話しながらでも」  ティアの提案に賛成し、リグレットを起こす。  たいして腹は減っていないのだが、それも談笑をしながらであれば、すぐに食べられることだろう。  翌日、各々は旅立ち前の最後の休暇を過ごしていた。  ティアは相変わらずディースに張り付き、知識の塊から永遠に満たされないだろう好奇心を満たし続け、そのせいか俺は今日もリリに付き纏われ、それを哀れ、もしくは面白く感じたのか同様に離れないリグレットと、一日中言葉も少なく過ごすことになった。  そして翌日、郊外に出たのだが、新しい同行者の不安はすぐに忘れた。ディースはともかくリリまでが、疲労を感じさせないスピードで歩き続けたのだ。結果ペースは今までと変わらず、いや、ティアが慣れてきた分だけ早くなって進行できた。  歩いている間にも今度は、ティアは無理やり文字を書く練習をしたり、色々な話を聞いて知識を増やす。  対して余った俺達は、気が向いたら俺とリグレットが話す程度で、基本的には二人の会話に耳を傾けながら退屈を謳歌していた。  相変わらず夜間は、男連中だけで交代して見張りをしていたが、ディース一人増えただけで身体的負担は激減し、特に問題がないどころか、前回と比べ比較的快適に次の村を目指していた。  しかし日が暮れ始めた頃、翌日の今頃に、村に着くといった所で異変が訪れた。 「……臭うな」 「なんでしょうか」 「臭い?……いや今来た、これは」 「血の臭いだね」  進めば進むほど強くなる死の臭気、かなり大量の血が流れているようで、耳を澄ませばまだ刃が触れ合う音が微かに聞こえる。 「俺とリグレットが最前列、後ろにディースとリリ、その間にティア。交戦するか否かは状況を見て判断、身に危険が及ぶようなら指示の前でも来た道を戻れ、別れてしまったならできれば後で合流しよう」  リリ以外の三名が異論無く頷き、身近に迫る死の危険に身を引き締める。  その時思わず、濁った赤い瞳の少女は、自分に刃が向けられた時どうするのかと考えてしまった。  ある程度整えられた道から逸れ、木々に身を隠しながら前進する。 すぐに臭いと音の発生地まで辿り着き、短時間で現状を把握する。 立っている人間は全員で七名か、辺りには深い血だまりと二十近い死体の数。護衛を連れた商人を盗賊が襲ったのだろうが、これだけの仲間を死なせておきながら未だ引こうとしないのは、仲間の死で諦めきれないのか、人間を捨て駒にできるほどの組織が後ろに居るかのどちらかだろう。 馬車の近くに若い女が一人、その近くで盗賊二人を相手にする女が一人。共に俺と同年代か、その一つ下ぐらいか。戦っている方は短剣、長剣の二本を操り持ち堪えている。 そこから少し離れた所に女の護衛と思わしき男が一人、こちらも盗賊二人を相手にして、今、倒れた。 「おいウィル、今すぐ出ないと残り二人も死ぬぞ」  まるで自分の事のように焦るリグレット、恐らく自らの過去と被せているのだろう。  助けたい気持ちはわかるが、こちらの戦力はリグレットと、片腕が使えない俺と、戦い慣れていないティアだけだ。リリは論外で、ディースもナイフ以外の武器を持っておらず、まともに戦えたものじゃない。向こうの戦っている女を味方に数えても、戦い慣れた同数の盗賊と張り合えるものなのか。たとえあちら二人を助けることができたとしても、こちらの誰かが重傷を負う可能性は高い、それどころか死ぬ可能性まで出て来る。 「おい、ウィル」  男を仕留めた二名が、仲間と合流しようと移動し始めているのに未だ決めかねていた。 「ウィルさん、怖いんですよね。この五名が犠牲になる可能性が」  どこまで彼女は、俺の内心を理解しているのだろう。 「……あぁ、現状じゃ危険すぎる」 「ならばこうしましょう、私が離れている一人の頭を打ち抜ければ助け、失敗すれば来た道を戻り、彼らが去るのを待ちましょう」  ティアのその提案は非常に魅力的だった、成功すれば各自一人相手にし、その上ティアの援護を受けられるようになる。失敗すれば矢で注意こそ貰うものの、撤退そのものは確実に行える上、何よりも救出できなかった責任をティアに押し付けることができる。 なんて、悲しい、ギャンブル。 「……できるのか?」  当てられるのか、というよりも、人を殺せるのかという問い。戦力的問題の一つの懸念。 「やりますよ、走る獣より全然当てやすいです」  矢を番え、弓を構え、狙いを澄まし、弦を鳴り響かす。 その時初めて、彼女は皆を守るため、人を殺めた。 「うおおおおおおっ!」  リグレットが咆える、恐怖を払い、突き進むため、注意を集め、守るため。  それに合わせ太刀から布を払い肩に乗せる。 この巨大すぎる太刀はその重量で、突くことどころか薙ぎ払うことさえ、片腕ではままならない。決めるなら肩から振り下ろせる初撃、それを逃せば致命傷を与える機会は減り、こちらには不利な持久戦を強要される。 リグレットが女と合流し共闘を始める中、俺は離れた男に真っ直ぐ迫る。もしここ以外に仲間がいるのなら、報復を考えて合流させてはならない。 靴が血濡れになりながらも何とか滑らずに接敵、片腕が使えない俺から逃げる気はないようで、その体目掛け太刀のリーチを活かした袈裟斬り。 刃で受け止めてくれさえすれば勢いで崩れた姿に、高度を保っていられる太刀で追撃を加えられるのだが、流石にそう甘くはいかず、男は後ろに跳びはね、体制を崩しながらも初撃を避けた。 一度刃が地に触れたのならペースは相手のもの。再び太刀を振り上げる余裕は与えられず、何度も繰り出される刃を避けるので精一杯になる。 後ろを見る余裕はないのだが、音から俺が現状維持を余儀なくされていることが理解できる。触れ合う刃の数は減らず、間合いが狭すぎてティアの弓の援護を期待することもできないのだろう。今はただ耐えるだけ、体力を尽かさないように、致命傷を貰わないように。 何度切り結んだだろうか、命に刃が掠める回数が二桁に上ってからは数えていないが、そう多くはないのだろう。それでも肉体的、精神的にも限界が近づいてきたところで、ようやく攻撃が止んだ。 気づけば後ろの攻防は聞こえず、先まで戦闘していた盗賊は背を向け走り出している。とどめを刺さねばならないのに、咄嗟に動けない足に不満を感じつつ、ティアが放った矢が男に当らないことを冷静に確認していた。 「言葉は後だ、急いで死体を片づけてここを離れるぞ」  荒い呼吸でそれだけを告げると、誰も否定することはなく各自で動き始める。  死ぬまで依頼主を護衛した猛者達を弔う余裕は今はなく、無造作に死体を隠すだけになっている盗賊達と比べ、遺体を綺麗に並べることしかできない。  もどかしさを感じつつも、今優先すべきは死んだ人間よりも生きている人間。一人逃がしたので追手が怖く、今すぐにでもこの場は離れたかった。  女、というよりもリリと対して変わらない歳のようで、少女と形容するのが正しいか。少女達の所有物である馬車に自分達の荷物と、遺体から必要なものだけを剥ぎ詰め込む。  身軽になった体で急いでその場を離れ、ようやく落ち着いて会話できるようになったのは、辺りがすっかり闇に包まれてからだった。 3.後悔 「助かった、本当に感謝します」  七名で火を囲み食事を取る中、改めて商人であるストレはそう言った。  長く伸ばした髪に、旅にしては綺麗な装飾が施された服。僅かに気品の感じられる立ち振舞いから、恐らくそれなりに名のある貴族の娘かなにかだろう。ただでさえ女性の商人自体珍しい為、かなり特殊な事情でもあるのか。  それに対しもう一人の少女、スティは髪を短く揃えており、目つきと服装からも活発さを感じるが、どこか大人しく感じる印象は拭えず、腰に付けられた二本の剣も少し似合わない印象を受けた。  こうして二人だけでも助けることができた喜びと、またしても最後まで悩んでしまった申し訳なさから葛藤を感じる。 「まぁこうして二人だけでも助かったんだ、今は故人を思うよりも生きていることを喜ぼう」  暗い雰囲気を吹き飛ばそうとリグレットは笑う。ストレはたいして気にしている様子を見せないが、スティはかなり堪えているようで常に唇を噛んでいる。 「自分がもっと強ければ……」  そうスティが呟いた内容に既視感を覚える。もっと強ければ、何度思ったことだろう。 「それは死んで逝った他の人にも言えることです。皆が皆あと少しでも強ければ、誰も死なずに死んだかもしれない、でももしも、はもうないんですから気にしてもしょうがないです、彼も言っているように今は生き延びたことを喜びましょう」 「ティアは無理しなくていいんだぞ」 「何がですか?」 「初めてだっただろ?人を殺めるのは」 「そうですね、でも予想していたよりはショックが少なかったです」  その表情に陰りは見えない。  初めて人を殺した人間は大体がまず吐く。人の命の軽さと、取り返しのつかないことをしてしまった恐怖に襲われるからだ。  しかし彼女は吐くどころか、恐怖を感じる様子すら見せない。  何か彼女独自の感性がそれを避けているのだろう、それは彼女の暗部か否か。  あの惨状を目の当たりにして、ディースとリリも大丈夫かと目を向けるが、天使はそもそも見慣れているのか、達観できる精神構造をしているのだろう。いつもと変わらない、よく思考の読みとれない細目で笑みを浮かべているし、魔族に至ってはあの程度では閉ざした心は開かれないらしく、平然と千切れた体の部位を運んでいるのを思い出した。  俺とリグレットは当然見慣れて、ティアとストレは何処かのネジが飛んでいるのだろう、まだ若い少女らしかぬ落ち着きようで、唯一落ち込んでいるスティを二人で励ましている。 (酷く混沌とした面子ね) (まぁこんなものだろう、町や村の中では異様だろうが、好んで郊外に出ている連中だ。このぐらいじゃなきゃやってられないさ)  それほどまでに世は荒れている、未熟さで仲間を殺してしまったと沈む少女が剣を持たねばならないほど。 「ところでどうして商人なんかに?」  ディースが話題にでもと尋ねる。 「親が商業都市で結構名の知れた商人なの、それでなんとなく私も真似ごとをね、なんとなく。それでこの子は私の幼馴染で、無理やりついてきたの」 「なんとなくで無理やりお金を実家から持って飛び出して、それを止める為に自分が駆り出されたのなら堪ったものじゃないんですけど」  スティの批判に答えない辺り、なんとなくの真意は見せるつもりはないのだろう。 「え、止めようとしていたんですか?」  ティアの心底意外そうな声にストレはくすくす笑う。 「この子止めに来たのに私に懐柔されちゃって、すっかり護衛として働いてくれたの」  どうやら事実らしく、スティは顔を赤く染め膨れっ面になる。  その顔を膝に起き、撫でて慰めたのもまたストレだった。  流れるように行われた一連の動作から、日頃から同じようなやり取りが行われているのだろう、決してスティがストレに敵うことは無さそうだ。  実際撫でられているうちに彼女は機嫌を直し、もともと沈んでいた空気もどこかに吹き消えていた。それでもなお膝枕は解かれず、何か二人の間に友情を超えた何かを感じたて、そっと意識を背けた。 「ところでこれなんですか?」 「よく今まで尋ねなかったな」 「いえ、そんな空気ではなかったじゃないですか……」  それはわかるが、何かよくわからないものの組み立てを、黙って手伝っていたのか。  ティアが指さすそれはテントで、馬車に積まれていたものだ。本来旅をする上かなり欲しいものなのだが、酷く嵩張るため徒歩では持ち運びたくなく、四名程度までなら馬車の中で寝れば済むので、中々使われることのない悲劇の道具だ。 「じゃあこれからはもう痒い思いをしなくていいんですね」  それ以外も利点はあるのだが、今の彼女が思いつくのはまずそれだろう。 「そういえば目的地は商業都市でいいのか?」 「うん、親から奪ってきた金を返しても、商売を続けられる程度は稼いできたから」  よくわからないがその歳ではかなり凄いことではないのだろうか、そしてそれに驕らないことも。俺自身生きるのには問題ない金を稼いでいるものの、馬車まで買うことは厳しかった。 「そうか、俺達も商業都市に向かっているんだがどうする?」 「……いいの?またあいつらが来る可能性はあるのに」 「それは次の村で護衛を掻き集めればいいだろう。金もいらない、同行するにあたってこちらにも利益はあるわけだし」 「そう、ありがとう。よろしく頼みます」  ストレは無表情の顔に少し笑みを見せ、素直に頭を下げた。 (珍しい、誰にも諭される前に決めるなんて)  聞き流す。 「そろそろ寝るか、早めに村に入りたい」  リグレットがそう提案する。 「見張りの配分は?」 「各自三時間ずつ、今日は異常事態だから全員で行おう、誰かを楽にさせる為に襲われて死んだら堪ったもんじゃない。初めにディースとリリ、次に俺とティア、最後にウィルとストレとスティ。三人が三時間ほど見張ったら全員で起きて村に向かおう」  そこで一つ上がる異論の声。 「どうして私がおっさんと、しかも一番きつい時間なんですか、納得いきません」 「お前初日三日で旅には慣れていただろう、そろそろ働け。それに俺が何かおもしろい話でもしてやるから我慢しろ」 「あ、それならいいです」  非常に立場と意志の弱い反対の声だった。そんなティアに全員が気を楽にしつつ、後片づけをしてそれぞれ役割についた。  その約六時間後、ティアに声をかけられ目が覚める。 「ウィルさん起きてください、起きないと食べちゃいますよ、起きませんねいただきます」 「蒸し暑いんだ、貼りつくな」  睡魔でテンションでおかしいのか、俺に跨っていたティアを蹴り飛ばす。すると既に隣で横になっていたリグレットにぶつかった。 「俺が何をしたっ」 「何もしなかったから罰があたったんだろ、ティアを止めろよ。おいティア、あの二人も起こしてくれ」 「蹴られたんで嫌です」 「痛くなかっただろ」 「それでも嫌です」  いじけたように俺が寝ていた布団に顔を埋める、恐らく残り香でも嗅いでいるのだろう。やめていただきたいが、今はもう止める気力もない。  起こすべき二人を見ると、俺達とは反対の隅でストレがスティを抱きしめ、彼女もそれを甘んじて受け止めている。正直こちらも関わり合いたくないオーラを出しているが、現実はそうもいかない。 「おい起きろ、時間だ」  どう見ても旅慣れていない二人が、声をかけただけで甘い睡魔から逃れるわけがなく、しぶしぶ二人の肩に手を伸ばす。  すると突然ストレの手が俺に伸び、自らに引きよせるように強く引っ張った。  体制が崩れそうになり慌てて彼女の手首を捻り逃れる。 「……ちっ」  何故か舌打ちをしながらストレはすんなりと起き、スティを揺り起した。 「なんのつもりだ」 「何が?」  明らかに起きていた様子なのだが、あくまでも寝ていたと言い張るようだ。特に言及する気も失せ先に外に出た。  馬は既に寝息を立て、焚火は弱々しく燃えていて、その様子に特に異変は感じられず、焚火に木を加え二人が出て来るのを待つ。 「おはようございます……」  目を擦りながら眠そうにスティは歩く。 「きついなら座ってうたた寝していてもいいぞ、別に俺一人でも問題はない」 「いえ、少しでも安全にするため頑張りますよ」  そう意気込んでも体は正直で、今にも倒れそうなのをストレが支えている状況だ。 「スティが眠らないように話をしてくれない?」 「話って何を聞きたい」 「あなた達のことが聞きたい、随分愉快なメンバーじゃない」  主に天使と魔族のせいだと思うのだが。 「話って言ってもどう話したものか」 「別にそれぞれの紹介を、ウィルさんがしてくれればいいのではないですか?」 「紹介ねぇ……」  ずいぶん難しい注文だ、そもそも紹介できるほど知っていることがない。  ティアとリグレットはもう二月近くになるが、他二名はこの間知り合ったばかりだ。二人の関係どころか、何を目的に商業都市に向かっているかもわからない。  今こうなっている経緯を、何度か話してもいいことか選ぶため無言になりながらも、なるべく事細かに、おもしろく伝える努力をする。 点数をつけるならば決して高得点を与えられない話術でも、まだまだ空は暗く、睡魔を振り払うためにも二人はしっかりと聞いてくれた。 「結構人助けを率先しているんだ、凄いわね」 「いや、出来事に対して俺は最後まで渋る。お前達の時でさえ、ティアが後押ししてくれなかったら逃げ出そうとしていたんだ」 「ん?それってティアを助けた時は誰が後押ししてくれたの?一人だったのでしょ?」  俺にしか見えない少女が後押ししました、とは流石に言えない。人の視線を気にする人間ではないが、好き好んで変人と見られるのは避けたい。 「……気まぐれ、かな」  特にいい言い訳も思いつかず、やっと出てきた言葉はこれ。  本来コミュニケーションが苦手だと自覚しているのも、人を寄せ付けない一つの理由だったのだが、最近は成り行き上、人とかかわることが増えてしまっている。少しでも話術を意識して学ぶべきか。 (なんなら私といっぱい喋って練習してみる?) (今更遠慮がないお前と会話してもたいして上達しないだろう、同じ人生を見ているせいで、たいして意見も分かれないし) (まぁそうね、ダメもとで会話する機会が増やせたらなと思っただけ、気にしないで)  確かに人と接することが増えて、フィーには寂しい思いをさせているのだろう。