「まぎれもなく、貴様らの血を分けた子だ」  郁人の手の中には、赤ん坊がいた。左目の下に三つのほくろが並んでる。  横には、今朝知り合ったばかりの転校生。綺麗な顔を、怪訝そうに歪ませている。左目の下には、赤ちゃんと同じようにほくろが並んでいた。 「今は無き遥か遠き大地と天空を恐怖で支配した魔王――そのご再誕したお姿である。まこと愛らしいお姿になられたものだ」  携帯電話に映った、黒い羽と二本の角が生えたメイド姿の悪魔が、一方的に話している。  気が遠くなる。  赤ん坊を持っていなければ、そのまま倒れていたかもしれない。  なんで、身に覚えない子ども――しかも魔王の生まれ変わり――を押し付けられたのか。 「人間ふぜいが、おそれおおくもありがたかろう。かしこまりて育てるがよい」  待ってくれ。  だってつい昨日、水天宮さんに告白したんだから。                     1  昨日の放課後、郁人は水天宮さんと教室に残っていた。  担任から体育祭の写真をポスター紙に貼り付けるという作業を任されたからだ。  ポスター紙は両手を広げたくらいの大きな白い紙で、単に並べて張っていくだけなら楽なものだ、と郁人は考えていた。 「お花を描こう」  と言い出したのは、水天宮さんであった。  何のことか尋ねる前に、水天宮さんはどこかから持ち出した十二色入りマーカーでチューリップの花を描いてしまった。秋なのに。それのみならずチョウや山、太陽、なぜかペンギンと、あらゆるイラストを、国民的RPGのテーマソングの鼻歌まじりに加えていく。さすがに注意しようかと思った矢先、その絵の中に写真を散りばめて張っていった。  最初は意味がわからなかった郁人も、その意図が見えてくる。  たとえばクラスのリーダーとしてみんなを引っ張った高山は、太陽の中に。ガリ勉で運動オンチの小林がまぐれで打った逆転ツーベースヒットの瞬間は、ヒマワリの中に。女子の息のあったチアリーディングはひらめくチョウの下に。  その写真がより映える場面を台紙の中に描いているのだ。 「あ、なくなっちゃった」  あっという間に一枚の紙を埋め尽くしてしまた。 「一応、予備の紙もあるけど」 「え? ほんと?」  水天宮さんがこっちを見上げた。大きな瞳を真正面から見ると、文字通り、目がキラキラしているように見える。  教室の壁に張るわけだから二枚以上はスペース的に無理なんだけど、彼女の笑みを見たらそんなことは些細なことに感じた。  そんなこんなで予備の紙を含めて三つ使いきってしまう。外は真っ暗になってしまった。 「いやぁ、描いた描いた。やっぱり紙が大きいとおもしろいね」  そういって、水天宮さんは額をぬぐう。ブレザーを脱いで、ワイシャツも腕まくりしている。教室にエアコンなどないのに、ちょっと汗ばんでいるようだった。 「郁人くんも何か描けばよかったのに」 「俺は絵心ないから。水天宮さんの横には描けないよ」 「わたしだって、ぜんぜんだよ。保育園でもよく描いてるから、慣れてるだけ」 「保育園って、バイトしてるんだっけ?」  うふふ、と含み笑いをしながらカバンを探る。「じゃーん!」と取り出したのは、首から提げる職員票のようだった。『つくしんぼ保育園 臨時職員 水天宮あかり』とある。  さくらまち保育園はこの学校のすぐ横にある。郁人も、放課後に子供たちと遊ぶ水天宮さんの姿を何度も見たことがあった。 「すごいよね。何人も子供の相手するなんて」  笑顔で首を振る。 「みんないい子たちだし。わたしも子供好きだしね」  と、鼻の頭を赤く染めて彼女が言った。マーカーがかすったんだろう。彼女のほうがよっぽど子供みたいだ。  水天宮さんとはこのクラスになってからの付き合いだ。いつも明るく、なんにでも一生懸命で、人をひきつける不思議な魅力がある。学級委員なんてていのいい雑用係で、たいていは押し付け合いになり、郁人のようにじゃんけんで負けた人間の役目になる。一方で、彼女は自発的に立候補した。  学級委員で唯一よかったのは、彼女と話す機会があることだった。おかげで、彼女が子供好きなこと、お父さんが市長をやってること、マンション暮らしでペットが飼えないこと、家事は一通りできることなんかを聞いた。 「もう遅くなっちゃったね。帰ろうか」  幸い、途中まで帰り道は一緒だった。  肌寒い夜道を並んで歩く。郁人は車道側を歩くように気をつけていたが、水天宮さんは一番星を見つけては走り出し、コスモスを見つけては立ち止まるので、一緒に歩くのがなかなかに難しい。  そのたびにくるくると変わる表情を見ているだけで楽しくなる。  住宅地に差しかかったところで、また水天宮さんが立ち止まった。  顔を斜めに上げて、しきりに鼻を鳴らしている。何か匂いでもするのかと思うが、郁人は何も感じない。  水天宮さんは真剣な表情で、あたりをゆっくり見渡す。  鋭いまなざしは、まるで別人のようだ。  どうしたのか。尋ねようとした瞬間―― 「あっ」  消えた、と思った。  暗がりの中で瞬時に動かれたからそう見えたのだ。  水天宮さんは突然駆け出し、路地裏へ飛び込んでいった。 「ちょ――」  慌てて郁人も走り出す。だが高い塀にはさまれた路地裏は、人一人がようやく通れる程度の狭さの上、完全に闇に飲まれている。水天宮さんを見つけるどころか、ちゃんと進めるかも疑問だ。 「……ええいっ」  一瞬だけ躊躇したが、放っておけるわけもない。ぐっと目をつぶり、闇の中に飛び込もうとした瞬間――  むにゅ。  唇にしっとりとした柔らかい感触。 「わわっ、ごめん!」  すぐ目の前から水天宮さんの声。  目を開けるとそこに、慌てた様子の水天宮さんと――彼女が頭上に掲げた茶色い子犬がいた。  子犬がハッハと伸ばした舌から、よだれが郁人の唇とつながっている。 「…………」  黙って郁人は唇をぬぐった。 「どうしたの、それ?」 「たぶん迷子だよ。首輪もあるし、リードもついてる。散歩中に逃げ出しちゃったのかも」  そういって、子犬の毛に付着したゴミやクモの巣を取っている。よく見れば、トイプードルだ。あまり野良では見かけない。  と、水天宮さんが覗き込むようにじっと見てきた。 「どうしたの?」 「えっと……ごめんね、もしかして、その――初めてだった?」  暗がりでもわかるくらい顔を赤くしてる彼女は、それはそれでかなり素敵だが、 「犬はカウントしないよ!」  と突っ込まずにはいられない。  いや、初めてだけどね。  残念ながら。 「あ、そうか。ごめんね、変なこと聞いて」 「いいけどね」 「ん? この子、女の子だよ。よかったね!」 「どっちでもいいけどね!」  と、こんなことをやってる場合ではない。 「迷子ってことは、どうするの?」 「とりあえず私が預かって、探してみようと思う」  素直に感心する。  たまたま見つけた犬の飼い主を探すなんて面倒ごとを、即決するなんて。  冷たいようかもしれないけど、郁人がまず思ったのが「警察は動物も預かってくれるだろうか」だった。 「もしよかったら、俺も何か手伝うけど」 「うーん……でも、いいよ。散歩中に逃げたってことは、きっとこの辺の人だと思うし、すぐ見つかると思うから」  やんわりと断られ、なんとなくそれ以上声をかけられなくなってしまった。 「じゃあ、わたしんちこっちだから」 「あ、うん……」  郁人は水天宮さんと別れた。  帰路をとぼとぼ歩きながら、胸の中に残るわだかまりについて考えていた。  もう少し強引にでも手伝ったほうがよかっただろうか。でも正直、犬が心配というよりは水天宮さんに対しての感情なので、後ろめたさを感じる。実際にできることが何かあるかっていうと、特にないし。  考えてる間に、家についた。  住宅街の片隅にある、庭付き二階建ての一軒家。ちょっと古いが、家族で住むには十分すぎるくらいの物件だが、郁人はここに故あって一人暮らししている。  正直ひとりでは大きすぎると思うが、きっと人が聞けば贅沢に感じるだろう。一人暮らしは誰にも気兼ねすることがない上に、一軒家なのでマンションにありがちなご近所さんへの気遣いも少ない。  と、そこであることを思い出した。 「くそっ」  急いできた道を駆け戻る。  いまさら気づいたところで遅いかもしれないが、気づいてしまった以上は放っておけない。  わき腹が痛くなってきたところで、さっき水天宮さんと別れたところまで戻ってきた。彼女の家はわからないが、どうしたものか――そう思って見回したら、学校へ向かう方向に、見慣れた後姿があった。リードでつないだ犬も一緒に歩いていた。 「水天宮さん!」  駆け寄りながら声をかける。  水天宮さんが驚いたように振り向く。大きい瞳が、こぼれ落ちそうなほど見開かれた。 「え? 郁人くん、なんで? びっくりしたぁ」  息を整えながら、郁人が尋ねる。 「なんで……こんなとこ、いるの?」 「ええっと――お散歩?」 「ペット、だめなんでしょ」  あはは、と苦笑いされる。  彼女の家はマンションなのでペットが飼えない――前に世間話で聞いたことを、ついさっき思い出した。 「どうするの? まさか、学校で一緒に寝泊りするつもりだった?」 「うーん、飼い主さん見つかるまでならいいかなって」  図星だった。  