俺しか彼女と喋ることしかできないのだし、もう少し気を使ってやるべきか。 「気まぐれですか。気まぐれで人の命を救えるんですね、凄いや」  自虐的にそこだけ拾い上げるスティ。 「お前も戦う術を知っているんだ。それだけじゃなく二刀流なんて希少な技術を持っている、そう沈むものじゃない、嫌味に聞こえる」  彼女の持つ剣の、長い方でも一般のものと比べると比較的短く、それでも両方を振るえる腕力と、剣に振り回されない技術を身につけるのは相当困難である。  しかし身につけさえすれば攻防一体に行えるだけではなく、相手からしてみれば予想外の戦い方をしてくる敵である。全ての戦闘技術を熟知している人間相手ならともかく、それ以外の人間、こちらに敵意がないのに襲ってくるような人間相手には、十分戦闘を始める前から優位に立てる。  しかしこれだけのメリットがありながらも、先ほどのデメリットと、技術を身につけている人間の希少さ故一般的ではない。 「誰からその剣を教わったんだ?」 「死んだ父が幼い時に教えてくれたんです、結構短い期間だったんで完璧じゃなかったけど、それ以降独学で練習しているんです。だから私はまだ完璧じゃない、基本的な剣の振るい方さえも理解しきれていない」  だから余程自分の技術不足が口惜しいのだろう。親が生きていれば、他に指導者を見つけられたら、自分にもっと才能があれば。希少な技術故に悩み、努力では覆せない成長速度。  かける言葉が見つからず、話しを逸らす。 「ストレの家族は?」 「母親はいないけど父親はいる。スティの父親と親しかったから、彼が死んで肉親が居なくなった後はこの子を養子に取ったの」 「そうか、三人家族だったのか」 「羨ましい?」  どういう意味だろうか。スティと家族だから、同年代の同性と家族だから、そんな互いを支え合う生き方をしているから。正直全てが俺にはないもので、そのどれもが魅力的で、だから俺は素直に答えた。 「あぁ、羨ましいよ。俺には親の顔さえ覚えていないから」 「まだ聞いてなかった、あなたの話を。教えてくれる?」  一瞬親近感を表情に見せ、ストレはそう尋ねる。  正直過去など思い出したくもないことばかりで、どう伝えたものかと悩む。 「別に俺の話なんておもしろいものでもないさ。物心ついた時には知らない人間に世話されていて、それからいろいろあって一人旅をしていただけの人生だ」 「ほとんど話してないじゃない」 「ストレ」  まさに彼女の言うとおりである。しかしスティは余程言いたくないことを察してくれたらしく、それ以上二人は言及することを止めた。 「俺よりも二人の話を聞かせてくれないか?もっと羨ましがらせてくれ」  彼女達の話は魅力的だった。幼い時に父親が死んでも、姉妹になったストレが毎日慰めてくれて早く立ち直れたこと、おもしろいことが大好きなスティの、滅茶苦茶な遊びに付き合わされて、何度も父親に二人して怒られたこと。スティが剣を再び取った頃、ストレもまた父親を見て商いを学び始めたこと、そしてストレが急に飛び出し、慌ててついて行ったスティとの慣れない冒険の話。  そんな聞いている方も、喋っている方も優しい笑顔になれる話を聞いていたら、すっかり空は明るくなり始め、再び歩き始める時間になった。  その後十分警戒をしていたものの、特に問題は無く昼過ぎには村に着くことができた。  宿を取り、進行を優先する為に後回しにしていた昼飯を皆で食べる。 こんな大人数でテーブルを囲むのは、ティアの村での宴の時以来か。 「これからどうするんだい?」  ディースが俺とストレに尋ねる、それの質問を視線で彼女に渡した。 「数日滞在して護衛が集まり次第村を出ようと思う。街まではここから二日もあれば十分だし、その距離なら護衛もすぐに集まるでしょう」 「ならそれはそっちに任せる、俺は必要なものを買い足しておく」 「お願い、そのぐらいは払うから後で金額を教えて」 「あぁ」  この程度は甘えてもいいだろう、後で適当に暇そうな奴に声をかけて買い出しに出よう。こちらを満面の笑みで見ている一人は既に決定しているが。  その後のんびりと雑談をしながら食べ終わり部屋に戻る。 流石に人数が増えたため、俺とリグレットで一部屋、ディースとリリで一部屋、残りの女性陣で一部屋の三部屋を借りた。ティアは別にこちらでも構わないようだったが、半ば無理やりに連れ去られていった。互いに何かとそちらの方が好都合だろう。 「気づいていたか?」 「あぁ、誰かが常に聞き耳を立てていた」  リグレットの問いかけに肯定。食事中どんな些細な会話も聞き洩らさないようにしている気配や、時たま周りを見渡せば視線が合うことがあった。 「流石に勘ぐりすぎだろうか」 「どうだろう、流石にディースの翼と、リリのローブ等目立つ点はいくらでもあるが、今までの注目と雰囲気が違う気もする」 「どうする、判断を誤ったらかなりまずいぞ」  少し想像してみる。今までと違う注目があるとすれば、その原因は間違いなくあの盗賊だろう。ストレ本人か、積み荷に問題があるのか、それとも単純に、仲間を殺された復讐の為に両方が欲しいのか。  いずれでも間違いなく、共に居る全員に危害が及ぶだろう。村の外で待ち構えるならば、ありったけの護衛を集めてから進むのが正しい。逆に村の中で夜間に襲撃してくる可能性、この場合、相手が準備をできる前にこちらの準備を済ませるか、街に向かえばいい。あと一つ考えたくもないが、村に内通者が多数いる場合。昼間堂々と襲う準備等いくらでもできるため、滞在すればするほど危険が増す。 「今日の夜に、最低限の準備をしてすぐにここ出よう」 「護衛は集まらないだろうな」  覚悟の上だ、夜間に出ることによって感づかれなければ、相手の準備が遅れ、戦闘すら行わずに街に着ける可能性がある。そもそも杞憂の場合でも、なるべく早く出ることにこしたことはないだろう。  幸いにもメンバー全員に致命的な疲れは見えず、少し無茶な進行をしてもなんとか二日なら持つはずだ。 「俺は買い出しついでに三人を説得して来る。あんたはディース達を説得した後、準備をしていてくれ」 「わかった、少しでも休めるように急ごうか」  食後の一息をつく間もなく、二人で部屋を出て別れる。 「入っていいか?」  軽くノックをして、返事が来てから部屋に入る。 「私が恋しくて、さっそく会いに来てくれたんですか」  呆けた顔も、無視して話を進めればすぐに引き締まった。 「身体的に厳しく、リスクも拭いきれない手段だが構わないか?」 「別に異論はない。熟練者二人の勘だもの、杞憂でも信じておいて損はないでしょ」 「自分も同じ意見です」 「私も……」 「お前はいいよ、わかりきっている」 「ですよね」  おかしそうに笑うティア、今まで彼女が俺の意見に反対したことは、今のところはない。黙殺されたことは何度があったが。 確信を持って行動さえすれば、彼女はどんな悪でも認めてくれるだろう。いいとは言い切れない思想だが、稀に後押しが必要な自分には、非常に信頼のおける友人である。 「それじゃ準備が終われば鍵を開けて休んでいてくれ、夜に迎えに来る」  それから性急にティアと買い出しを済ませ、体を休めればすぐに夜は更けた。  それぞれの部屋に簡単な書き置きと、一日分に値するだろう宿代を置き、すぐに寝静まった村を出る。  数名が疲れただけならば馬車に乗せて進み、全体が足を止めることをなるべく避けて進行し続ける。 そんな無茶を続けていれば、次に夜空が見えた時にはもう全員に限界が来ており、キャンプを張ることにした。 「流石に、疲れたな……」  そう漏らしたのはリグレット、彼も俺とディースと同じように、馬車では休まず歩き続けていたはずだが、まだ喋る気力が残っていたのか。  周りを見渡しても死屍累々である。あのリリでさえ疲れを見せ、ディースに寄りかかり共に体を癒している。新入りの二人は馬車で伸びているし、ティアに至っては旅立ち初日のように地面に屈している、あの姿勢は逆にきついと思うのだが。  馬車を引いていた馬も人のように目を虚ろにし、あまりにも辛そうだったので勝手に多めの餌と水をやった。活気よく口に頬張るのを見て一安心し、俺も水筒の水を喉に流し込む。体の隅々に力が行き渡るような、そんな感覚が広がり体を癒す。 「俺達だけで野営の準備をするか」  リグレットがそう言うのを聞き、休みたいと訴える体に活を入れる。  俺達、にはディースも含まれていただろうが、そちらを見ると申し訳なさそうに、無言で小さく手を振っていたので諦めた。  テントを組み立て、火を焚いたところで他の面子も動き始める。  素直に俺とリグレットは休憩し、五人が夕食等の細かい準備をするのを眺めていた。 「お疲れさま」  全員で火を囲み、温めたスープを口に運ぶ。水とはまた違った感覚が体を包み、疲労を遠ざける。 「明日はどうするんですか?今日と同じようならあまり食べたくはないのですが」 「いや、明日はいつも通りに行こう。疲労が残ってきついだろうがしっかり食べていてくれ」  スティは弱音と共に食べ物を無理矢理流し込む、おそらく疲労で飲み込むのも厳しいのだろう。 同様に皆、手が遅くなっているのにもかかわらず、リグレットだけはいつも通りに食べていた。老いを感じ始める歳だろうに、どれだけ体力が余っているのか。 「今日の見張りはどうする?」 「今まで通りにしましょう、ここで甘えて死んだら話になりません」  リグレットの問いに対する、ティアの厳しい意見。正論なのは理解してか、全員が躊躇いながらも頷く。 「全員無理はするなよ、疲労を残すようだったら一人さえ起きていればいいからな」  こうして最低限の甘えを与えながらも、恐らく誰も休むことなく見張りをしっかりと行った。  幸運にもその夜襲撃はなく、無駄損だったと笑いながら朝の挨拶を済ませる。  最終日、ペースが維持できれば夕方にでも目的地、商業都市に着くことができるだろう。  昼食を終え再び歩き始めると、雲行きが怪しくなってきた。一時間も経たずポツポツと、乾いた地面に模様を作り始める。  濡れて体力が落ちては堪ったものではなく、急いでコートを羽織るために一旦進行を止める。馬車から荷物を出していると、何やら前方で人影が見えた。  慌てて太刀を取ると、甲高い笛の音が鳴り響く。 ようやく相手を視認できる距離に近づくと、それが盗賊であることを確認できた。 「各自武器を構えろ!」  総じて疲労を顔に出している、恐らく俺達よりも厳しい行進で、村から俺達が出たと報告を受けて進み続けて来たのだろう。 現段階は五人、一人は弓を持っていて既に矢を構えていた。  それを確認してかティアも狙いを定めるが、どれだけ急いでも間に合わず、一発目がこちらに向かって飛んでくる。  俺を狙っていたわけではないので、視線を動かし被害を確認する。誰にも当っておらず安心するのも束の間、馬が崩れ落ち、肩から血を流しているのに気づく。  視線を前に戻せば敵との距離は二十を切っていた、隣にはリグレット、スティもついてきて、後ろにはティアが矢を飛ばし、二本目の矢で弓矢を持っている男を戦闘不能に持ち込んだ。  その時再び接近する人影が増える、前に三、後ろの馬車と三名を挟んだところに十。こちらの二倍を超える人数、事態は絶望的だった。  流石に七名と刃を交える勇気はなく一旦立ち止まる、後ろを見れば十名もの屈強な男が馬車に近づいている。 (最後まで諦めたらダメだよ) (分かっているが、どうする。あと三十秒もあれば仲間が死ぬぞ)  万事休すである、俺個人の力ではどうしようもないほどに。  その時十名の前に歩み出たのがディースだった。  何か策があるのか短剣を持ち進み続ける、その姿は盗賊にも滑稽に見えたようで、薄ら寒い嘲笑が軽い雨音と混ざり合う。  そして確かに、確かに一挙一動見逃さないように見ていた俺の、予想を超えた動きで天使は地面を跳んだ。  獣のような速度で一人に近づき、素手でその首をへし折ったのだ。  腕全体で折るならわかる、しかし正面から何気なく掴み、首を捻りきるのは人の力を超えていた。  一瞬で仲間一人を殺された盗賊達が刃を伸ばす、四方から回避不能とも思われるそれをディースは見事避けきった。  過去に一度だけ見たことのある動き。それは間違いなく恐れられる魔族の動きだった。 「ティア、あいつを援護してやれ。こっちは三人で押さえるぞ」  地獄に垂らされた蜘蛛の糸、それに縋り生き延びるためにも、俺は左腕の包帯を取る。  まだ治りきっていないのだろう、拳を握ると違和感を覚えるが、太刀を支えることに支障は出ない。  天使の規格外な動きに動揺しつつも、俺達が再び闘争心を見せた所で剣を構える敵。  リグレットが一番厄介に見えたのだろう、三名そちらに向かい、残り二名ずつ俺とスティにあたる。  一人二名は厳しく、できれば味方とフォローしあいながら戦えたのなら、コンビネーションさえ上手くいけば優位に立てる可能性があった。  しかし敵としても、そんなイレギュラーの可能性は少しでも潰したいらしく、少々強引に距離を開かれてしまう。  こうなれば後は個々の問題。俺達は無償で反撃できる、そんな迂闊な攻撃が来るまでひたすら耐えるしかない。  一太刀目、浅い切り込みを最低限の動きで弾く、もう一人は動かない。  二太刀目、左右から同時に攻撃。左側からきた上段の攻撃を切り上げで弾き、遅めに来た右の下段を、距離を開け避ける。  三太刀目、左の男が俺の目の死角に入り、右の男は動くことでできた隙を狙う。ここで太刀のリーチが活きる。  直前までの敵の構えを思い出し、首の位置を予想。限界まで右の男を捕捉しながら一回転。  視線というものは重要で、敵がどこを狙うかを予測する場合に非常に役に立つ。どれだけ戦い慣れていても、狙う箇所を確認する必要は一度あるからだ。  大体の場合は互いにいくつも視線を通わせ、予測して攻防するもの。故に移動した後一度も視線を確認できなかった男は、多少リスクの高い斬撃を予想できずに首が飛ぶことになった。  この時一度太刀を振るった俺は隙を見せることになる。しかしギリギリまでもう一人の男の視線を確認していたため、刃の位置は予測できて、一回転した直後に攻撃を防ぐ余裕はまだあった。  ウィルさんの大胆な、舞とも呼べるそれを自分は見ていた。  戦闘はまだ続いているが、二刀流相手にどう対処したらいいのか知識がないらしく、時たま来る浅い刃を弾くだけで済んでいたからだ。  一対一に持ち込んだ彼はすぐに相手を斬り伏せるだろう。それほどの腕があることを相手にしている二人も理解してか、性急に終わらせようと意気込む。  どちらかが傷を負っても構わない、そういった覚悟を感じる重い一撃を間一髪で共に流す。右手の長剣は一旦痺れ動かないが、左手の短剣は小回りもきいてすぐに動ける。  刃を流した際にできる隙に、相手の傷を増やそうと突き刺すが、力が入らず速度が出なかった突きは、簡単に身を引かれて避けられた。  まだ、まだ鍛え足りないというのか。前回襲われた時もそうだ、もう少し力があれば何とかなっただろう状況が何度もあった。その度に今のように悔いるのだ、もう少し鍛えておけばと、もう少し、もう少し。  ネガティブな思考に呑まれそうになり慌てて払う、今は命のやり取りをしているのだ。本当に後悔しきれないことは、今まさに起ころうとしている。  再び捨て身の攻撃、払うことには成功するが今度は左腕までも痺れる。このままだとこちらの体力が尽き、凶刃は体に届くだろう。  再び構えられる刃を見て考える、ウィルさんのように舞えないだろうかと。  シュミレーションする間もなく剣は振るわれる、どうせこのままだとすぐに殺される。それならば一発勝負で試してみようじゃないか。  左から来た刃はそのまま流す、やはり先ほどの流しは失敗していたのではなく、ただ単純に握力の限界だと知る。  右からの刃は先ほどとは受け方を変える。不動を貫き足で衝撃を受けるのではなく、受けた衝撃に流されるまま回転。そこから自分の力も同じ方向に加え加速、勢いのついた剣は左の男の片足を両断する。  体勢を崩し地に伏せる盗賊は放っておいて、もう片方と対面する。  怒りか、怯えか。振るわれた刃は愚直で、先ほどのように衝撃を受け止めず利用。受け止めた右半身は耐性が崩れるが、その分左腕が前に出るのを助長する。腕を切りつけ、持久戦に持ち込むのは容易かった。 突如人間離れした動きを見せるディースさん。私が際どく矢を撃っても、それすら確認し避ける洞察力が今の彼にはあるようだ。 普段は特に、目立った身体能力を見せたことはなく、一体あの身体能力はどこからきたのだろうと、矢を放ちながらも好奇心が疼く。 そういえば魔族の身体能力もあのようなものなのだろうか、リリさんを思い出す。 彼女自身私よりも体力はあるようだけど、まだ人の範疇に収まっている。しかし言い伝えられている魔族の話は嘘ではないだろう、とすれば可能性はスイッチ式か。 意識、無意識どちらかははっきりとしないが、何かをきっかけに切り替えることができるのなら、今持っている情報に統合性を得られる。 そういえばどこかで、似たような光景を見た気がするけど、どこだったかな。 遠い記憶を漁るには、比較的集中しなければならないため今は断念。このまま支援を続けよう。 流石にどれだけ身体能力が上がっても、人数差をそう簡単に覆すことはできない。 しかしひたすらに避け続け、矢で怯んだ相手のそばから態勢を崩すことはできる。 矢を放つたびに男達は傷を負い、悪循環の起点である私を止める為に安易に飛び出せば、それこそ天使が振るう死の鎌に首を刎ねられる。 唯一の負け筋は、ディースさんが力尽きることなのだが、どうやらその心配もないようで、全ての盗賊が倒れるまで彼は跳び続けた。 「終わったのか……」 「ディースに助けられたな」  一見俺達以外に立っている者はいない。  仲間の体を見ても、かすり傷以上の目立った外傷は無く、全員が無事であることを確認できた。いや、一番酷いのは俺の左腕か、もう感覚がないほどに赤く腫れ上がっているが、次に動かせるようになるのはいつだろうか。 「奇跡、ですね」 「確かに向こうは奇跡だろうが、こちらは実力だよ。お前もよく頑張った」 「……ありがとうございます」  実績を出せ、それを認められた嬉しさにか頬を赤らめるスティ。  視線を戻せばディースはゆっくりと膝をつき倒れた、恐らく魔族の技術だったのだろうが、それも万能ではないのだろう。体に相当の負担が来るようだ。  リリが小雨を防ごうとコートを渡すために立ちあがる、その時後ろで物音がした。  どういうことだ、なにがおきている。  前回は仲間も大勢死んだが、護衛も全滅できた。そして残った目標はたった七名、しかも半分以上が女との話じゃないか。  それなのにどうして、立っている味方が一人もいないんだ。  理不尽すぎるだろう。  俺はこうして片足を失い、隣に居る仲間も全身を切り刻まれ、死にまではしなくとも、その痛みは酷いものだろう。  理不尽すぎるだろう。 堕天使一人が化物じみた、魔族のような力で戦況をひっくり返すなんて。戦いに置いて最も重要な数を無視するなんて。 理不尽すぎるだろう。 一人も獲物が重傷を負っていないなんて。 七名?それどころじゃない、二人は戦いに参加しなかった。たった五名に十八名が敗れたんだ。 決して油断していたわけじゃない、今までどんな相手でも油断せずにやってきたじゃないか。 だからこうして女四名に、左側が不自由な男、短剣しか持っていない堕天使、老いを感じる男。決して俺達は、少なくとも俺は油断しなかった、それなのにどうして。 ならばこうしよう。油断か俺の命を取らなかった連中に、その重みを思い知らせよう。 幸運にも弓と矢筒はすぐ近くに落ちている、それを構え狙いを定める。まだ誰も気づかない、強くなってきた雨音と、戦いの後の余韻から誰もこちらに気づかない、油断し過ぎて気づけない。  誰を狙おうか?真っ先に二刀流の女が思い浮かぶが、馬車の影から小さい影が飛び出し目に付く。そいつを狙おう。  弦を離した直後、目が合う。幼い、魔族の瞳と。  振り向くと矢を番える盗賊が見えた。  真っ先に浮かんだのは何故生きているという疑問、どうして?  俺じゃない、確実に全員に致命傷を与えた。  リグレット?違う、彼は俺達が加勢するまで防戦しつづけ耐え、戦っていた三名は俺が全て仕留めた。  なら誰だ、一人しかいないじゃないか、あの方向には、スティしかいなかったじゃないか。  何か感情が湧き上がる前に矢は放たれた。誰を狙ったか確認するまでもなく、俺は太刀を構え走り出す、その間にも一発、また一発と俺を無視し矢は通り過ぎる。  四発目を番えた所で刃を突き刺す。今度こそ動かなくなったのを確認し、その隣に転がっていた男を確認する。  こいつも生きているじゃないか。腕や足を切り刻まれ、立ちあがることさえ難しいだろうが、このままだと当面は死なない。その苦しみから解放するためにも、一突きで胸を貫いた。  そして振り返る、惨状を覚悟して。  一見誰も倒れていないように見えた、しかしリリを守るように立ち尽くしたリグレットの背中から、二本もよくわからないものが生えている。  ゆっくりと崩れ落ちるその背中に、ティアが駆け寄るのを見届け俺は彼女の元に向かった。 「どうして」 「ひっ……」 「どうして殺さなかったんだ」  怒りに任せ太刀を落とし、スティの襟元を掴み上げる。 「とどめを刺さなかった理由を言え」 「理由……」 「ないのか、お前の気まぐれで、あいつは撃たれたのか?」 「違う……、理由は、ある。怖かった、この手で殺すのはどうしても怖くて……」 「怖かった?恐怖?お前は、あいつが、仲間が死ぬよりも、敵を殺す方が怖いっていうのか!」  途方もない怒りをぶつける為にも、右手を強く押し出す。  すっかり強くなった雨で、ぬかるんだ地面を滑りながら、泥と衝撃でスティは咽た。 「ウィルさん、リグレットさんはまだ生きています!早く来て下さい!」  ティアの声で少し冷静になり、急いでリグレットの元へ向かう。  一本は背中に、もう一本は背面から胸に突き刺さっていたと思っていたが、すこし逸れていた。 「多分肺には刺さっていると思います、急いで医者に連れて行けば間に合うかもしれません」 「そうか、矢は抜くなよ。出血と病が怖い」  馬を見るが、ストレが手当てしているものの、到底人を乗せて走ることはできなそうだ。  背負う以外に早く移動できる手段はないだろうか。 「ウィル、リリは無事か」 「あぁ、あんたが全部防ぎきった。彼女は生きているよ」  今にも掻き消えそうな小さな声、喋ることも辛いだろうに。 「そうか、それはよかった。今度は守ることができたんだな……」 「おい、何死ぬようなこと言っているんだ」  体力は自信あるだろうと言いかけて、その予想よりも弱々しい体に気づく。  そこで悟る。仲間を引っ張るために体を酷使し、そして今度は盾になったのだと。 「もういいんだ、今度こそ守れて、俺は最高に今、幸せだ」 「死なせない、絶対に死なせない。背負ってでも医者に連れて行って、またあんたの軽口を聞かせてもらうからな。次にあんたが酔い潰れるのは何時かも内心楽しみにしているんだ、絶対にこのままじゃ終わらせない」  ティアに手伝ってもらい、担ぎあげようとした時に気づく。何か雨ではない音が近づいてくる。  馬車だ、急いでいるのか死体を避けてでも、道の隅を通ろうとするところを、体で塞ぎ止める。流石に人間を引きはしないらしく、慌てて馬を止めた。 「邪魔だ、どいてくれ!納品を逃したら不味いんだ」  焦りと怒りが混ざり合う罵声を浴びせて来る。 「こちらには怪我人が居る、今すぐ治療を受けさせなければ命が危うい」 「……こちらも商売でね、悪いが他を当ってくれ」  醜いな、他人の命よりも自分の利益か。そういえば俺もその思想だったか。 「そうか、なら悪いが斬られても文句は言わないでくれよ」  傍に落ちていた剣を拾い、真っ直ぐに刃を向ける。 「あ、あんたに道徳はないのかねっ」 「道徳が仲間を殺すなら、そんなものあんたと一緒に殺してやるよ」  俺が本気と見るや否や、馬車から転げ落ちる男。  それを確認してティアと共に積み荷を全て降ろし、空いたスペースにリグレットと乗り込む。 「ティア出してくれ」 「はい、行きますよ」  三人を乗せ、馬車は限界まで早く走り出した。  馬の応急処置を終え、雨の中泣き崩れているスティに近寄る。 「ねぇストレ、自分が悪かったのかな……。自分が殺せなかったから、こんなことになっちゃったのかな……」  その言葉に私は返す言葉は無く、ただ膝を貸し、コートを着ずに泣いている彼女を雨から守ることしかできなかった。 「でもさ、あぁなるってわかっていたとしても、殺せなかったよ。どうしても直接命を奪うことなんてできなかったよ……」  スティのその恐怖は把握していた。昔父親が野党を殺すのを見て、彼女は言い表せぬほどの感情を抱いたそうだ。  恐らく人が、人の命を奪うことの不条理さを、幼く豊かな感性で直面してしまったのだろう。今こそ人が死ぬことにそのような感情は抱かないらしいが、自分で殺めようとすると話は変わる。そうしようと思っただけで負の感情が頭を埋め尽くし、一切動けなくなるのだ。  もしも殺めてしまったらどうなるのか。想像だけで動けなくなるのに、それ以上とは精神を破壊するまでに至るのではないだろうか。  初めこそ自衛の為にも、どうにかして克服しようと二人で試みていたが、その可能性に辿り着いてからは諦めることにした。身を守る為に殺めるのに、彼女の心が壊れてしまっては本末転倒である。  それゆえ私は彼女が殺せなかったことも、ウィルとリグレットが死体の確認を怠ったことも、リリが注意せずに動かなかったことも、そして私がこのことを誰にも伝えなかったことも、そのいずれも責めることはできなかった。  こんなにもそれぞれが辛い思いをしているのに、その誰かに責任を擦り付け、責任を背負うことなど到底できそうになかった。  痛みで体は動きそうにもなかった。  普段と比べ、かなりリミッターを外してしまった為、その代償が今痛みとして襲ってきている。決して後遺症は残らないだろうが、しばらく筋肉痛に悩まされるのだろう。  リグレットがリリの命を庇っただろう事態は、会話を聞いていればなんとなく察した。遂に負傷者が出てしまったのかと、どこか他人事に思いながらも彼の生死を気遣った。  自身でやるべきことはやったし、全ては過ぎたこと。後はもうなるようにしかならないだろう。  自分でリリを助けられなかったことは後悔していない、それも所詮過ぎたこと。それに動ける余力を残した戦いをしていれば死んでいただろう。  しかし、今こうしてリリがショックで崩れ落ちている傍に、自ら行けないことは非常に口惜しい、堪らなく力不足の自分が嫌になる。 今起きていることだからだと言うわけじゃない、確かにそれもあるが彼女が、俺が堕天して救った彼女がこうして悲しんでいるのに、慰めることすらできない事実が苦しい。 それは義務を犯したような感情。 あの時の行動は咄嗟だった、目の前で無防備に殺されようとしている彼女を助けたのは。 天使の仕事にも慣れ、何度も自ら情報を集めに行った。 そうしていると魔族に関する仕事が回ってくるのも必然で、王城の兵士に同行し、魔族の集落を調査する仕事を視察する時が来た。 調査のはずが兵士の態度はあまりにも高圧的で、罵声が虐殺に変わる時間はそう長くはなかった。 そこまではよかった、そういった事実は把握していたし、それを見届け記録することにも躊躇いは無かった。 しかし、生き残り最後の少女を、十二分に嬲って殺そうとした時に、まだ若い俺は思わず間に入ってしまったのだ。 傍観する故に介入されない天使、その天使に守られた少女は完全に身を守られる、その翼が切り落とされるまでは。 そして切り落とされた時、最初に湧きあがった感情は怒りだった。 名誉も、地位も、未来も、その全てを彼女に奪われた。しかし怒りを鎮めたのもまた、彼女の存在であるのは何の皮肉か。  失った全ては彼女そのものだと感じた、彼女の為に捨てたのだから、そうであるべきだと感じた。そうでなくてはならないと意識した。  だから俺は、彼女の為に、翼と共に捨てられなかった残りカスを全て彼女に捧げ、生涯全てを彼女の為に尽くそうと感じた。  なんて醜い覚悟。全てを失った現実を彼女に擦り付け、更には怒りさえ彼女にぶつけることはできないなど、傍観を捨て、自我を優先した男とは思えない醜さ。  常に理解していた、その醜さを、それでも醜さに溺れずにはいられなかったのだ。 「ねぇ、ディー」 「……なんだい」  今、彼女の声を初めて聞いた。非常に可愛らしく、安心感を覚える声。 「私動けたんだ。矢が飛んで来ているのに気づいて、咄嗟に動けば避けられたんだ。でも、その時思ったんだ。あの矢が私を貫けば、また家族に会えるのかなって。一度そう考えちゃったらもう動けなかったよ、そんなにも家族は温かかった。でも、また私を庇ったよ。一度目は家族が、二度目はリグレットが、その身を呈して庇ってくれたんだ、両方頑張れば私は動けたのに、一度目だって怖くて動けなかっただけなんだ。たいして歳の離れていないお兄ちゃんだって怖くて震えながらも戦ったのに、私にはできなかったんだ。もう嫌だよ……後悔したくないよ……私のせいで誰かが死ぬなんて見たくないよ……」  初めて彼女の声を聞き、初めて彼女は吐露した。その時彼女は、確かに二度の後悔を乗り越えて、人に戻ったのだ。 心が壊れ、命令を聞くだけの人形じゃなく、しっかりと自分の意思を持ち、生きる人間に。 俺は堪らなく礼が言いたくなった、彼女を人間にしてくれたリグレットに礼を言いたくなった、どうか死なないでほしい、切にそう願う。 なるようになれなんて思わない、祈りが少しでも彼の助けになるならば、俺は決して祈りを止めない。 義務でなく、こんなにも彼女を心から愛おしいと、そう感じるきっかけをくれた彼に礼を言いたい。 「後悔しているんだね」 「うん」 「もう二度と後悔したくないんだね」 「うん」 「なら彼が無事に帰って来たらまず謝ろう、それから庇ってくれてありがとうって、一緒に礼を言おう」 「うん」 「それから、これからも可愛らしいその声を聞かせてくれないか。愛おしいって思えたんだ、今まで呪いとしか思えなかった存在を、初めて愛おしいって思えたんだ。これからずっとそばで泣いて、それから笑って欲しんだ」 「うん、今までありがとうディー。私人になったよ、ディーと同じ人になったんだよ」 「知っているよ、俺が一番知っている。心が壊れてしまった君を、俺が今まで傍で見て来たんだ。だから今は祈ろう、君を救ってくれた彼の無事を祈ろう」 「私も祈るよ、私を救ってくれた人に、ごめんなさいって謝らないといけないから、ありがとうってお礼を言わないといけないから。だからどうか無事でいてって」  借りて来た馬から片腕で降りる前に、四人から絶え間ない質問攻めにあう。焦る気持ちはわかるが、誰か手伝って欲しい。 「間に合った、リグレットは一命を取り留めた」  湧き上がる喜びの声、是非彼に見せてやりたい。お前が生きることでこんなにも喜んでくれる人間が居るんだって。  リリが喋っていたりと、色々尋ねたいこともあるがそれは我慢。  最低限の事だけ伝えると、真っ先に馬車を奪った商人の前に行き、しっかりと頭を下げた。 「突然の無礼、申し訳なかった。あなたのお陰で彼は助かることができた、本当に感謝している」 「そうか、それはよかった。俺も悪かったよ。雨に打たれて冷静になった、俺があんたの立場だったら同じことをしただろうさ」  少し共感してくれることにより胸が軽くなる、罵られ殴られることも覚悟していたからだ。 「それでも詫びはしっかりする、今回で損失した分の利益と、名誉分の金をしっかり払おう」 「あぁ、それは別だ、しっかり払ってもらう。でも今は町へ向かおう、汚い話は後でも構わないさ」  空を見上げると雨雲こそ散りはしなかったが、四人の顔には確かに太陽が見えていた。 4.信念  一旦医者に預かってもらっているリグレットの様子を皆で身に行き、穏やかな寝息を立てていることを確認する。  その後、個人的には宿に行きたかったのだが、ストレが面倒を見たいと言って止まなかったので、彼女の家に向かうことになった。  血と雨が混ざり合った衣服を纏いつつ、街を練り歩く集団は流石に目立ち、異様な目で見られることに堪えながらも、一つの豪邸に辿り着いた。 「うわぁ……」  ティアの口が開いて塞がらない。かく言う俺も、彼女らの話を聞いて予想していたのにもかかわらず、少なからず驚愕していた。宿を幾つも繋げたような規模の実家を持つ人物と、こうして親しい間柄になるとは思ってもみなかった。  それに対しディースとリリは特に驚いている様子もなく、天使である貴族の家は最低でも、これと同等の規模なのだろう。  雨の中も職務に忠実な門番をストレは口答で退け、まだ見ぬ異界の地へ俺達は足を踏み入れる。 エントランスに入るや否や、使用人達が床を雨水で濡らすこちらに気づき、急いでタオルを渡してくれる。厚みのある温かいタオルに、上流の生活はここまで違うのかと驚く。 「やぁ不届き者の娘よ、よく無事で帰ってきてくれた」 「私が死ぬとでも思っていたの、あなたの娘よ」  娘が帰って来たのを聞いてか、慌てたように奥から彼女の父親が出てきて、服が濡れるのも気にせずに、軽い抱擁で迎え入れる父親。それだけで人格者であるのだと確信できる。 「もう一人の頼れる娘が帰って来なかったからな、ついて行ったのだと気づいたら心配などいらなかったさ。おかえり、スティ」 「ただ今戻りました」  そっと頭を撫でられ、安心感に顔を綻ばせる。嫉妬と共に、懐かしい情景が思い浮かんだ。 「して、こちらの方々は?」 「私の友人、医者の所で一人が面倒を見てもらっている、雨が止んだ時にでもこちらに運ばせる。数刻前に盗賊に襲われてね、皆のお陰で何とか生き延びれたの。命の恩人達よ、しばらく家に泊めても問題はないよね?」 「そうだったのか……二桁以上の盗賊達が死んでいると報告があってね、本当に生きていてくれてよかった。他の方も心から感謝する、ここには気が済むまで滞在してくれて構わない、すぐに湯を沸かして夕飯にしよう」 「湯?」 「後で女性陣に連れて行ってもらうといい、きっと気に入る」  小さな湯船ならば、この街の一般家庭にはあるのだが、それ以外の村には浄水施設が無いことと、そもそも金銭的なもので宿にすら置かれていないのが一般的である。  つまり今までティアは風呂を体験しておらず、その上この豪邸にある湯船だ、きっと素晴らしいもので、彼女を驚かせるだろう。 「俺は今日はいい、適当に体を拭いた後、自分とリグレットの分の荷物を整理しておく」 「そう、わかった。