これだから、放っておけない。 「よかったら、家きなよ。学校よりはあったかいと思うよ」 「お邪魔しまーす」  遠慮がちに言って、水天宮さんがガラガラと鳴る引き戸をくぐってくる。  この家に暮らしてから一年。白熱灯で黄色がかった玄関に、水天宮さんがいる。見慣れた風景が、まるで別物に感じられた。 「うわぁ、ほんとに一軒家だ。すごいね」 「オヤジのつてで格安で借りてるんだ。古いから新婚ファミリーは見向きもしないし、駅まで遠いのに駐車場もないしで、条件が半端だから余ってたんだって。管理する手間も考えたら、格安でも貸しちゃったほうが得ってことかな」 「でもわたしは好きだよ。なんかおばあちゃんちにきたみたい」  聞きようによっては微妙なコメントだが、水天宮さんの緩んだ表情から、本当にリラックスしてるようだ。  たしかにこの家には、防虫剤とお香の匂いがうっすらと漂っている。前の持ち主は老夫婦だったらしい。今は新居に引っ越したらしいが、その匂いは染み付いて残っていた。  ペットもOKの物件である。 「とりあえず上がってよ。散らかってるけど」  水天宮さんが珍しそうにきょろきょろしている。  幸か不幸か、お節介な管理人さんがいるせいで掃除はまめにしてあるし、年頃の女性の目に触れるとアレなものも、引き出しの二重底の下なので大丈夫。……ちゃんとしまったよな? 「へえ。男の子の部屋って初めてきたから、なんか新鮮」  無防備なそういう一言に、郁人はドキドキしてしまう。  水天宮さんを居間に通し、子犬も畳に下ろす。最初は落ち着かない様子であちこち匂いをかいでいたが、すぐに馴染んだようで、駆け回りだした。 「それじゃ、飼い主探すって言っても、どうしようか」 「あの辺を聞いて回る、とか……?」  本気で言ってるから、敵わない。 「何百件とあるから、難しいよ。それより、オーソドックスなところだけど、張り紙を作るとか」  たまに迷子のペットを探す張り紙を見かける。今回は逆だが、効果は見込めるだろう。 「あ、そういうのは得意だよ!」  言うが早いか、水天宮さんはノートとペンを取り出す。描写。あっという間に子犬の下書きを描いてしまった。  めちゃくちゃうまい……。  学校で描いていたイラストとは違う、写実的な絵だった。 「い、いや、でも一応、普通にカメラもあるから」 「あ、そっか。さすがだね」  手持ちのデジカメで、何枚か子犬の写真を撮った。部屋を駆け回る様子や、寝転がった瞬間、水天宮さんが子犬を抱いた写真を一枚。  これは個人的に保管させてもらおう。 「でも、もう写真屋さんしまってるよね」 「いや、これをパソコンに取り込んで、適当に加工すれば……」 「え? え、え?」  パソコンにUSBでデータを送り、正面から撮った子犬の写真を取り込む。文書ファイルに貼り付け、『子犬預かってます』と入力。 「あとは連絡先だけど――」  ぎょっとする。  すぐ横に水天宮さんの顔があった。  手品を見てる子供のように食い入るように画面を注視していた。 「すごい! 郁人くん、プロみたい!」 「そんなことないと思うけど」  手書きでリアルなデッサンを一瞬で描き出すほうがどう考えてもすごいと思う。 「あ、連絡先だっけ。えーっと」  水天宮さんはポケットから携帯を取り出す。ずいぶん色あせた二つ折り携帯だった。スマホでもないのに、両手で操作している。 「ずいぶん古いの使ってるね。機種変とかしないの?」 「まだ壊れてないから」 「壊れるまで使う人のほうが珍しいと思うけど」 「ごめん、ちょっと黙ってて」  集中して、何かを探しているようだった。 「あ。あった。これ」  一分後、ようやく見つけたのは自分の番号とアドレスの画面だ。ていうか、ボタンの一つ一つが妙に大きい。 「……これ、らくらく電話?」 「うん。友達に薦められたの。わたしはこのほうがいいって」  なるほど、と。郁人はすべて理解した。  彼女の名誉のために言っておくが、決して頭が悪いわけではない。むしろ成績は上位だ。たしかに数理系は苦手なようだけど、向き不向きがあるのは仕方ない。 「あ、でも連絡先は俺にしようと思うんだ。さすがに女の子の番号は乗せないほうがいいと思うし」 「そうなの? でも、郁人くんが言うなら任せるよ」 「その代わり、俺がもらってもいいかな。すぐ連絡できるように」 「そんなの、ぜんぜんいいよ。あ、でもわたしも登録しないと……」  表情が曇る。 「……俺が登録しようか?」  ぱっと晴れた。  水天宮さんの携帯を借りて、郁人の連絡先を登録した。さすがらくらく電話、初めて触ったがあっという間に登録できる。ボタンも押しやすいし、メールや電話だけならこのほうが便利かもしれない。  数分で登録完了。 「奇跡を見てるみたいだよ」  震える水天宮さん。あなたのほうが奇跡だ。  かくして、張り紙は完成した。一枚プリントアウトして確認してみる。  子犬の写真をつけて、その特徴や連絡先だけを載せたシンプルな内容だ。 「とりあえず、一〇〇枚くらい刷って、明日張っていけばいいかな」 「ぜんぜんいい! 郁人くん、本当にありがとう」 「いや、こちらこそありがとう」 「うん?」 「いや、何でもない」  水天宮さんの写真に連絡先が、自然にゲットできた。えがたい一日だった。 「うちのプリンター、けっこう遅いから今日はもう帰ったほうがいいよ。明日、学校に持っていくし。あんまり遅くなると、家族の人も心配するだろうし」 「お父さんには、友達の家で迷子犬の飼い主を探すって連絡しといたから大丈夫だよ。『がんばってこい!』だって」  そういって、大きなあくびをする。 「あ、ごめん。日が暮れると眠くなっちゃって」 「おばあちゃんかよ」  苦笑しながら立ち上がる。 「作りおきのカレーでよければあるけど、食べる?」 「辛いのは好きだけど、申し訳ないよう」  それを肯定と受け取り、郁人は冷凍ご飯を解凍し、カレー鍋に火をかけた。  仕事の関係で両親とも離れて暮らしている。月に家賃込み十万円の仕送りでやりくりしなければならないため、自炊は必須だ。カレーなどは定番で、コスパも高いし、一度作ればしばらく作る手間が省けるので、月に二回は作っている。市販のルーを使っているとはいえ、すりおろしリンゴ、コーヒー、ブラックチョコレート、ヨーグルトと数々の隠し味を加えたそれは、それなりの味であると自負している。  盛り付けたカレーを持って居間に戻ると、水天宮さんは体を丸めて横になっていた。というか、寝ていた。彼女の胸に抱かれる形で、子犬も寝ている。窒息しないかな。 「うーむ」  ひとまずカレーをテーブルの上に置き、水天宮さんを見やる。  無防備である。なんの夢を見ているのか、うにゅうにゅと動く唇。身じろぎしてスカートから滑り出す脚の白さ――。 「げほ、ごほん」  意味もなく咳払い。押入れから毛布を引っ張り出し、なるべく彼女のほうを見ないようにかけてあげる。ほっと一息。なぜか汗をかいてしまった。  プリンタは延々とポスターを吐き出している。  とりあえずテーブルを挟んで水天宮さんの反対側に座る。  改めて、信じられない一日であった。  水天宮さんとこんなに近づけるとは。うちにあげて、連絡先を交換して、おみ足を―― 「げふんげふん」  とにかく、感謝したい気持ち。  リズミカルなプリンタの音と、水天宮さんの寝息だけが聞こえる部屋。何か満たされたような気分が胸に広がる。  チュンチュン。  朝だった。 「え? いやいや!」  テーブルから身を起こす。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。朝だ。  立ち上がろうとして、肩から毛布が滑り落ちた。水天宮さんにかけたものだ。 「あ、水天宮さん――」  いなくなっていた。子犬だけが、大の字になって寝ている。  テーブルの上にメモ書きがあった。 『カレーおいしかった!』  そしてなぜかインド人のイラスト。ターバン巻いたヒゲもじゃのおっさんが踊りながら手足伸ばして火を吹いてゾウを焼いている。おかしいだろ。 「もう帰ったのか」  時計を見ると、七時五分前。郁人自身も、のん気にぼんやりしていい時間ではない。  突きっぱなしのパソコンを消す前にふと思い出し、昨日撮った水天宮さんの写真を開く。かわええ。デスクトップの壁紙にしてしまえ。  プリンタが吐き出していたポスター一〇〇枚が消えている。水天宮さんが持っていったのだろうか。それなりの重さもあるし、あとで自分が持っていったのに。少し悪いことをした。  シャワーだけ浴び、着替えをして、カレーをよそる。食器洗いに水天宮さんに出したカレーの皿が置いてあった。洗ってくれたようだ。  と、ゴソゴソしてると子犬が目を覚ましたようで、鼻を鳴らしながら足元に擦り寄ってくる。 「あー、お前も腹減ったのか。なんかあったっけ?」  カレーに肉は入ってるけど、香辛料とかよくない気がするし。タマネギあげると腰を抜かすと聞くし。犬を飼ったことがないので、半端な知識しかない。  と、台所を探そうと思ったら、缶詰があった。書きおきつきで。 『ワンちゃんのご飯だよ!』  とのメッセージの横に、焦げたゾウが目から電撃を発し怪しいインド人が感電するイラストがあった。もはやインドは何の関係もないよ!  