晩御飯は皆で一緒に食べましょうね、リグレットと一緒に食べられないことが寂しいけれど」 「あいつもそう思っているだろう、全員生きているんだ、いつでも共に食べられるさ。用意ができたら呼んでくれ」  ストレが頷くのを見て、近くの使用人に部屋を案内してもらう。  明かりが灯されておらず暗い部屋。  ウィルが居ることを確認し、湯上りのティアは声をかける。 「ウィルさんお風呂凄かったですよ!体の芯までお湯で温まることが、こんなにも気持ちのいいことなんて知りませんでした」 「……」 「そんな私が知らないことでこの街は溢れているんですよね?街並みを見るだけでわかりましたよ、見たことのない物ばかりで胸が躍りました」 「……」 「落ち着いたら街を案内してくれますか?ウィルさんが私に似合う可愛い洋服買ってくれたり、美味しい物を食べながら知らないこといっぱい教えてください、きっと楽しいですよ」 「……」 「ね、ウィルさん。まだ泣き止めないほど辛いですか……?」 「すまない」  ウィルは涙を流していた。決して声を上げることはないが、ティアに見られている事実を理解していても、涙を隠せない程度には消沈している。 「ほら、これで少し安心したでしょう?言いたければ言っていいんですよ、あなたを苦しめる辛いもの、全て溜めこまずに吐きだしていいんですよ?」  ベッドに上りそっとティアは後ろから抱き締める、幼子をあやすように、優しく頭を撫でながら。 「怖かった、ずっと怖かった。何度も誰かが死にそうになって、またあの時みたいに俺の親しい人が死ぬんじゃないかって」  彼はその恐怖にずっと耐えていた。誰かと親しくなるにつれて増える恐怖、死線を潜り抜けるたびに増える恐怖、リグレットが倒れた尋常じゃない恐怖。  ずっと耐え続け、遂に身の安全が確保された時に、孤独をきっかけに全てが決壊した。 「大丈夫です、みんな生きています。それにこれからも誰も死にません、あの絶望的な状況さえ突破したんです、何があっても大丈夫、大丈夫」 「大丈夫なんかじゃない。あれ以上のことなんていくらでも起きる、通り魔でも、事故でも、天災でも、病気でも、人は唐突に死ぬんだ、抗いようもなく」 「だから人を避けるんですか、こんなにも親しくなった人達からも、いずれ逃げ出すんですか。それって十分悲しいですよ、今ウィルさんが居なくなったら私、酷く悲しみますよ」 「……できないさ、今更逃げることはできないさ。こんなにも温かいのだから」  ウィルはそう言いティアの体温を感じる、身近で人の温もりを。  しかしそれでも、別れの悲しみを増やさない為に、これ以上、人と親しくなるなんてできないと。  スティはその一部始終を見ていた。  晩御飯ができて、これを機に謝罪でもできたらと、率先してウィルを呼びに来た。  それなのに開いたままのドアから聞こえてくるのは、勝手に完璧超人だと思い込んでいた彼とは似ても似つかない、母親に慰められる少年しかいなかった。  違うと感じた、彼が欲しいのは謝罪じゃない。  なら何か、彼がほしいものは謝罪ではなく何か。 そうだ、泣き喚く少年が欲しいのは安心感ではないか。それが最も彼に対する誠意。  ならばと、スティは決意した。 「確かに約束していた金額だ」  翌朝、俺は持っていた交易品をストレの父親に買い取ってもらい、そこから必要な分を持ち、昨日の商人に会いに来た。 「商売の方は大丈夫か?」 「大丈夫なわけあるか、利益はガタ落ち、信頼は事情を話したら少しましだったが、それでも確かに失った。でも助かったんだろ?ならいいさ、こちらの損害なんか取り返しのつかないことじゃない」  気持ち良さそうに笑い受け止めてくれる。 「そう言ってもらえると助かる、何か用があれば贔屓にさせてもらう」 「そうか、いい物仕入れて待っておくから常連にしてくれよ」 「あぁ、そのかわり他の場所と大差ない程度だったらすぐに離れるからな」 「愛想尽かされる程度の仕事なんかしてねえよ、期待していてくれ」  また一つ頭を下げて背中を向ける。予想していたより随分と所持金が少なくなってしまったが、それでもまだしばらく楽はできる。ティアと買い物に出かけるのもいいかもしれない。  昨日の出来事は恥かしくも、真正面から悩みを受け止めてもらったことで、普段の生活では得られないほどの幸福感に包まれた。  こんなことならああなる前に、ティアに悩みを聞いてもらっていたほうがよかったのかもしれない。こうした日々を過ごすことで過去を克服し、今の友人たちとこれ以上に親しくなることに対する覚悟が、いつかできる日が来るのだろう。  今はまだ厳しいが、それでも少しずつ前には進めている。二ヶ月前、初めて強引に干渉してきたティアには感謝しきれない。 「……ウィルさん、話があります、今大丈夫ですか?」  屋敷に帰った俺を玄関で待っていたのは、ティアではなくスティだった。 「別に構わないが、なんだ」  感情に任せてスティに当たってしまったことを忘れてはいない。正直どうしたものかと悩んでいて、何の用事かは知らないがせっかく一人で来てくれたのだ、これを機に素直に頭を下げるべきだろう。 「あの、私に剣を教えてくれませんか?」 「え……」  中庭に移動し、いざ謝らんといった時に先に彼女がそう言った。 スティからアプローチしてきたわけで、少し考えれば相手が話すのを待つべきだったのに、焦っていた俺は見事に謝る機会を失ってしまう。 「どうしてまた俺なんかに」 「私が知っている中で一番剣が上手い人だからです。二刀流の技術なんてなくていい、ただ何度も模擬戦をして、私がそれに合わせて成長さえできれば」  そんなものでもいいなら構わない、それどころか謝罪の代わりとしては、俺に適した手段ではないだろうか。 「でもどうして強くなりたいんだ?お前は今だって十分強い、大人二人を相手にできるなんてそうそういないぞ」 「それだけじゃまだ足りないんです。私にはどうしても人を殺められない理由があって、誰も死なずに済むように勝つには、まだまだ力が足りないんです」  苦悶の表情、彼女がよく見せる力不足を嘆くそれだ。  できればその苦痛を振り払ってやりたい、原因は違えど俺と似た思いをしているなら。  それに彼女が強くなることで、俺自身の不安も薄くなるだろう。 「わかった、俺でよければ手伝う。いつ時間が空いている?」 「いいんですか、ありがとうございます。こちらの都合ですし、いつでもいいですよ」  了承の言葉を聞いて笑顔に溢れる彼女の顔。 「なら明日から毎日、午前中にここでやろう、準備は任せた」 「はい、よろしくお願いします!」  首が落ちそうなほど勢いよく頭を下げ、一向に微動だにしないため、気恥かしさに堪えきれず室内に逃げた。  昼にはティアを誘って外出する予定なので、それまではやることがなくなってしまった。  ティアには昼食の時にでも声をかけることにして、一旦リグレットの容態を見に行くことにする。 「起きていて大丈夫なのか」  寝ていると思い、ノックもせずに部屋に入ってみれば、リグレットは体を起こし、退屈そうに本を読んでいた。 「あぁ、まだ傷は痛むが大丈夫だ。たいして日も経たずに、運動さえしなければ普段通りの生活をできるようになるだろう」  来客が来たと見るや、すぐに本を脇に起き、退屈しのぎができそうだと笑顔を見せた。 「よかった、本当によかったよ」 「らしくねえな、何かあったのか?」  そう尋ねられ、真っ先に思い出すのは昨日のティアとの出来事。おそらくリグレットの問いの答えとしては間違いだが。 「いろいろありはしたが言いたくない」 「ひでぇ、俺を虐めて何が楽しいんだ、しばらくはこのベッドだけが友人なんだぞ」 「別に虐めてなんかいないさ。俺に何があったのかを想像して、暇をつぶせるように気を使ってやっているんだ」 「そいつはありがたいね。ところで俺のために使った金がいろいろあっただろ、いくらだ?」  強引に来たな。 「あんたには払わせない。治療費はディースが出したし、ここへの滞在はストレ一家の好意だ。商人に払った金も俺が好き勝手やった結果だしな」 「それでも出すべきものは出すべきだろう」 「そんなにあんたも自己満足したいのならさっさと体を治してくれ。暇だからって体を動かさないでな」 「はいはい、わかったよ。この話は終わりだ」  降参したように手を上げ話を終わらせる。その言い方だとベッドを抜け出すことを止めそうにない。  それから少し雑談し、昼の時間になったところで、暇で引きとめようと必死なリグレットを振り払い食堂に向かった。  何故か他の五名が揃っており、こちらを見るなりディースが声をかけて来る。 「ウィルで最後だよ、みんな待っていたんだ」 「なんだ、この屋敷に居る時は全員で食事を取るのがルールなのか?」 「別にそんなことはないですよ、その場の空気みたいなものですから気にしないでください」  ティアがそう言うのに内心喜ぶ、決して表情には出さなかったが。  そういった関係も悪くはないと思う、家族ではなく、家族のように、言葉を使わずに共感し合うような。 「で、どこに行っていたんだい?」 「リグレットのところだ、暇そうだったぞ」 「え、リグレット起きていたの?」  ディースの隣から唐突に立ち上がるリリ。今までのリリと言ったら無言そのもので、空気のような存在だったが、昨日からは年相応か、少し幼い程度に無邪気さを見せている。正直その豹変ぶりに未だ対応を決めかねていた。 「あぁ、本人曰く座る程度なら問題はないらしい。皆もよければ暇つぶしになる話題か、物でも持って行ってやってくれ」 「ねぇ、ディー」 「あぁ、食べ終わったらさっそく会いに行こう」 「うん」  二人にはそれだけで通じる会話だったのだろう。リリは少しでも食べ終われるようにと、すぐに会話を止め食事に集中した。  リグレットに会ってどうするんだ、と尋ねるのは流石に野暮というもの。リリが喋れるようになったことを見るに、きっと彼が心を開くきっかけを作ったのだろう。ディースもそれが嬉しいのか、以前よりも表情が楽に見える。 「ティア午後は暇か?」 「特に何も考えていませんでしたけど」 「そうか、なら一緒に街に行くか。服も欲しいんだろ?センスがないから選びはしないが買ってやるよ」 「……覚えていてくれたんですか」  意外だったのか少し嬉しそうに微笑む。 「昨日のことじゃないか、忘れるわけがない」 「そう、ですよね。じゃあ今日は甘えちゃおうかな」 「なに、大勢の前で堂々とデートのお誘い?」  そこにストレが割って入る。彼女はほとんど表情が変わらないので、初めは何を考えているかわかりづらかったが、最近はコツを見つけた。  今も目を見れば、リグレットと同じ刹那主義者の目がギラギラと光っている。今おもしろければどうなっても構いやしない、そんな迷惑極まりない瞳。慎重に対応せねば後片づけが面倒だが、最近はそういう思考も悪くはないと思える。 「別にそういうつもりで言ったわけじゃないが」 「なら私もついて行っていい?最近息抜きした記憶があまりなくて」  昨日も散々風呂場で三人を巻き込んだと聞いていたが、それは息抜きに入らないのだろうか。十中八九何か刺激を求めてついてくるための方便だろうが。 「どうするティア?」 「何故私に確認を取るのですか、別に一緒でも構わないのでは?」 「それじゃこの機会に彼を奪って行っても構わないと」 「ストレ、私のことはもう飽きちゃったの……?」  今どさくさに紛れて問題発言を呟いた奴が居るぞ。 「質問の意図が読めません、ウィルさんが誰を好きになるかは私に関係ないんですが。というか奪うも何も私のものじゃないですし」 「え……」  呆けるストレを初めて見た。意外と彼女の感情を見せる表情は、けっこう可愛らしいと思うのだが、普段は余程のことがない限りその無表情は崩れない、いや、普段無表情が故、それ以外の表情が特に魅力的に感じるのか。 「もしかしてと思っていたけれど、君達は特に男女の関係ではないのかい?」  はっきりと確信を問うディース、おそらく誰かが聞かなければ事態は進まなかっただろう。何せティアの頭にはその選択肢が無いのだから。 「そんな関係ではないですが、どうしてそう思ったんですか?」 「どうしてって、ティアさん好意を隠さずウィルさんに接していますし、ウィルさんもそれを受け入れているから。そう言う関係なんだろうなって私でもわかります」  スティの反応にティアは理解できないと、助けを求める視線をよこす。  所謂友達以上恋人未満、その状況を特に進展も後退もさせず、意図的に停滞させていることが、わりと特殊な関係ではあるのだろうと理解はしていたが、ティアはそうではなかったらしい。 彼女が全く理解できない価値観を覆す言葉は思いつかず、その視線を無視した。 「別に俺は拒否するつもりも受け入れるつもりもないし、ティアも俺の態度に文句がないのならそれで俺達は構わないのさ」 「はぁ、こんな不思議な関係も世の中にはあるんですねぇ」  漠然と呟くスティ、誰しも自分のことは見えないらしい。 「ごちそうさま。それじゃ二人の準備が終わったら、部屋に呼びに来てくれ」 「女性にエスコートさせるとはいい度胸ね」 「そういう主義なんだよ、男女平等ってやつだな」  効率主義なだけである。一体、二人の準備を待っていたら、どれほどの時間を暇することになるのやら。 「ここで使うのは差別じゃないですか?」 「なんだ、文句あるのか」 「あるわけないじゃないですか、なるべく早くするので待っていてくださいね」 商業都市が商業都市と呼ばれる所以は、街自体が海に隣接し船での交易が盛んで、なおかつ王都を始めとする、都市と称されるほど大規模な町の、ほぼ中心点に存在しているからである。 人の出入りは当然多くなり、溢れんばかりの人と資金で街は活性化。住みやすいように道は石畳で覆われ、上空から見れば網目のようにいくつも水路を作り、その水上で商いをしたり、船で巨大な都市を移動しやすく整備されている。 更にはそれとは別に地下には下水道が作られ、一般家庭にも水式トイレと風呂を用意できる、素晴らしい生活環境を整えられる。 その分値段は張るのだが、そこは商業都市。探せばいくらでも人を選ばない仕事はあり、働く意欲さえあれば飢える心配はない。 魔族も例外ではなく仕事こそ受けられるものの、人口が多い分迫害主義者はどこにでもおり、リリのように外に出る時は、フードを被っていなければ難癖を付けられる可能性はある。 しかし最低限自重さえしていれば、もし絡まれたとしても自警団や、善良な市民がそれを見逃すわけもなく、魔族が人として生きるには十分に素晴らしい環境である。 他の都市ではここまで温かな歓迎はされず、王都に至っては入国がばれようものなら、市民が城につき出す始末。 自警団もなんと、ストレの父親のような金持ちが、個人的に金を出し合って運営している。そのような経緯で運営されているのが公表されているためか、住民全員が他者とのつながりを大切にし、治安をより良くしようと意識することに繋がっているのだろう。 有り余る金が、人との争いを抑える珍しいケースではないだろうか。 「おいしいですー、ウィルさんも少し貰いますか?」 「俺はいい、見ているだけで胸焼けがしている」  ティアは見たこともない菓子を見つける度に、好奇心によって大部分が消え去った遠慮で俺に金をねだった。特に問題もなく、気前よく買った結果が、昼過ぎとは思えない菓子の量で埋まる彼女の両手だ。 「これもサクサクフワフワで美味しいですね、なんて名前ですか?」 「シュークリーム、覚えたらさっさと量を減らして、私も気分が悪い」 「なんだ、乙女は皆、菓子専用の別腹を持っているんじゃなかったのか」 「そんな迷信を、本気で信じているような人間なら期待外れだわ。それにティアの別腹は菓子専用じゃない」 「どうみても好奇心だな」  彼女の好奇心は時たまこのように暴力に値する。  知りたいことがあれば、他者を気にかけることもなくなる時もあるし、他人が不快に思うことそのものが好奇心の対象であることもある。  この気質は刹那主義者の二人と非常に似ており、リグレットが動けるようになれば、いつか三人で何かをやらかすと確信している。  それに対する覚悟だけではなく、被害者になりえるだろう四人で、対抗手段を確保することも検討しておこう。 「ふぅ、やっとなくなりました」 「少し腹が出ているぞ、そのまま今日服も買いに行くのか?」 「まぁ自分のせいですし気にせず行きますよ」 「少しどこかで休憩する?歩くのも辛いでしょう」 「覚悟の上です、すぐに服も見たいですし向かいましょう。どうせすぐ消化してへこむだろうし」  好奇心のためなら、一時的とはいえ女すら捨てる覚悟があるのか。 「だそうだストレ、知っている良い店に案内してくれ」 「想いを寄せる女の服も選べないの?」 「下手に気取って失敗するより、お前に助力してもらって、似合う服を来てもらった方がいいだろう」  反応を楽しもうと露骨に煽ってくるストレに、期待には答えられないような回答をする。 「ここまで潔いと素敵ね、本当に惚れちゃいそう」  何か別の期待に触れた。 「別に構わないがティアのようになるだけだぞ」 「そもそも二股はどうかと思うのですが……」 「愛した人間を愛することの何がいけないというのか!」  演劇のようにおおげさに宣言。 