皿に盛り付けると、子犬はものすごい勢いで食べ始めた。そういえば昨日も何もあげないまま寝てしまった。 『PS 郁人くんは味噌汁でも食らえ!(勝手に材料使っちゃのはゴメン)』  見ると、コンロの鍋にまだ温かい味噌汁があった。  もちろん材料なんて好きにしてもらっていいのだが、かえって申し訳ない。  すすってみる。  花畑が広がった。 「え? なにこれ?」  止まらない。ただのワカメと豆腐とネギの味噌汁だ。郁人だって味噌汁くらい作れるが、同じ材料や調味料を使ったとは思えないくらい、深い味わい。舌の上をなめらかに滑り、喉の奥へと流れていく。うますぎる。嫁にほしい。  あっという間に全部飲んでしまった。  しかし水天宮さんはいつ起きたのだろう。カレーを食べて、皿を洗い、どこかでドッグフード調達して戻ってくるなんて。ついでに味噌汁まで用意する始末。  思えば、不思議なところがある子ではあった。文化祭の準備の際に買い出しした大荷物と一緒に消えたかと思いきや、ひとりで学校に戻っていたし。  かと思いきや、マラソン大会のときにトップを独走していたら、いつの間にかビリになってたし。「カラスが飛んでたの追いかけてたら迷っちゃった」とか。 「と、俺も行くか」  カレーをかきこみ、シンクで水だけ入れる。  一応それで身支度は完了したわけだが、今日はいつもとは違うものがいる。 「わん」  玄関に下りた郁人を見下ろし、床の上から尻尾を振っている。完全にお見送りの体勢だが、そのままにはしておけない。 「いればいいんだけど」  子犬を抱えて、玄関の引き戸を開ける。 「子安さん!」  少女の声。  赤いリボンで長い黒髪をポニーテールにしている。黒いレースのワンピースに竹ぼうきという魔女っ子ルックで、庭を掃き掃除する小学生。彼女こそが、この家の管理人である。 「やあ、マナカちゃん。おはよう」 「おはよう、じゃないよ。お持ち帰りとは、見かけによらずけしからん御仁だねぇ。マナカちゃん、最終的には子安さんのお嫁さんになるしかないかと思ってたんだけど、これでもう大丈夫かなぁ」  にやけながら、竹ぼうきの柄の先を腹に突っ込んでくる。地味に痛い。 「な、なんのこと?」 「とぼけなくてもいいんだよ、しっかり目撃しちゃったから。昨日はあのおっぱいとイチャコラしたんだねぇって、小学生に何言わせてんですか!」 「いや、そういうんじゃないから!」  と、急に真顔になる。 「うん、知ってる。子安さんがそんなけしからんことできるわけないじゃない。うたた寝した女の子に毛布をかけて紳士を気取るのがせいぜいかな」 「な……ぐ……」  結局その通りなので何もいえない。  と、マナカが犬の鼻先に指を向ける。 「本命はこっちだね。さすがのマナカちゃんも、獣を相手にするとまでは予測してなかったよ。けしからんを通り過ぎて、もはや鬼だね」 「犬にそんなことするか!」 「え、何のこと? 獣ちゃんを相手に飼い主を探してあげるんだなぁ、子安さんは鬼のように優しいなぁ、と私は思っただけだケド。って、あれあれ? 小学生の発言にどこまで妄想してるんですか? そんな小学生、子安さんの頭の中にしかしませんよ? しっかりしてくださーい、こっちは現実ですよー」  天使の笑顔で手を振ってくる。  三ヶ月前。海外の学校で長い夏休み中という彼女が、社会経験をかねておじいちゃんの代わりに管理人をやるといってやってきた。だいたい毎日、掃除をしてくれている。ただ、掃除をするというより郁人を茶化しにきているといったほうがいい。  下手に言い返しても、さらに揚げ足取られて倍返しされるだけだ。息を吐いて、つとめて冷静に言った。 「ちゃんと現実はわかってる。マナカちゃんが言うとおり、俺はこの犬の飼い主を探そうとしてる」 「うん、知ってる。お姉さん、こんなの持ってたから」  マナカが見せたのはまさに夕べ作った張り紙だった。 「で、子安さんは学校に行きたいけどワンちゃんを放っておけない。その間に純真無垢なマナカちゃんをそそのかして無償労働に従事させようと企んでる、てことだね」  反論したいけど大筋では言うとおりなので、なかなか言い返せない。 「む、無償とは思ってなかったよ。それなりのお礼はしようかと――」 「小学生を金銭または物品で丸め込むなんて、さすが子安さん。もはや犯罪者と見まがうまでだね」  ああいえばこういう。  一体どんな育て方をされたのか、親の顔が見てみたい。  と、郁人の腕の中から子犬をするりと抜き取った。 「あんまりからかっちゃかわいそうだし、そろそろ真面目に預かるよ。