ここでスティとの関係を確信、同性愛どころじゃなく家族内とはただものじゃない。 「はぁ、理解できない思想です」 「否定はしないのね、そういうところティアの魅力よ」  ティアに向けられる蕩けた視線。  状況が何やら混沌としてきた、刹那主義者恐るべし。 「着いた、ここよ」  状況を打開したのは以外にも本人であった。 「それじゃ近くで待っておくから、精算の時に呼んでくれ」 「えー、どんな服がいいのか、意見ぐらい聞かせてくれてもいいじゃないですかー」  少し思案。自分の服の好みは完全に機能重視である、動きやすさを重視し、なおかつ刺突を好むため、返り血が目立たない濃い色の服装が主。最近は左腕を折り続けているため、着ることの容易な服装を選ぶことが多いか。 とまぁ自分自身の好みを考えても、他者に求める好みに繋がることはないと知り、無難に返事をする。 「ティアらしさが出る服がいい」 「それだけ分かれば十分、後はこの私に任せなさい」  何やらストレが怪しい笑みを浮かべていたが大丈夫だろうか。 しかし問題があればティアは止められるだろうし、気にせずベンチに座り水路を眺める。 流石と言うべきか、目立ったゴミや汚れはなく、陽光に煌く水面に魅了され、思わず水に浮かんで安らぎたいと感じてしまう。 そういえばそれなりに整備されたビーチもあり、泳ぐことは可能なのだと思いだす。でも俺は泳げない、というか泳げる人間の方が少ないのではないだろうか。 ティアはなんとなく泳げそうだが、リグレットはまず無理、傷が治ったとしても泳ぎ方を知っているとは思えない。 ストレとスティはこの街に住んでいるのだし、まず泳げるだろう。 しかしディースはどうだろうか、そもそもあの翼は水に濡らすと面倒以前に、水を吸って体が浮かばなそうだ。 リリは以前の生活がわからないため何とも言えない。水辺がそばにある環境ならば、万が一を考え泳げるように練習するだろうが。 でも大半が泳げなくとも海はいいかもしれない。浅瀬で体を濡らしたり、砂場で遊ぶだけでも十分楽しそうだ。 俺とリグレットが体を治し、全員が暇そうならば提案してみるのも悪くはないだろう。 (何一人で笑っているの?お金のことでも考えていた?) (いや、皆と海に行ったら楽しそうだなと。にしても久し振りだな、数日顔を見せなかったなんて珍しいじゃないか) (……別にそんな時もあるわ。でもその数日で随分変わったわね)  自分でもそれは少なからず自覚している、楽しい生活が別れの恐怖を薄れさせているのだろう。  しかしそれでも、完全に恐怖を忘れることはできず、他者との間に引かれている、ある一線を超えるには至らない。 (二人が呼んでいるわよ)  返事をしようとした直後にフィーは掻き消えてしまう、別に傍にいたままでもいいじゃないか。 「どうですか?」  ティアが着ていた服は、大人しさと可愛らしさが混同していた。 純粋に、無邪気に、そう連想する服は、普段可愛らしい服を着ているストレらしい選択と言えるが、決定的に違う箇所があった。 胸である。 ストレの胸は注視しない限り無いに等しく、それに比べティアの胸は、どんな服でも存在感がある。 そして今回の服は胸を強調する作りなだけでなく、少女らしい印象を踏み台にして、更に女性らしさを際立たせていた。 ストレの笑みはこれだったのだろう。そしてティアもそれを理解してか、腕を組み、見せつけるように持ち上げる。 「いいんじゃないか、凄く可愛いと思う」 「ありがとうございます、でもそれだけですか?」 「いや、今すぐにでも揉みしだきたいほどだ」 「え、じゃあ買ったらそのままウィルさんの部屋に行きま」「精算するぞ」 「ですよねー」  このようなやりとりは二度目である。ティアとの下ネタは必ず生々しい方向に突き進み、それを聞かれた今回は、周りから酷く形容しがたい視線を受けている。  ストレはその視線が特にツボに入ったらしく、笑いを堪えるため、口を押さえてしばらく悶絶していた。  当初の目的を果たし、日が暮れ始めたため屋敷に帰る。  その途中、再びティアが興味を示した店があった。 「本、ですか」  店に立ち止まりパラパラとページを捲る。 「読めるのか?」 「そうですね、たまにわからない言葉がありますが、ほとんど」  都市出身で生活している人間ならば読めて当たり前だろうが、生憎ティアは辺境の村から来た。文字など見たこともなかったはずだが、旅の途中にディースに寄生し、見事知識を自分のものにしていたようだ。  ためしに同じ本を取ってみたが、最低限生活に困らない程度しか覚えていない俺には、半分以上分からない文字で埋め尽くされていた。 そんな短期間で学べる知識量ではないだろう、彼女の好奇心はつくづく恐ろしい。 「買いたいなら遠慮しなくていいが」 「そうですね、どうしましょう」  そもそもどんなジャンルが読みたいのか自分でも理解していないらしく、本を取っては戻すを繰り返していた。 「ジャンルさえ問わなければ、私もそこそこ本を持っているけれど、いくつか借りる?」 「あ、いいんですか。ありがとうございます」  ストレの提案は俺の財布だけでなく、ティア自身にもいいだろう。購入する前に少しでも好みのジャンルを絞ることが出来るし、そこそこ持っていると自称するあたり、ティアに相応しいと思う本をストレが選ぶこともできるだろう。  唯一冷やかされて、迷惑を被った店員に会釈をしつつ、ストレの本談義を聞き流しながら帰路についた。 「これからどうなされるんですか?」 「どうって、飯食ったし体拭いて、しばらくしたら寝ようかと」  晩御飯の後、全員が食べ終わるまで待ち、部屋に戻ろうとする途中でティアに声をかけられる。 「えー、せっかくお風呂あるのに入らないんですか。お湯と石鹸で体を洗った方が綺麗になりますし、気持ちがいいじゃないですか」 「それはわかるが片腕じゃ何かと不便なんだよ。体拭くだけでも届かない場所があるし、よければ手伝ってくれないか」  湯を被るのも、体を洗うのも、拭くのも不便だし、何より再び折れたせいで、腕を固定したままでなければならなくて、すぐ隣にある湯船に浸かれないのも辛い。  それならばいっそ、多少不潔になってしまおうが、普段のように濡れタオルで体を拭くだけの方がましである。 「いやです」 「……え、あぁそうだな、わかったよ。誰か他をあたってみる」  まさか拒否されるとは思わず動揺する。何か用事があるのかと思い気にせず背を向けるが、直後に右肩を掴まれた。 「一緒にお風呂行きましょうか」 「え」  その後反論する暇もなく、洗面所まで半ば引きずられるように連れていかれ、腰に僅かな情けのタオルを巻かれた後に、全ての衣服も剥ぎ取られた。  実に手慣れている。ティアと出会って数日は片腕に慣れず、このように手伝ってもらっていたからだが。 「先に入っていてください」  彼女の裸体をマジマジと見るわけにもいかず、大人しく従う。  すりガラスを越えれば、今まで見たことのない空間だった。  十名は軽く入れるだろう浴槽は、一体どのような状況を想定して作られたのだろうか。  脇の椅子に座っていると、すぐにタオルを巻いたティアが入ってくる。 「凄いですよね」 「確かに。意味が分からないが」 「いいじゃないですか、皆で楽しく入れますよ」  入らねえよ。 「失礼しますね」  一言声をかけて、なるべくギブスにお湯が当らないように体を濡らす。正直この神経を擦り減らす面倒な作業を、全てティアがやってくれるのだったらと、特に抵抗もせずに連れて来られた。  予想通り極楽の一言である。 「頭と顔と、手が届かない個所を私が洗えばいいですか?」 「あぁ、よろしく頼む」 「おまかせください」  心からの笑顔で、丁寧に奉仕を開始する。  風呂にでも入らなければ頭皮は石鹸で洗えず、溜まっていた汚れが気持ちの良いマッサージで落ちて行くのは、思わずため息が零れるほど気持ちがよかった。  そこから顔、体の右側で、最後に背中を擦ってもらう。 「相変わらず酷い傷ですね」 「まぁそれなりに危険な生活しているしな」 「切り傷はわかりますが、鞭と、僅かに焼鏝の後まで残っているじゃないですか。一体どんな生活してきたらこんな傷つくんですか?」 「……」 「そうですか、まだ言いたくないですか」  このやり取り自体は、初めて背中を見られた時にも行ったことがある。その時はここで俺が無言になって話は流れた。 「近いうちに……な」 「わかりました、待っていますよ」  ティアの言葉に、少し胸が温かくなったのは、流れたお湯の温もりではなかったはずだ。  それから特に何もなく二人で浴室を出る。 「今からストレの部屋に本を借りに行きますが、ウィルさんはどうしますか?」 「俺はいいよ、明日少し早く起きようと思うから今日は早めに寝る」  実際はまだ余裕はあるのだが、ティアもいるとはいえ、夜に異性の部屋へ向かうのは忍びないものだ。彼女はその辺の感性だけは鈍い。 「明日何があるんですか?」 「スティが午前中剣を見てほしいのだと、明日からしばらくな」 「へぇ、そうなんですか、いいですね。それじゃ早く起きるのなら、私を起こしに来てくださいよ」 「ん、考えとく」  いいですね、は嫉妬か何かだろうか。羨ましいと表現した方が正しい様子だったが。 「そう言ったのなら、少なくとも考えるふりでもしてくださいね。それではおやすみなさい、今日はありがとうございました」 「こちらこそ楽しかったし、助かったよ。おやすみ」  ティアと別れ自室に、と向かう途中でリグレットの部屋の前を通り、少し暇つぶしにでも付き合ってやるかと立ち止まる。  軽く二度ノック。 「はい、少し待ってくれ」  何やら慌しい音が室内から響き、俺の不安を掻き立てたため、急いでドアを開ける。 「おい、なにしてんだ」 「なんだウィルか、驚かせやがって」  室内に視線を這わせれば、布団の隙間から顔を覗かせる一冊の本。ポルノだった。 「元気そうで何より、邪魔したな」 「いやいや帰るな、少しだけでいいから話に付き合ってくれ」  相変わらず必死に頼むもんで、再び開けたドアをそっと閉めた。 「その歳でまだそんな元気があるのか」 「そんな早く枯れねえよ。まぁ若い時と比べて興奮する、というより面白い感情が多いが」  理解できない、いやこの場合理解できたら手遅れなのか。 「嫁はどうした嫁は、今まで不自然なまでに一途だっただろう?」  彼と出会ってから今まで、一切色欲を見たことがなかったから以外に感じる。 「いやそれがな、リリを庇って傷を負って、そして今日の昼にディースと二人会いに来てくれたんだ。その時に色々話して、俺ももういいかなと、過去に縛られるのは止めようと思ったんだ」 「……そうか、よかったな」 「あぁよかったよ、今こうしている生活が凄く幸せと感じる、生きていてよかったと感じている。流石に新しいパートナーを見つける余裕も、時間もないだろうがな」  歳が歳だ、いろいろ厳しいだろうが、機会さえあればもう彼は躊躇わないだろう。素直に自分の幸せを受け入れることができる。そういう意志を感じられた。 「ところでその本は誰が持って来たんだ、ディースか?」  彼がそういった本を買ってきて、リグレットに渡す姿は思い描けないが、頼みさえすれば躊躇わなくやってくれるだろう。というか他に、候補になりそうな人物を知らない。 「いや、屋敷の門番と親しくなってね、いろいろあって無理矢理渡されたんだ」 「そうなのか」  彼の気さくな性格だ、すぐに友人など増えるのだろう。少し自分の知らない繋がりを知り、寂しくも感じるが、彼も彼なりに、今の生活を楽しんでいる事実が見られて嬉しさもあった。 「いやちょっと待て、どうやってそいつと知り合った」 「え、それは、その、だな」  動揺する彼を見て確信する、間違いなくベッドを抜け出して、遊び歩いていることに。 「……体は大丈夫なんだろうな、また倒れたら悲しむ奴は大勢いるんだぞ」 「それはわかっているよ、十分注意している」  抜け出したこと自体には、しっかり負い目を感じているようで、これ以上言及するのは止めた。 「軽く動く程度が大丈夫なら、飯も食べに来いよ。皆楽しみにしていた」 「今日程度を確認したから、明日からは一緒にするさ」 「わかった、待っている」  ムードメーカーのいない食事はどうも静かで、せっかく大勢で食べるのなら、わいわい行きたいと思っていたものだ。 「ところでその様子じゃ風呂に行っていたのか?どうなんだ、お前から見て」  あのティアの喜びようだ、当然リグレットとの話題にしたのだろう。 「こいつのせいで湯船には入れないが、凄くいい設備だったのはわかった」 「そうか、二人とも傷が治ったら一緒に入るか」 「あぁ」  悪くない。酒でも飲みながら、男二人でゆっくりもしてみたい。 「あ、どうやってその腕で入ったんだよ、湯船に入らなくとも厳しいだろ」  お互い言い訳にディースを使っていれば、ひとまずこの場は収まっただろうに。  しかし、そんな選択肢は頭の隅にもなかった。 「ティアに手伝ってもらったが」 「ほう、俺がベッドで退屈で死にそうだというのに、お前はあいつと二人風呂で乳繰り合っていたと」  物凄い剣幕、彼に刃を向けられた者は、皆この表情を見て死んでいったのか。 「あんたが想像するようなことは一切なく、普通にさっぱりした後に出た」 「……大丈夫か?」  怒りから心配するような表情に変わる。話だけでなく顔を見ていてもおもしろいとは。 「何が」 「ナニが」  下品極まりない返答である。 「たとえどんな相手だろうと、今まで共に旅をしていた人間だ。そうそう欲情出来るもんじゃない、わかるだろう?」 「……確かに」  旅をしている最中は、あらゆる欲はあるだけ不便になる。  日常と非日常の気持ちをすぐに切り替えられてこそ、一流と呼べる条件の一つではないだろうか。当然この結果、自分は一流とは程遠いのだが。 「そろそろ時間だな、また明日」 「あぁ、俺も楽しみにしておくさ」  翌日、意識していた時間に目が覚める。  意識を明晰にしながら着替え、食堂に向かおうとしたところで気づく、そういえばティアを起こしに行く話をしていた。  彼女は来なくて当然のように話していたが、特に手間もかからないし行ってもいいだろう。  そう決め自室を出ると、遠くからストレが近づいてくるのが見えた。 「おはよう、誰に用だ?」  当然だがストレとスティは自室を持っており、俺達五人が部屋を借りている場所は客室しかない。わざわざここにいるということは、誰かに何か用があってのことだろう。 「ティアに貸した本の感想が聞きたくてね」 「俺もティアに用がある、一緒に行こう」  こんな朝早くから聞きに来るほどだ、余程気に入っていた本で、その感想を聞きたいのだろう。自らの好みに共感してもらうことは、凄く嬉しいものだ、当然逆は凄く悲しいが。  軽くノック、反応がないのを確認してドアを開ける。 「……何しているの」 「起こしてくれと頼まれたんだよ」 「そうだったの」  問題行動と取られても仕方がないだろう。  中を覗くと、予想外にティアは起きていた。寝間着のまま、ぼんやりとした表情でベッドに座り、何も無い空間を見ている。 「起きていたのか、ノックしても反応がなかったが大丈夫か?」 「あ、はい。意識はありますよ」  放心していたのか、目の前で手を振るとこちらに気づく。 「どうしたの?何かあった?」 「たいしたことはないです、ちょっと本がおもしろ過ぎて」  彼女の視線の先には分厚い本、おそらく昨日ストレから借りたのだろう。 「まさかその様子を見るに寝ていないのか」 「そうなんですよね。といっても放心しているのは眠いからじゃないんですけど」 「そこまでおもしろかった?」  なんだか俺の理解できない場所で話が進んでいる。 「とてもおもしろかったです。でも何でしょうねこの虚脱感、切なさで死んでしまえそう」 「あなたは身近な人が亡くなったことは?」 「ありま、あっ……そういうことですか」  ニヤニヤして問いかけたストレに、その問いかけで何かを掴んだのかスッキリしたような表情のティア。そして置いていかれた俺である。 「……話が終わったら呼ぶか、俺にもわかるように会話してくれ」 「そう怒らないで、この程度で妬かれたら堪らないわ」 「私はそっちの気はないので、この程度で済まない事はしないでくださいね……?」  いろいろ酷い曲解を目の当たりにした、彼女が暴走する前に部屋を出たい。 「それじゃその辺をぶらついておくから、事が終わったら顛末を聞かせてくれ」 「事ってなんですか!?しかも聞いてどうするんですか!?」  聞きたいのはそちらではなく、放心の理由である。 「旦那からのお墨付きが出たところで始めましょうか」 「ウィルさん!!このジャンルでこれ以上はないって本は読んだことはないですか!?」  涙目で声を張り上げ、あまりにも真剣に引きとめるので軽口を閉じざるを得なかった。今の寝不足の彼女には冗談は通じないらしい。 「ないな、難しい文字は読めないから、普段本は読まないんだ」 「……あと少しで合法的にいけたものを」 「何か言ったか」 「いえ何も」  どうやら彼女は冗談じゃないらしい、あと仮に俺から黙認されたとしても、本人が嫌がっていれば、全然合法じゃないからな、それ。 「本を読まないなら、親しい人が亡くなったことは?」 「……それならあるが」  そこからストレは饒舌に語る。語る内容に溺れるように、語る自分に酔いしれるように。 「とても好きな物語が終わった時にその感覚が訪れることがある。世界観、登場人物、物語。その全てを好きになってしまったら、それこそ愛と称せるほどまでに好きになってしまったのなら、決してもうそれらと出会うことはない。始めから読んでもそれは物語の中で今を生きることにはならず、ただ記憶をなぞることと変わりはしない、こういうことがあったなと故人を想うことと同じ。皮肉なものよ、愛したものだけが物語を殺すことができるの」 「物語を、殺す」  殺すという言葉に過剰反応してか、俺の思考には嫌なイメージしか浮かばない。それに対しティアは逆の反応を示した。 「その表現いいですね。ラスト付近のクライマックスで思ったことですけど、今までの過程を全て踏み台にするクライマックスに興奮しつつも、どこかもう少しで終わってしまうんだなって感じる自分がいました。本を閉じた時にはまさに放心状態で、どれだけ時間が経っていたか覚えていません。過程は人を殺めるそれとかなり違いますが、結果は間違いなく物語が死んでしまったと表現するのが近いですね」 「……二人はそんな感覚を体験してしまっても、まだ本を読むのはやめないのか」 「どうしてです?むしろ光栄じゃないですか、殺すに値する物語に出会えたってことは」 「ストレは?」 「私は楽しいから読む、たとえ悲しむ可能性があったとしてもやめられない」 「そうか……」 「ウィルさんもこの本いかがですか?内容的にウィルさんも感じると思うんですけど。あ、文字のことなら勉強するのが面倒でしたら、私が読んで聞かせてもいいですよ?」 「いや、遠慮しておく」 「そうですか、気が向いたら言ってくださいね」 「あぁ、覚えておくよ」  そうして俺は、逃げるように一足先に食堂に向かった。 「弱い人」  ストレの冷たい言葉に、ティアは優しい頬笑みを浮かべる。 「あれでも成長してるんですよ。初めは私のことも突き放すどころか、自分の命の為に、私を身代わりにしようとしていたぐらいですし」 「そんな型にはめたような利己主義者がなぜ」 「何があったのかは私も知らないですけど、確かに丸くなりましたね。別れに脅えて深入りこそしなくとも、こうして朝から顔を出して心配してくれるのですから」 「それが正しいのかは知らないけれど、このまま辛抱強くあなたが逃がさなければ利己主義は治りそうね」 「本気で嫌がられさえしなければ決して逃がしませんよ」  ティアの一途な想いに、ストレは若干の嫉妬を感じる。 「乙女にそこまで言わせる男なら、私も恋してみようかな」 「二股をとやかく言うつもりはありませんが、きっと私のようになるだけですよ」 「彼のようなことを言うのね」 「私もその場に居ましたからね!?」 どうやらティアは、ストレの上に立つことは出来ないようだ。 「ところでウィルさんは何の用だったのでしょうか、会話から逃げることを優先したぐらいですし」 「本人はあなたに起こしてくれと言われたそうだけど」 「……そうでした、冗談のようなやり取りだったと思うんですが」 「彼はそう思わなかったみたいね、しっかり約束を守って」 「成長していますね、少し前までなら無視されていたと思います」  そこで一旦互いが無言になる。それぞれ彼の成長に何か思う所があるのだろう。 「ところでストレさんは何か用があって来たのですか?」 「今から済ます」 「なんですかその手は、着替えて朝ご飯食べ終えたら、すぐに寝たいので出て行って下さい」 「はっきりとした物言いも好き」 「褒めても無理なものは無理です、そもそも私はウィルさん一筋なので」 「それならあなたが彼に飽きるのを待つ、待ちさえすれば二人も抱え込めるなんて素敵」 「では私が死ぬまで待っていてください」 「一旦休憩にしよう」 「はい」  朝食後、中庭に降りてスティが用意した木刀で何度も打ち合う。  いくつか用意された中から、標準的な長さの木刀を取ったが、片腕以前にスティの動きのキレがよく、互いに精神的な消耗が激しく、早めに一旦休憩を取る。  恐らく彼女は、実戦の経験と知識が少ないだけで才能はあるのだろう。  あとはどれだけ自分に合った戦い方を見つけ、それを磨けるかの問題だろう、そう時間はかからないように見えた。 「二人ともお疲れ様」  暇だったのか、再び俺に張り付き始めたリリが、スティの用意した飲み物と菓子を渡してくれる。 飲み物はレモネードで、菓子と共にその甘みで体を癒してくれた。 「ありがとう、それでお前は見ていて楽しいのか?」 「何やっているのかよくわからないけど、割と楽しいよ。そもそも暇つぶしが目的じゃないし」 「じゃあ何が目的なんだ?」 「ディーがね、ウィル達と会った初日にウィルをよく見ておけって、そう言ったから見るの。多分あの言い方だと、今も続いているお願いだろうし」  なんだろう、俺はあいつに見張られてでもいるのだろうか。 「何か俺を見て報告するのか?」 「いや、全然」  ますますわけがわからない、気にしないでおこう。 「実際やってみてどうだ?」 「凄くためになりますね。今まで実践が少なかったので、模擬戦とはいえ慣れる機会があるのは助かります。ウィルさんから見て何か言いたいことはありますか?」 「いや、特にない。このまま続けていけばいいだろう」  劇的に強くなれるような手段に期待したのだろうか、隠しきれない不満が彼女から滲み出て見える。 「別にそう焦る必要はないさ、じっくりやっていこう」  立ち上がり再び構え合う。  スティが狙うのは四肢。敵の行動不能だけを目的にし、四肢に強く叩きこめる回数を増やすだけが今の目標。  俺は左側が不自由だが、彼女には目的を知られているデメリットがある。  それはどちらも五分で、比較的対等な立場を、俺が経験で押しつぶしている形になっている。 それを、俺を圧倒できるまでを最終目標に設定している。何も殺さない力が欲しければそんなものだろう。 視線、筋肉の動き。この二つを見ることができるようになるだけで、反射神経とは別に、格段に行動が早くできる。 しかし彼女にそれを教えはしたが、わざわざその二つを思考せずに、体で判断できるようになるまで、今の俺と互角になるのは難しいだろう。 現在俺は待ちの状態、彼女が動きだすのを見て対応しようとしている。 彼女の視線が、左腕以外の三カ所を何度も往復するが、左膝と右肩だけが注視する回数が多い。 そして振られる木刀。左腕の短剣が上段ということは、一旦牽制した後に、右腕の長剣で下段を薙ぎ払うのか。 それに対応するために、まず左腕に剣を振るう。しっかりと刀身を合わせ流すと同時に、彼女の右腕が動き始める。 そこで大ぶりに振るわれる腕の内側に体を滑り込ませ、刀身よりも内側に入る。 慌てて対処する短剣。しかし行動は遅く、持ち替えていた俺の剣に左腕を斬られる。 「仕切り直し、次だ」 「……はい」  失敗するたびに彼女は悔いるのだろう。それを宥めながらも、何度も斬り負かせた。  それを午前中、何度も休憩と雑談を挟みながらのんびりと過ごす。  そしてその日の午後は、ディースの部屋に邪魔する事にした。 「君がこうして話をしにきてくれるのは珍しいね、要件はなんだい?」  確かに彼の言うとおり、二人で会話ことは珍しいことだった。  それが別に問題というわけではなく、今まで必要がなかったことは違和感を覚えるが。 「あの日、お前が見せた力の正体が知りたい」 「……どうして?」 「必要だからだ。できればいざという時に、あの力に頼れるようになりたい」  ディースは何かを悩むような難しい表情をする。 「確かにそう思うのも無理はない、でもそう生半可に使えるようになれないんだ」 「魔族の技術と同じだろう?俺は既に契約の指輪を無視できている」 「へぇ、君の原理を聞かせてよ」 「俺は指輪がないことが当たり前だった、そこで後から指輪という存在があることを知っても、その存在を信じ切ることができなかった。天使も、指輪も全て同じだ、信じること、思い込むこと、それが本人にとって常識であることで意味を持つ」 「傍観を犯していない天使が、決して人災に巻き込まれることはない理由は?」 「巻き込む要因である人間が、天使の傍観を疑わないから無意識で巻き込まない、たとえそれが、無数に矢を放つ一つに天使が刺さりそうでも、そこに天使がいることを察知し、どんな無茶な計算と運動をしてでも干渉を避ける」 「そんな無茶が現実だと?」 「現実だ。人に翼が生えるのも、指輪の契約が絶対なのも、俺からしてみれば無茶な現実だ、この理論以外ありえない」  天使は声を上げ喜ぶ、普段はストレ以上に無表情、いや無機質であるのに、ここまで感情を見せて。 「よかった、君に出会えて本当によかった。確かにこの翼は後天性のものだ、物心つく前から我々には翼が生えるのが当たり前だと教育される、簡単なことだ、自らの親が翼を生やしているのだから、それに似たような翼が自分に生える、自分に生やせるのは当然だと思い込む。天使の血が流れていない赤子でも、俺と同じ教育をされたら翼が生える」 「別に種明かしとかはいいんだ、それよりもあの力が出せるようになりたい」 「せっかちだね君は。もっと自覚するべきだよ、君は個人で天使の域に辿り着いた、それはとても素晴らしいことなんだ、全ての人間を、先祖から教わっているから知っているだけの天使達も、君は超えたんだ」  そう称賛されても俺には当然のことで、悪気はないのは分かっているが、早く核心を知りたかった。その不満を察知したのだろう。 「悪かった、話を進めよう。人の筋肉は脳によって力を抑えられている、大体普段出せるのは二十〜三十パーセント程度、これを超えると筋肉への負担が大きすぎて壊れやすくなるんだ。このことは知っていたかい?」 「いや、知らなかった。前回のあれはどのぐらいだ?」 「五十は出していなかったよ、それ以上出すと筋肉痛じゃ済まないだろうし」  五十であれほどまでに。完全に出しきると腕は二度と使いものにならないだろうが、拳で大木を折る程度には力を得ることができるのだろう。 「それで方法は?」 「いや、俺が教えられるのはここまでだよ。指輪の原理とこの話、二つを知っていたら方法を見つけられるのはすぐだろうけど」 「そうか、助かった」  方法は二つを知っていればわかることと、あえて核心を教えない理由。  これだけ教えてもらえれば、残された選択肢は数少ない。 「どういたしまして。でもさ、身につけたとしても使いどころだけは精々気をつけて」 「重々承知している、体を壊すことはもう十分だ」  真剣な顔をしていたディースも、俺の冗談に少し笑みを漏らしてくれる。 「ギブス姿が似合っているけれど、一体いつから折れているんだい?」 「二ヶ月前ぐらいか、ティアを助ける時に折ってしまった」 「彼女を庇って負った傷なのかい?」 「……まぁそうだな」 「男らしいじゃないか、よければその時の話を詳しく聞かせてくれないか」 「別にいいが」  ろくに私情で話した記憶がないんだ、俺の話でよければ、いくらでも仲を深める機会に使おう。 「ありがとう、少し長くなりそうだし食べられるものを用意しようか、少し待っていてくれ」 食堂に取りに行こうと立ち上がった直後、彼が開ける前にノックもなしにドアが開く。 「リリか、何か用かな?」 「ううん、暇だから遊びに来たの」 「そうか、今からウィルの昔話を聞かせてもらうんだ」 「いいなー私も聞きたい」 「別にいいぞ」  ディースが構わないかと視線を向けて来るので、ハッキリと肯定する。 「わかった、三人分何か貰ってくるよ」  彼を見送った後にベッドに座るリリ。 その様子といい、入ってきた時の様子といい、随分と遠慮のない仲のようだ。 恋人、というよりは家族と表現した方が近いか。 「二人でなに話していたの?」 「……この前のディースみたいに、俺も強くなれないかなって」  少し返答に困った。  リグレットの傷のことを避けるため、魔族と明確な差別に取れる発言を避けるため。  流石にその程度は傷つかないだろうが、今の彼女は無垢な少女だ、なるべく危険は冒したくない。 「今でも十分に強いのに、これ以上強くなってどうするの?」 「俺の友人を皆守りたいんだ、どんなことからでも」 「……それって私も入っている?」  真っ直ぐ純粋にこちらを見つめる瞳、何かを期待しているように。 「何を言っている、当たり前じゃないか」 「ねぇ、頭撫でて」  俺が手を動かすよりも先に、彼女は手を取り頭に置く。 「いいねこれ、幸せだよ。守られているって感じる、お前は大切なんだって言われているみたい」  そっと撫でると蕩けた表情を見せ、その幸福感に溺れているようだ。 「ウィル変わったよね、私ずっと見ていたもの。ずっと心が強くなった、ずっと優しくなった、だからすぐに強くなれるよ。ウィルは本来凄い視野を持っている、普通の人とは違う、けれど普通の人と同じもの、それって凄いの、ねぇそれって元から持っていたもの?それとも誰かにもらったもの?」 「わからない、どっちだろうな」  そもそもディースも言っていたが、視野とやらが俺には理解できない。  比喩なのか、そのものなのか。恐らく自覚できる類のものではない気がする。 「リリも変わったよな」  透き通った赤い瞳、純粋無垢な彼女自身。 「変わったよ、二度も後悔したんだ。だから幸せなこと全部、手遅れになる前に、手遅れにしないように頑張ることにしたんだ」 「例えば具体的にどうしていくんだ?」 「こうしてわがまま聞いてもらうことかな」  その答えは若干はぐらかされた気がするが、それも一辺の真実なのだろう。彼女を見てそう思う。  ディースが帰って来てから、フィーのことをそれとなくぼかしつつ、それ以外のことは思い出せるだけ忠実に話した。 「ウィル、やっぱり君は凄いよ」 「成長したんだね、素敵だね」  一月以上の期間を話し終え、二人の口から出たのは予想だにしない感想だった。 「ティアを庇った時の状況を予測するに、その時確かに君は限界を超えた。常人がその衝撃を受ければ、吹き飛ぶどころか内臓までやられていたはずだ」 「今考えれば確かにそうだが、俺の誇張表現が入っているかもしれない」  あの体格の男が全力でテーブルを振ったのだ、不動でいられたことに、その時冷静であれば気づいただろう。  しかしその時、興奮状態だったことを自覚している、記憶が間違っている可能性も十分にある。 「たとえそうだとしても、一度包帯を取った時があっただろう?その時点では本来、まだ到底太刀を支えることはできない。安心するといい、その傷はじきに治る、それほど君は自己制御に近づいている」 「やけに褒めるな、お前らしくない」 「違うよ、これこそ誇張表現でも褒めておくべきなんだ、自信がつけばそれだけ自己制御に近づく」 「そうじゃない、お前は他人を評価したり、感情を見せるような人間じゃなかった」  俺の指摘に、彼は一瞬黙り優しげな表情を浮かべる。 「俺もこの子のように変われたんだ。呪いを祝いと呼べるように、傍観を捨てて自分の世界を持てるように」  こいつも同じか、ティアもリグレットもリリも、皆俺には到底理解できないような思想を持ち、優しく微笑むのだ。  それが、堪らなく羨ましい。 夕食後に一人中庭に下りる。 空を見上げれば、都市の光量で霞んで消えかかっている星が瞬いていた。 整えられた芝生に寝転がり、星を見ながら思い耽る。 ディースが自己制御と呼んだ力のこと、彼らが持つ信念、そしてこれからの身の振り方。 気になる事柄が多すぎて、考えようと思えば思うほど思考が混沌として、不安感で気分が悪くなってきた。 「気持ちいいの?それ」  気づけば隣にストレが居て、横になっていることに対してか問いかけてくる。 「そこそこ」  そこそこ気分が悪い俺は、特に何も考えずに返答する。思考停止は楽になれる。 「微妙、でも手入れされているものを犯す征服感はいいかも」  服が汚れるのも気にせずに、ストレは実際に試して、外道極まりない感想を述べる。 「また刹那主義か」 「いいじゃない、服が汚れるのも、芝生を荒らしたのも、こうしている今だけは考えないでいい、純粋に快感に浸ることができる」  まぁ芝生が手入れされていたのも昨日までで、スティの特訓が終わるまで芝生は放置されるだろう。 「で、何のようだ」 「あなたこそ何を悩んでいるの」 「……そんなに顔に出ていたか?」 「いつもよりリグレットが場を盛り上げようとしていたでしょう」  言われてみればそうだったかもしれない、ティアもやたら話しかけてきたような。  感づかれて気を使わせていたのか、申し訳なさと嬉しさが同時に湧きあがる。 「いろいろ考えることがありすぎて悩んでいるだけだ」 「じゃあ私の出番ね」 「何故」 「愛はティア、笑いはリグレット、知識はディース、純粋さはリリ、正義はスティ、思考は私。よりどりみどり、適材適所で協力し合える素晴らしい関係」 わけがわからない。 「まぁ試しに相談してみなさい、私じゃなくても誰かが答えられるかもしれないし」  相談といっても何を相談すればいいのだろう。  自己制御は自分で考えなければ意味がないし、決して身の振り方も誰かに尋ねて聞くものではなく、誰かに合わせて決まるものだろう。  とすると、それぞれが持つ信念か、いや、信念と呼ぶのも何か違う気がする。それを見るたび堪らなく眩しく感じるから、輝きと称した方が正しいのか。  余計に抽象的になったので、やはり信念とでも呼んでおこう。  