子安さん、本当に遅刻しそうだしね」 「え? あ、ああ……」  たしかにちょっと走らないとまずい時間になっている。  マナカはこの通り頭がいい子で、その実ちゃんと優しい面もある(気がする)から、子犬のことは任せても大丈夫だろう。郁人は「ありがとう」と一言添えて、駆け出そうとする。  その背中に、声がかかる 「この家、本当はファミリー層向けの物件なんだから、よろしくね」  振り向くが、もうマナカはいなくなっていた。 「う、うーん?」  と、携帯の音が鳴り響く。  歩調を緩めながら画面を確認。公衆電話からだ。 『あ、あの……』  知らない女の子の声だった。  飼い主はあっさり見つかった。  なんと隣町だった。散歩中にリードを離して見失ってしまったというが、あの子犬が、よくもまあこっちまでやってこれたものだ。  その日の放課後、飼い主だという女の子と待ち合わせした。水天宮さんも同行したいというので、一緒に向かう。 「よかったね、飼い主さん見つかって」  水天宮さんは今日何度目とも知れない言葉を口にする。  そのたびに、違和感を覚えた。明るい声や朗らかな笑みは、いつもどおりにも見えるが。 「本当、よかったよかった」 「……うん」  そんな調子で、待ち合わせ場所まで会話らしい会話は交わさなかった。  待ち合わせは隣町の公園だった。比較的大きい公園で、下校中の小学生や犬の散歩をする人たちなどがそこかしこにいる。  約束の時間の一〇分前だったが、飼い主はもういた。髪をツインテールにまとめた、赤いランドセルの女の子。三年生か、四年生くらいか。公園の真ん中でそわそわと辺りを見回している。  郁人と目が合うと、ダッシュで駆け寄ってきた。 「チャコ!」  その声に水天宮さんの腕の中の子犬が反応し、身じろぎする。地面に降り立つと、一目散に飼い主の胸の中に飛び込んだ。 「もぅ、すっごく心配したんだから!」  顔をなめまわされながら、女の子はぎゅっと抱きしめる。  よかった、と思う。やっぱり飼い主のところが一番だ。  ふと水天宮さんを見ると、静かに笑顔を浮かべていた。 「ありがとう、おじさん、おばさん!」 「おじ――」  そりゃ小学生から見たら高校生なんておっさんだろうけど。ありがちなパターンだが、実際に言われると地味にショックだ。  女の子と子犬は、公園を走りながらあとにする。両者とも、こっちを振り返らなかった。 「やれやれ。何はともあれよかったかな」 「……もう、行っちゃった?」  絞り出すように水天宮さんが聞いてくる。 「え? まあ、行っちゃったけど」  その瞬間。  水天宮さんの目から涙がぽろぽろと流れ出てくる。笑顔が一気に崩れ、くしゃくしゃに泣きじゃくる。 「よ、よが、よがったよぉ」  あまりの変化に、郁人も固まってしまう。その場にうずくまって大声で泣きじゃくる彼女を前に、どうすればいいかとっさに思いつかない。 「と、とりあえず立とう」  彼女の体を支えながら、ベンチまで移動する。  周囲の目が痛い。みんな露骨に視線を外しているが、明らかにこっちを意識している。小学生なんかは「ちわげんかだ!」と大はしゃぎ。あっち行け。 「ご、ごめ、なさ――うぐ――我慢しようって――思ってだんだ――うわあああ」 「大丈夫だから」  ちょっとためらったが、そっと背中をさすってあげる。  変に我慢させるより、いっそ吐き出させてしまったほうがいいだろう。  彼女の小さい体は小刻みに震えている。  ようやく落ち着いてきたころには、日が沈みかけていた。 「ごめんね。変だよね、ワンちゃんの飼い主見つかっただけで、こんな大泣きして」  郁人は首を振る。 「それだけ真剣に向き合うってことだから。変なんかじゃない。むしろすごいと思う」  本当にそう思う。  けどそれは、それだけ傷つきやすいってことだろう。  まだ濡れている睫毛が夕暮れの色で輝く。  綺麗だ、と思った。  この子のために、何かしてあげたい。  何事にも全力で、すべてを受け止めてしまうこの子を、守ってあげたい。  言葉は自然に口をついた。 「好きだ」  水天宮さんの目が大きく見開かれる。  何かを言おうとしているが、言葉が出てこないようだ。そのうちにどんどん顔が赤くなっていく。 「え? あ……あ、わ、うわ、びっくりした。いきなりどうしたの? わ、わたしだって好きだよ。今回のこと手伝ってくれたし」 「いや、あの、えーっと――」  この時点でかなり後悔していた。できれば「友達として好き」に戻りたいし、戻れるだろう。 「そうじゃないほうの、その……好き、です」 「え……あれですか、その、勘違いだったら笑ってくれていいんだけど、男女としての好きというか、異性交友的な、あれですか?」 