そして悩みだが、眩しく感じなくなりたいの一点。俺よりも皆がそれを持つことは、置いていかれている、力量が離れ過ぎている疎外感に近い。  それを解決する為の一歩には、少しでも多く情報を知ることが大切だろう。ストレとスティは出会って期間が少ないからか、まだ信念を垣間見たことがない。  スティの誰も殺したくない思想は、間違いなく信念そのものだが、何かが足りない気がする。  とりあえずストレに尋ねてみるのが早いか、しかし何と尋ねたら伝わるものなのか。 「お前は何のために生きているんだ?」 「え、まだ思春期終わっていないの」  そう一蹴される。青臭い質問であるのは理解しているが、精神的にも肉体的にも、まだまだ大人ではないと自覚しているので、わざわざ否定はしない。  そう人を小馬鹿にしたような反応をしながらも、ストレは声色から冗談ではないことと理解し、真剣に思案してくれている。 「小さい時に母を病気で亡くして」 「……あぁ」  唐突に自分語りを始める。その行為も十二分に思春期らしいと思うのだが、尋ねた質問には思春期らしく答えるのがベストだろう、聞き逃さなうように耳を澄ます。 「その時気づいたんだ、あぁ人は等しく死ぬんだ、生きている間に何をやっても全てなくなるんだって。後から知ったんだけど、この思考は一般的に知られていて、これを真に理解したものの多くは堕落していく、生きている事全てが意味ないって確信したら、怠惰に溺れて死ぬのも無理はない」  物事に全て理由を求めるとそうなってしまう。  日々理由を重視して生活をしていれば、理由なしに行動する事を忘れ、その一つの真理に辿り着いてしまったのなら、意味のない食事を取ることも止め、消極的に死んでいく人間もその中にはいるのだろう。 「その中で私は幸運だった、楽しいって感情だけは知っていたから、未知の刺激を求め生きて活きることが出来た。でもどれも長続きはしない、慣れ親しんだものは飽きてしまい、慣れることで積み上げられる経験に、他人のように私は価値を見いだせない。共感できる?」 「いや、できないな」 「いつまでも共感しない方がいいね」  ストレは寂しく笑う。見えない表情にも憂いが帯びているだろう。  そもそも普段そのような思考をしていない、しようとしなかった。  保護者のいない俺は働かずして生きることなどできず、今まで自らの哲学を深める余裕などどこにもなかった。  しかしその思想と、俺の悲しみを抑えるために喜びを抑える思考は、どこか悲しく似通っている。 「でも私にも一つ続くことがあった、それが誰かを好きになること。私にもよくわからないけれど、その対象は何故か同性のスティになって、彼女もそれに答えてくれた。愛はいいわ、人に飽きることはあっても、その感情に飽きることは決してない。常に渇いて上を見るの、まだまだ物足りないと」  底が見えなければそれは実質永遠と変わらず、永遠は彼女を安心させる。一時的にでも終わらないものは、終わりを恐れる人間にとって、どれほど楽園の果実になりえるだろうか。 「それと、愛以外にも魅力を感じたものがこの前の旅で見つけられた。商売、皮肉にも親と同じ職業は、人と触れ合い他人を幸せにしている実感を得られたの。危険だけれど常に新しい刺激はあるし、当分はしっかりと勉強してみることにしたの、幸運にも間近に師に相応しい人がいることだしね。どう、これで答えになった?」 「十分だ、ありがとう」  上体を起こし横を見降ろせば、そこにはまたもや優しげな表情があった。  しかし今回は、その笑顔の正体を知ってからか、いつもより不安感を感じることが少なかった。きっと羨ましくも恐ろしいのだろう、俺には無いものを持つ彼女らが。 「さて、お礼をいただくとしましょうか」 「がめついな」 「商人らしいでしょ、取るべき情報料は取るべきよ」 「で、なにをすればいい、物が欲しいわけじゃないのだろう?」 「そうね、ティアにキスはしたことある?」 「……手の甲になら」 「じゃあそれで」  もし唇にしたことがあったら、この女はどう返答したのかが気になる。 「頼んでしてもらう行為じゃないだろ」 「なに、私のこと敬愛していないの?」 「十分しているよ、日頃から評価すべきところはしている」  手を取り唇を触れる。  ティアの手と比べると随分幼く小さいが、それでも精神には、彼女とは違う尊敬すべきものがある。遠慮願いたい思想もいくつかあるが。 「ありがと、やっぱり受け入れられることは素敵」  共感は最も人に幸福感を与える手段だろう。自らの行った行為を認められる、偽善と蔑まれてしまう行為の大半はこれが原因。 偽善と称されるほどに、見返り以外を無視するのは問題だが、他者から感謝されたいがために苦行を行う行為自体は正当に評価されるべきである。 だからこうして俺達は、数ある危険で稼げる職種の中から、行商を商いに選んだのだから。 「最近午後には姿を見せませんけど、何をやっているんですか?」  そこから数日経ち、夕飯の席でティアはそう尋ねた。  何か手伝えることをしているのなら、助力しようとしているのだろう。 「腕が治るまで特にやることがないから、気晴らしに散歩していたり、自室に籠もっている」  別に嘘ではない。俺が今やっている事は何かをしながらでもできる程度のこと。 「気晴らしって、また悩み事を隠していたりしませんよね?」  助力ではなく心配だったか。  この前ストレに話を聞かせてもらい、憂いがだいぶなくなったことは彼女にも伝わっていたと思うが、それでもまだ心配してくれていたのだろう。 「悩みが重荷になっている自覚はないが、心配だったらこれから午後は四六時中くっつくか?」 「そうですね、お邪魔でなければたまに遊びに行きます」  少し返事に間があったのは、自室に積まれている本の山を考えてのことだろう。  最近彼女は、午後にはストレから山のように借りた本の処理、午前にはディースに知識と、今は無手での戦闘技術を学んでいるらしい。  既に出会った頃のティアとは違い、俺には到底及ばない量の知識を蓄えているはずだ。 「その腕だけど、治ったらどうするの?また行商に戻る?」 「……いや、今は特に何も考えていない。ティアはどうする?」  ストレの言葉に答えることができず、ティアに話を逸らす。 「なんですかその質問、遠回しに失せろってことですか」 「もしそうだとしたらお前には直接言うよ」 「知っていますよ」  そうですねえと、俺の言葉が嬉しかったのかニヤニヤして思考する。  ティアが俺に吐露してくれたあの日から、俺達は遠慮することを意識して避けてきた。  しかしそれもどうやら必要はないらしい、意識せずとも壁などもうないのだから。 「やっぱり私は今まで通りかな。ウィルさんと協力し合いながら、知識を増やして、自分がやりたいことを見つけたいです」  いつしかあの出会いに縋り、依存していたティアはそこにはいなかった。 「そうか。リグレットはどうだ?無理やり俺があの村から連れだしてきたが」 「んーそうだったな、あれは本当に無理矢理だった。意味のわからない理論で俺を連れだして、その結果今までよりも、充実している生活を送れているからな、感謝しきれねえよ」  今ならわかる、あの会話の無意味さが。  わざわざ彼を説得して村から出るぐらいなら、初めから腕が治るのを待っていればよかったのだ。  でもあの時の俺にはそれがわからなくて、どうにかしてリグレットが抱え続けている重荷を無くしてやりたいと、無意識で思っていた結果があれだ。 「数年ぶりにこの都市に来たが、相変わらず過ごしやすくて、親しい人間も増えた。もう歳だし、ここで自警団かどこか金持ちの警備として働いて、身を落ち着かせようと思う」  その言葉を聞いてストレは、含み笑いをしながらリグレットに提案する。 「それなら良い所を紹介してあげるわ」 「へぇどこだい」 「丁度この屋敷に一人分空きがある、そこで働いてくれる?あなたなら信頼できるし、即採用してもらうけれど」  リグレットも空きがあるのは分かって言っていたのだろう。 「言ってくれると思っていた。動けるようになり次第、今までの恩を返させて貰う」 「ありがとう、それまではゆっくり休んでね。楽しそうな日々になりそうだわ」  茶番のように重要な話が済む、刹那主義者のこの二人にはそれが丁度いいだろう。  リグレットが完治次第、いや明日からすぐにでも二人は、屋敷に混乱と笑いをもたらすだろう。是非俺は蚊帳の外で笑っていたい。 「ディースさんはどうされるんですか?できればまだまだ逃がしたくないのですけど」 「そんな積極的に迫られると困るな、俺にはリリを幸せにするため、未来も彼女に委ねているのだから」 「え……いきなりそんなこと言われると恥かしいな……」 「いやいや、それはディースなりの言い回しだ、照れるのは構わないが後にしてくれ。ティアも返答が欲しくて待っているぞ」  リグレットが指摘して、ようやくリリは理解する。  過酷な人生のせいで手に入れた、歳不相応な冷静さを持つリリだが、それでも年相応の心は壊れてはいない。  そんなカップルを見ていると、嬉しい小恥かしさが胸を焼く。 「……そうだな、この都市が過ごしやすいのはわかっているし、しばらくはここで楽しいこと探しながら、私にもできることを見つけて働きたいな」 「なら俺も、無駄にある知識を使えるような仕事を見つけて、ここで気楽に暮らそうと思う」 「済む場所はどうするの?」 「よければここに長期滞在したい。同じ家賃を渡しても、ここより快適な宿は他にはないだろう」 「そう、無論構わないわ。お金もそう急がなくていいから」  暮らす人間が数名増えただけでは、たいして負担にもならないのは生活していればわかる。  無駄に豪華な設備や、食材を使った料理が出ているわけではないが、あくまで必要のない費用を削っているだけで、商人上がりの金持ちらしい生活だといえよう。  そこまで考えて運用されているのならば、急にただ飯食らいが数名増えた程度で揺るぐような資産ではないだろう。 「リグレット、これからもよろしくね」 「あぁよろしく、お前達がいてくれるなら俺も嬉しいよ」  それぞれ違った形の好意を言葉にする二人。  親が、子に間近に迫り、全てを見守る存在ならば、確かに二人は親子の関係だった。 「私はしっかり商いを勉強してくつもりだけど、スティは何か特に考えている?」 「自分、ですか」 「うん、いつかウィルの特訓が終わるその時が来たら」 「考えたことなかったですね、今でも毎日必死で。でももしその時が来たら、自分はその力でスティを守りたい、たまに勉強のために外に出ることもあるだろうし、その時は私が守りたい」  目を輝かせ未来を語るスティに、ストレは少し違った様子で問いかける。 「それは負い目を感じているから?」 「負い目?なんで?」 「……なんでもない、そう、よろしく」  ストレはすぐに不安な表情を消す、きっと安心したのだろう。  どこか、どこか心の底で、その不安は溜まり続けていたのかもしれない。 ストレが愛を受け入れていること、強くなって何よりも自分を守りたいと意気込むこと、その二つの理由が、身寄りのない自分を救ってくれたことに対する対価だと、可能性の一つとして忘れられなかった。 なんて愚かな可能性、あんなにも真っ直ぐにストレを見つめる者は、彼女以上には誰も居ないというのに。 「ウィルさんはどうするんですか?」 「ん?」 「みんな今まで通りここで過ごすみたいですよ、ウィルさんも一緒に過ごしてみたらどうですか?」  皆が黙り、期待するようにこちらを見つめる。  眩しくも、温かな十二の瞳。 「……いいかもな。しばらく皆と楽しく過ごす。それも、いいかもしれないな」  自然に開いた口から洩れたのは、心からの言葉に間違いない。 「今日の午後暇か?」 「たいした予定はないですけど」  またしばらく日が経っての午前、ストレの特訓が終わって俺はそう切り出した。 「飯を食べ終わって体が落ち着いたら、真剣を持ってここに来い」 「……わかりました」  もちろんその光景を見ていたリリは、昼食時に話題として出し、俺は何をするんだと質問攻めにあうことになったが、最後の特訓だと、それ以外には何も伝えなかった。  最後と聞いて皆は黙っておらず、昼食後中庭に降りれば、スティ以外の顔ぶれが既に待っていた。  陽光を浴びてリラックスしていれば、スティが来るのも一瞬である。 「お待たせしました」 「ん、始めようか」  疑惑の視線を受けつつも、俺も太刀を持ち広い場所に移る。 刀身に巻いた布を剥ぎつつ、今からのことを告げる。 「今から最終特訓を始める」 「はい」 「これを突破できれば晴れて俺からの免許皆伝だ、特に名誉も何もないが今まで頑張ってきたことが俺に認められたと胸を張れ」 「はい」 「突破できなければ、死ね」 「……はい」 「見ての通り真剣で斬り合う、お前は死ぬな、俺を殺すな、でも俺はお前を殺す。それをどちらかの手足が飛んでも止めろ。俺相手にそれができるなら、もう俺が教えられることは何もないさ、わかったか?」 「わかりました」 「そうか、お前が構えたら始めよう。死ぬなよ?」 「死にませんよ、殺しもしない」  彼女からも、外野からも異論は一切上がらなかった。  それほどまでに俺が教えた彼女を、俺から学んだ彼女を皆が信用していた、重傷すら負わずスティはウィルを斬り伏せるだろうと。  彼女自身もそれは例外ではない、模擬戦では何日も前に、既に俺を圧倒していた。  しかし、その時にこのプロセスに踏み切らなかったのは、彼女が出来上がっていたのではなく、俺の準備がまだ終わっていなかったからだ。  ディースの言っていた自己制御、その手段はすぐに目星がついた。  契約の指輪の魔法は、あの概念を信じて疑わないもの、更に具体的に言えばそれが常識であること。  だから俺は、あんな魔法は存在しないという常識が固まった後で、指輪の存在を知ったため契約が通用しない。  ならばこの自己制御も同じこと「生まれてから今まで体が覚えた自分の限界を意識的に取り外す」たったそれだけでいい。  原理と手段さえわかればあとは練習あるのみ、慣れるまで限界を無視する事を意識し、それを突発的にできるようになるだけ。  少々時間がかかったが、ある程度の力を引き出せるまでこれた、例としてあげるなら、片腕で両腕の筋力を出せる程度。  これでほぼ彼女とイーブン、普段より片腕である不便さはあるが、筋力と共に引き上げられた身体能力が、そのデメリットを上回りメリットにする。  初撃、初撃で彼女の自信を、俺の自信を持って打ち砕く。  それだけで死ぬような仲間なら、初めからいらない。 逆にそれでも死なない仲間なら、俺は全力で信頼でき、きっとこれ以上に、今以上に皆と親しくなれる。自らより強い仲間が、俺達を守ってくれるのなら、別れの悲しみに脅える必要なんてどこにもない。 そう、これは彼女のためでなく、俺自身への儀式、前に進む為の儀式。  薄々真剣を持ってくるということで感づいてはいたが、実際に殺し合うとなれば流石に動揺はした。  しかし、それがどうしたというのだ。  元より自分が死なないため、仲間を殺させないため、相手を殺さないために、ただそれだけを目指して強くなろうとしていた。  そしてそれは、彼から学んだ技術でこれ以上ないほどに高まった。  彼を一度圧倒してからは、更に成長は加速。 今まで自分に足りない物は自信だったのだ。 その自信は、真剣で殺し合いをしても、なお相手を傷つけずに戦闘不能にすることさえも、容易く行える自分を確信している。 ならばこれほどまでに良い機会はないだろう。ウィルさんと、リグレットさんに見せつける時だ、もう自分は失敗しませんと。 違う、もう自分は、不殺を貫く準備ができましたと。 もう誰も殺させない、そうして生まれた過去の失敗すらも、胸を張っていけるように。 興奮で震える体。一つゆっくりと深呼吸し、双刃を構えた。 刹那、それを合図に彼は斬りこんでくる。 予想済み、実際の戦闘ではこれ以上に不条理な開戦などいくらでもある、この程度では誰も殺させない。 しかしその速度は予想を超えていた、人が片腕で出すにはあまりにも早すぎるそれを、咄嗟に体勢を崩し避ける。 直後地面ごと自分を叩き斬ろうとするその刃を、今度は余裕を持って避け、体制を整える。 なるほど、あなたも成長していたんですね。 きっとディースさんが見せた魔族の技術なのでしょう。 でも、それすらも自分は想定して成長してきた、今まで生きてきた中で最も早い動きをする相手を想定してきたのだ。そんなもので誰も殺させない自信を砕くことはできませんよ。 下段で横薙ぎに来る太刀を、後ろに跳ねつつ飛び越える、着地と同時に前に出る。 彼の太刀は特殊で、刃先のみ両刃でそれ以降は刃が潰れている、それ故振り切った刃をそのまま戻しても、打撃しか与えられないどころか、それもたいした威力にならない。 それを理解したのだろう、走りよる自分に合わせて上がる膝。しかしそれも予測できた、自分も膝を合わせて互いの体に空間を作る。 そこで一度剣を視認、逆手に持ち替えるだけの空間はその巨大な太刀にはなく、峰打ちにしようと迫りそこで気づく。 あれはフェイクだ、彼のもう片方の足は既に地を踏んでいない、再び後方に倒れ避ける。 その身体能力はあまりにも規格外だった、片足の状態から蹴りを放つなんて、常人にできる行為ではない。 