「そう、そっちです」  なんでお互い敬語になるんだろう。 「い、いつから? というか、なんで? ほら、ユカちゃんとか美人だし、リンちゃんとかかっこいいし。わたしなんてぱっとしないし、バカだし、たれ目だし」 「いや、水天宮さんだって立派にかわいいと思うよ」 「――――っ」  うつむいてしまう。 「そ、そんなこと男の子に言われたの、初めてだよぅ……」  つぶやきながら、つま先で地面に穴を掘ってる。  そういう仕草もいちいちかわいい。 「俺からすれば、なんで言われたことないかがわからないけど」 「それは、まあ……きっと、わたしがいじめられてたことも関係するんじゃないかな、と」 「いじめ?」  初耳だった。 「あ、そんな大したことじゃないんだ。気にしないで。わたしが悪かったんだし」 「そんな――」 「でも、ごめん。わたしはまだ、そのことを郁人くんに話すことは、正直できない。きっと嫌われると思うし」 「嫌うわけない!」  水天宮さんは笑って首を振った。 「わかってる。郁人くんは、そんなことで人を嫌いになったりしない。わかっては、いるんだ。けど、やっぱり怖いよねぇ」  郁人はうなった。  何のことかはわからないが、それが原因で本当にいじめられたりしたのなら、それを口にするのに抵抗があるのは仕方ない。  嫌われるから言いたくないということは、嫌われたくない相手だから――と、期待してしまってもいいんだろうか。 「じゃあ、無理にとは言わないよ。話せるときがきたら、話してほしい。俺は、いつでもいいから」 「――ありがとう」  水天宮さんは目元をぬぐう。 「わたしは好きとかよくわからないけど、なんだか、うれしいな。これからも、水天宮あかりをよろしくお願いします」  はにかんだ笑顔がまぶしかった。                      2  翌日。  いつもの教室が違って見えた。  気だるかった日常が、活気にあふれえいるように感じる。 「あかり、なんか機嫌いいね。いいことあった?」  教室の反対側で、水天宮さんが他の女子と話をしていた。 「え? 別になんでもないよ!」  と、目が合った。  思わずはにかんでしまう。向こうの恥ずかしそうに視線を外した。 「なんか怪しいなぁ。あ、さてはオトコか」 「ち、チがうよっ!」  声裏返ってるし。  顔真っ赤になってるし。  郁人のほうが冷や冷やしはじめたとき、救いの声があがった。 「さあ、席に着け」  担任の教師が一喝し、生徒たちが席に着く。水天宮さんも友人の追撃から辛くも逃れられた。 「突然だが、転校生を紹介する」  教室内が一瞬静まり返り、そしてどよめきが広がった。 「学期途中の半端な時期だが、家庭の事情だそうだ。変な詮索はしないように。さあ、入れ」  入ってきたのは女生徒だった。  まだ制服ができてないのか、他校の黒いセーラー服だ。腰まである黒髪に、黒いストッキングと徹底した黒尽くめ。この辺りでは有名な文武両道の女子高で、名門校だ。  一方で肌はまぶしいほどの白。あらゆるものを寄せ付けない、凍てつく氷の色。左目の下にオリオンの三連星のように並んだ涙ぼくろが印象的だ。  恐ろしいほどの美人だった。 「じゃあ自己紹介を」 「名は入谷乙女です。今日から二u弱、教室を間借りさせてもらいますのでよろしくお願いします。それ以外は特に干渉しませんので、皆さんも私のことはいないものとして考えてもらってください」  凛とした声で、流れるようにそう言う。  自己紹介ではなく、意思表明だった。  教室内は静まり返る。だんだんと、温度の通わないその言葉の内容を飲み込んでいき、どよめきのようなものが広がった。  つまりそれは、明確な拒絶だ。  担任が慌てて間に入る。 「あ、じゃ、じゃあ、みんなよろしくな。入谷は子安の横に座るように」 「え?」  思わず声が出てしまった。 「え、じゃない。横に机が増えてたの、気づかなかったのか」  気づかなかった。たしかに右隣には昨日まではなかった机があった。  乙女は無言で歩き、その席に着く。  一ミリたりとも無駄な軌道を描かない。隣人である郁人など、ただの目印くらいにしか思っていないようだった。 「じゃあ水天宮。昼休みにでも、案内してやってくれ」 「はい」  水天宮さんも大変だなぁ、ちょっと手伝ってあげられるかな、と思った。  そして、郁人ひとりで乙女を案内することになった。 『うぅ、ごめんね……』  と、涙目になって頭を下げる水天宮さんの姿がまぶたの裏に蘇る。  バイト先の保育園でスタッフの欠員が相次ぎどうしても人手が足りなくなったようで、お昼ご飯の時間だけお願いできないかと連絡があったらしい。