起き上がった時には彼も着地していて、太刀をこちらに向けていた。 突き、もっとも彼が好む手法。 それを待っていた、常にそれを待っていたからこんなにも早く動けた、彼の判断能力を超えるほどに側面、左側の死角に潜り込む。 自分は覚えていますよ、今の形。 これを見ていたから、自分は二人相手に勝つことができたんです。 あなたは気づいていましたか、見られていたことに。 気づいていないからあなたは首を狙う、自分はそれを僅かな動きで避けられる。 苦しませたくないんですよね、あなたは殺める人を。 出来る限り首か胸を狙って、楽に死ねるようにと意識しているのを自分は知っていました、ずっと見ていたから、あなたのように強くなりたいと思っていたから。 結局一度も使われなかった武器を捨て、下半身に全力でぶつかる。 あなたは予想できない出来事に対応しきれないけれど、それでも太刀は放さなかった、凄い執念。 それに感心しながらも、ウィルさんの峰打ちよりも早く私は、彼の頭部に打撃を与えていました。 5.そうして俺は、君を殺すに至った 「ひさしぶり」 「……喋っている」 「今君は、私と同じ所にいるからそう感じるのかも」 「そうか、負けたのか」  常に殺すつもりは捨てず、本気で戦っていたのにもかかわらず、彼女は俺を気絶するまで至った。それも無傷で。それは確実に称賛されるに値する。 「でも両手だったら、どうにかできたこともいくつかあるんじゃない?」 「それを言ってしまえば、自己制御ができていなければできなかったこともある。条件が対等であれば今の俺なら勝てないさ」 「まぁそうね、ならもっと強くならないと」 「そうだな、スティに追いつく為じゃない、少しでも万全を期するために」 「言わなくてもわかっているわ」  思考がダダ漏れである。 「それでどうするの?」 「なにが」 「知っていて言っているでしょ」 「……」 「殺すって、あなたにとってはなに?」 「背負うこと、殺めることでその罪を、責任を背負うこと」 「ならば人以外を殺めた場合は?」  ティアとストレが話していた、本の会話を思い出す。 「背負うこと、殺めることでその存在を背負うこと」  人を殺した場合は単純だ、殺めたことで感じることを全て背負わないといけない。それだけじゃなく、その相手の痛みを感じた事実、死んだ事で成し遂げられなかったことの罪を背負う。  ならばそれ以外はどうだ、本、は止めて、思い出。  思い出の役割は覚えられていて、その持ち主に何らかの影響を与えること。  ならばその思い出を忘れることは思い出を殺す事に等しく、思い出を殺したことによって生じる、忘れてしまって影響を受けられなくなった、その事実を背負わなくてはならない。  楽しい思い出を忘れ、それを思い出せずに悲しむことは許されない。 「ちょっと事前準備を始めましょうか、その方があなたも楽でしょう」 「……あぁ」  フィーは唄うように言葉を紡ぐ、優しく、悲しく。  俺もそれに続いて言葉を紡ぐ、それは一人の少女の形をしたものへの鎮魂歌。 今まで役割をこなしてきたことに対する労わりの唄。 「ティアは殺した、未知で留まる自分を。そして前に進む、自らに相応しい世界を見つけるために」 「……リグレットは殺した、過去から逃げる自分を。そして受け入れる、愛する家族がいない現実を、楽しめるように」 「ディースは殺した、天使だった自分を。誇りを捨て、過去を受け入れ、憎んでいた人間に愛を見出した、彼女と歩む未来を作った」 「リリは殺した、堕落した自分を。二度の後悔を得て、三度目の後悔をしないために、日々を生きる」 「ストレは殺した、活きていなかった自分を。生の無意味さから目を背け、ただ刹那的な快楽を求めて活きて生きる」 「スティは殺した、弱かった自分を。信念に値する実力を身につけ、彼女は全てを守る」  皆が眩しかった、羨ましかった理由。 「なぁ、わざわざ口に出す必要なかったよな、思考が完全に共有されているわけだし」 「君が初めに決めたんでしょ、なるべく声を出して会話しようって、二人が別であることを自覚するために」 「まぁそうだな、最期まで貫くか」 「私もそうしてほしい」  こちらを見つめる赤い瞳、彼女は確かに今生きている。 「それは錯覚」 「違うだろ」 「違うくない、君が見ているそれは彼女の姿」 「確かにそうだがフィーはフィーだ」 「……ありがとう、正しくなくとも嬉しい」  その言葉も否定しようとして思い止まる、フィーがそう言うのならそれは覆せないもの。 「それで、君は何を殺すの?」 「彼らを殺す、思い出を、呪いを」 「それだけ?」 「……俺は君を、フィーを殺すよ」 「その言葉を言えるようになるまで長かったね」  前者は二年、後者は最低でも四年はかかっている、本当に長かった。 「太刀はいる?」 「そうだな、使おうか」  既に彼女は死んでいる、あくまでこれは儀式。 壁を超えることをわかりやすいようにする、ただそれだけの行為なのだから、なるべく儀式もわかりやすいように。 ずっしりと右手に重い感触、それを両手で握る。久しい感触。 「私が死んだら返すね、君の過去全部。それを受け止めるのはきっと辛いけれど」 「俺には支えてくれる友人達がいる、楽しみにしておく」 「そう、言ってくれると思っていた」  フィーは優しく微笑み息を吸い、一言吼えた。 「さぁ!私を殺しなさい!!」  太刀を構える、真っ直ぐ、胸に。  両目を閉じ、そして開いて走り出す。  貫く、胸から背中に。  血はでなかった、でも傷口から、彼女は確かに零れていた。 「君のことを愛していた、もう二度と会いたくないほどに」 「俺もだよ、再会などしないからな、安心して逝け」  フィーはすぐに、霞んで消えた。 「目が覚めましたか」 「あぁ、皆は?」  朦朧とする意識で室内を見れば、どうやら自室に運ばれていたようで、静かに安心できる空間に俺はいた。 「食堂でティータイムですね、お酒で」 「そうか、飲み物はあるか、二人分」 「ありますけど」 「昔話の時間だ」 「意外と早かったですね、もう後半年ほどはかかると思っていました」 「俺が嘘をついたことあったか?」 「たまに」  真実である。 「結構長くなると思うが、トイレとかは大丈夫か?」 「我慢できなくなったら漏らすので大丈夫です」 「全然大丈夫じゃない、俺の部屋だ」  意図的に自室で漏らされたら俺は激怒する、誰だってそうする。  様子を見るに大丈夫そうなので、早く話し始めるとしよう。 「俺は親の顔を知らない。物心ついた時には施設にいて、誰も信頼出来る人間がいなくて独り孤独。主にこの目のせいだな」  左目に被さった眼帯を取る、ひさしく直視する光に少し目が痛んだ。 「……驚かないんだな」 「あんなに長く一緒に暮らしていたら流石に気づきますよ」 「何故指摘しなかった」 「何度も尋ねましたよ、わざわざ隠すぐらいなのだから、傷つかないように遠回しに。瞳が赤い病気はあるんですか、とか。全部無視されたり、逸らされましたけど」 「済まない、覚えてない」 「謝らなくていいですよ、そういうものなのでしょう?」 「まぁそうだな、続けるぞ」  その施設は商業都市の外れに建っており、どんな子供でも引き取っていた、魔族だろうが。  そんな素晴らしい博愛を持ってしても、子供の残酷さは止められない。  先輩から後輩へ、魔族を迫害する知識は受け継がれていき、露骨な嫌がらせこそなかったが、魔族とそれ以外のグループで行動するのは日常と化していた。  そんな中、ハーフである俺はどちらのグループも扱いかねていて、その結果一人孤独となるのは当然のことだった。  そんな孤独にも順応、マヒしてきた頃に、初めてその子と出会う。  後に出会うフィーと同じ姿の少女だ、透き通った銀髪に赤目、ひどく人形のように可愛らしい少女だなと、それだけ思った。  しかし実際はそれだけでは済まず、彼女は俺がどのグループにも属せていないことに気づくと、魔族のグループを捨ててまで彼女は俺と友達になってくれた。  文句無しの初恋である、初めて温もりをくれた女の子が、孤独だった男の子の全てになるのは早かった。  彼女は幼くとも高貴で、博識だった。 彼女は俺に色々なことを教えてくれた、知識だけじゃない、物事の考え方もだ。 「君が信じるものは私じゃない、君自身を信じるんだ」 「他者の言うことを信じず、言われたことを自分で噛み砕いて、呑み込んだそれを信じていくんだ」 彼女はそのようなことをいろいろ教えてくれた、室内に俺達の居場所はなくて、外にある花畑の隣で毎日。記憶がなくなってもその教えられた信念だけは覚えていた。 眼帯をつけることを教えてくれたのも彼女だった。自らの赤い瞳を隠すように教えてくれたのも。 何故かと尋ねた記憶がある、その時の彼女は、そうしたほうがいいから、とそれだけしか言わなかった、寂しげな顔で。 今にして思う、その時彼女は俺を強くしようとしていたんだと、私がいなくとも一人で生きていけるようにと。 それを知ってか知らなくてか、彼女と出会って一年もしないうちに別れる時がきた。 でもその時俺は彼女の希望通りにはいかず、彼女なしではいられなかったんだ。 その夜に施設を抜け出した、彼女の元に行くために、どこにいるかもわからないまま。 そして迷子になった俺を待ち受けていたのは不運だった、柄の悪い男達に捕まり、その日の内に見事盗賊の奴隷入り。 身代金を期待していたのか、ただ奴隷の買い手がいなかったのか、そのまま俺は盗賊達の住処で雑用として働くことになった。 失敗したり、仕事が遅かったり、機嫌が悪かったら暴力は容赦なく降りかかる。 彼女のことを考えながらも、俺は次第に暴力に支配されていった。 子供は従順だ、すぐに言われる前に仕事をやるようになり、信頼を勝ち取っていった。 次第に奴隷から、盗賊の下っ端に変わっていった。寝る時に自由を約束されて、食べ物もましなものを与えられ、本業も手伝わされ、そして遂に宝物庫の整備まで任されるようになっていた。 そこで出会ったんだ、今の太刀と。 興味心で、今は失った鞘から抜けば、その綺麗過ぎる暴力の象徴は俺を虜にした。 そこで語りかける声に気づく、気づいた時には施設、彼女の記憶と引き換えに、フィーと盗賊達に対する殺意だけが残っていた。 多分耐えられなかったのだろう、彼女の居た幸せな時と、今その時の現実とのギャップに。 俺は確かにその時一度壊れて、自分だけにしか見えない彼女に支えられながら、日々を過ごしていた。 体を鍛え、彼らの暴力から学び、癖を覚え、そしてある日弾ける。 不意打ちだった、寝ている時に、従順だった俺が、予期しない身体能力で襲ってくるのだ。 やっと何が起きているか盗賊達が理解した時には既に遅く、もう誰も立てる人間は残っていなかった。 そして俺を見つめる目があるんだ、怒り、悲しみ、苦痛。殺しきれなかった盗賊が、俺を呪い殺すように睨むのだ。 怖くて、怖くて、もう動ける人間など誰もいないのに、太刀だけ持って逃げ出した。 何処か遠くへ、ひたすら走り続けていたら偶然人の集団がいて、その人達に俺は保護された。 そこからの生活は幸せなものだった。 今の俺達から数年経って、男女比を入れ替えたようなメンバーだったかな。 皆いい人で、俺を随分とでかい子供のように愛してくれた。 その時に正しい剣の使い方を教えてもらったり、生きていくために必要な知識や技術を教えてくれた。 彼女のことを覚えていない俺からしてみれば、フィーの次に俺のことを大切にしてくれる大人達で、俺の親と呼べる人達だった。 でもその幸せも長くは続かない、一年も危険な仕事をしていれば、何度も命の危機にあうけれど、その時は最悪だった。 皆が俺を庇い倒れていき、事が終わった時に生きていたのは俺だけだった。 自らの力不足で親を失ったこの時俺は、二度目の故障を経験した。 親しくなった人達と別れる恐怖に恐れて、誰とも親しくならないように一人行商を始めた。 それが大体二年前、ティアと出会うまでに経験した過去の全て。 「これでひとまず全部かな、楽しくなかっただろ」 「楽しいわけないじゃないですか、でも話してくれて嬉しかったです」  少し震えた声で、途中から体を起こした俺を抱きしめる。  今なら素直に、その温もりを受け入れることができた。 「記憶が戻った今、何をしたいですか?」 「皆ともっと仲良くなりたいかな、別れを恐れずに」  言葉は迷わず出てこれた、それは過去の呪いを殺せた証拠。 「それなら今までと変わらないじゃないですか、出会った頃とは違って、最近は普通にやれていましたよ」  彼女がそう言ってくれるのだったら間違いないだろう。  最近は自分でも親しくやれていたと思うが、最後の壁も気づいたら無くなっていたのかもしれない。 「じゃあなんだ」 「その施設行ってみたいとは思わないんですか?」 「あ、そうだな。何かあるかもしれないし」  俺の身分を証明する物だったり、彼女との思い出の品だったり、あわよくば彼女がどこに引き取られたかわかるものがあるかもしれない。 「場所は覚えていますか?」 「あぁ、ついさっき思い出したよ」  本当についさっき、目覚めた時には取り戻していた記憶。 きっと忘れてはおらず、記憶を避けていただけだったのだろう、たいしてショックもなかった。 「立てますか」  返答代わりに二本脚で立ってみるが、特に違和感はなかった。ただの軽い脳震盪で、後遺症などもないだろう。 「今から皆に挨拶だけして、すぐに行こうか。太陽が落ちる前までには帰って来れる」 「わかりました、お供しますね」  自然に肩を揃えて歩きだす、そう自覚すると少し新鮮な嬉しさが込み上げてくる。 「そうか、眼帯取れたんだね」  食堂に入れば静かに出来上がっていて、楽しげな雰囲気を撒きながらディースが声をかけて来た。 「おかげ様で俺もようやく真人間だ」 「君はいつだって人間だったよ、素敵なほどに」 「あ、ウィルのその目!」 「気づいていなかったのかい?」 「気づくわけないじゃない。でもこれでディーが言っていた意味が分かった、そういうことだったんだね!」  どういうことだ。 「おう、ようやくか」 「随分待たせたな」 「そりゃもう待ったさ、出会った時からお前は素直に笑えない、でもこれからは違うんだろ?いっぱい楽しませてくれよな!」 「任せてもらおうじゃないか、決して飽きない楽しい日々を送らせてやるよ」  楽しませてくれという言葉に、何か嫌な響きを感じつつも無視し、ティアの次に長い間見守っていてくれた男に感謝する。 「何やらずいぶん楽しそうなことになっているじゃない、頭を打って何を見て来たの?」 「いろいろ見てきたよ、嬉しいこと悲しいこと全部」 「それで何か変わった?」 「それなりに変わったよ、ストレに本当に惚れられるほどに」 「……確かに変わったわね、これから期待しておくわ」  その頬が少し赤いのは何が原因か。 「……ウィルさんストレに手を出しちゃダメですよ?」 「俺からは手を出さないさ、それ以外は知らないね」 「もう。頭の調子は大丈夫みたいですね、少し変になっちゃっていますけど。全力で殴ったので心配だったんですよ」  酷い言われようである。 「特に問題はないさ。それよりもおめでとう、俺から教えられることは全て教えた」 「今までありがとうございました!でも私まだまだ強くなりますよ、あなたが両手を使ってもすぐに勝てないほど強くなって、みんな守れるようになりますから」  スティはそう言って、初めてあの優しげな表情で笑った。 それに対し俺も、思わず同じ表情で笑い返していたと思う。  彼女は常に自信を持ちながらも、それでも天狗にはならずに冷静にものを見れている。  それはスティの戦闘能力だけではなく、彼女の精神的な成長も手助けするだろう。 「少しティアと出かけて来る、日が暮れるまでには戻る」  皆にそう告げると、何か大切なことだと感じ取ったのだろう。 「「いってらっしゃい」」 宴会のために引き止めようとはせず、そう言ってくれた。 「いってきます」  だから俺は、自分の家に帰ってくるためにティアとそう返すのだ。 「ここだな」 「本当にですか?」 「あぁ、間違いない」  ティアが聞き返すのも無理はない、そこは何もなかったのだ。  引越しや勘違いの可能性も、草にまみれた焦げた木材が否定する。  施設は燃えた、火事にあったのだろう。何もかもなくなってしまったことだけは確かだった。  感じるのは虚脱感、ささやかな期待は、現実に簡単にも裏切られる。 「このお花畑ですか?」 「そうだ」  一面に広がる赤い花。それは記憶よりも広がっていて、どうしても彼女の瞳を思い出して胸が痛む。  今思えば彼女の見せる笑顔は、初対面のティアが見せた笑顔のように、どこか無理をしていたように思える。だからフィーは止めたのだろう、あの笑顔をする少女を、二度も放していいのかと。 「カーネーションですね、花言葉を知っていますか?」 「いや、名前も初めて知ったよ」 「純粋な愛情、赤い花に似合う情熱的な言葉ですね」  彼女は、彼女はその花言葉を知っていたのだろうか。 もしも知っていたのなら、それは罪だ。今頃初恋の悲願を意識させる罪だ。 あの時彼女と過ごした日々が鮮やかに脳裏を走り、堪らず涙腺が緩みになる。 「あと一つ、花言葉があるんです」 「……」  黙って言葉を待つ俺に、ティアは俺を抱きしめるように両手を伸ばす。 「あらゆる試練に耐えた誠実。今まで頑張ってきたね、私の胸で泣いてもいいんだよ、ウィル」