学級委員は二人いるが、水天宮さんはひとりしかいない。  四時限目の終了の鐘とともに、みんなが動きだす。仲間どうしで固まって弁当を食べたり、学食や購買へ向かったり。郁人は登校時に惣菜パンなどを買ってきているので必要ないが、今は別の必要性が生じている。  隣で乙女は教科書を机の中に入れていた。  話しかけるな、というオーラを放っているが、彼女をエスコートせねばならない。  昼休みまで三回休み時間がある。最初のうちは物珍しい転校生に周囲が群がっていたが、三回目には誰も寄り付かなくなっていた。  一切無視していたからである。  唯一、最後までがんばっていたのは水天宮さんだった。どんなに無視されても延々と話題を振り続ける姿は、健気というより哀しさすら感じた。  正直関わりたくはなかったが、その水天宮さんの代役となればそうも言ってられない。 「えっと、クラス委員の子安郁人です。本当は女子の水天宮さんが案内するはずだったけど、俺が代理。昼メシ食ってからのほうがいいかな?」  スマホを取り出し、チェックしてる。  無視か。  帰りたい。  けど、水天宮さんならこんなところであきらめたりしない。  彼女の手から、スマホを取り上げる。  少し驚いたように見上げてくる。  ――まつげ長っ  と驚きかけるが、今はこっちに反応したことのほうが大事だ。 「話くらい聞いてくれよ」 「聞いた。だから、あんたも朝の私の言葉を思い出してほしい」  突然の発言。虚を突かれる。  その隙に、スマホを奪い返された。 「……なんだ、しゃべれるんだ」 「無駄なことはしゃべりたくないだけ」 「じゃあ無駄だからみんなのことも無視したってのか」 「どうせ一時的な付き合いなんだから。あいにくと無意味に人と馴れ合う趣味はないの」  つまり、クラスメイトや学校生活全般は無駄だと割り切ってるわけか。個人の主義主張まで立ちいることはしないが、今は話が別だった。 「それでも案内は必要だろ。昼飯だってあるし」 「意味ない。学校の構造なんてどこも大体同じだろうし、すぐ覚える。お弁当だって持ってきて――」  そういいながらカバンを探る。  淡々としていた彼女の表情が、少し歪んだ。 「……いいわ。購買だけ、案内させてあげる」  レーズンパン。  乙女は苦々しく、手にしたそれをにらみつけている。握りつぶさんばかりだ。 「だから言っただろ、急いだほうがいいって」  教室とは別棟にある購買についたところには、他の生徒によって買い尽くされたあとだった。残ったのはレーズンパンと梅お握りだけ。ちなみに併設されてる学食も、多くの生徒がごった返していて座れるスペースが見つからない。 「私、子供と株式投資とレーズンが嫌いなの」 「じゃあ、梅おにぎりか」 「梅干しなんてただの防腐剤じゃない。この飽食の時代に、なにが悲しくて旧態依然とした保存食を食べないといけないのよ。しかも金まで出して」  ひどい言い草だ。 「でもその悲しい事態が起きてるわけじゃないか」 「まったくだわ。信じられない。これだから公立は……」 「いや、弁当忘れたのは公立のせいじゃないと思うけど」  にらまれた。  美人ににらまれるとめちゃくちゃ恐いということを発見した。 「……あんた、ずいぶん言うじゃない」  そういえばそうだ、と初めて自覚する。親しさからの軽口というよりも、なんか上からっぽい彼女への反発だと思うが。 「入谷も、しゃべるときはしゃべるんだな」 「私は必然性に駆られて発してるだけ。このやり場のない怒りをちょうどいいやつにぶつけて発散してるだけよ。ちょうどいいんじゃない、あんた女子としゃべる機会なさそうだし」 「決め付けんなよ。今日だって、えーっと」  マナカちゃん。水天宮さん。こいつ。 「三人と話した」 「なによその突っ込みにくい数字。多いんだか少ないんだかわかんな」  ぐぅぅ、と腹の音が響いた。  腕を組んだまま、乙女が郁人をにらみつける。  ほんのり頬が赤い。 「私の生理現象になんか文句あるの?」 「いや、別にいいんだけど。買うなら買ったら? もう昼休みも半分だし」  ちっ、とひとつ舌打ちをして、塩おにぎりのほうへ向き直る。意を決して手を伸ばそうとしたときだった。 「あー、まだあった!」  ジャージ姿の男子が駆け込んできて、かっさらっていった。 「あっ」 「え?」  そこでようやく、乙女が取りかけていたことに気づいたらしい。 「あ、ごめんなさい。取るとこでした?」 「――っ」  歯を食いしばりながら、きびすを返す。購買を出て行ってしまった。 「あ、すみません。それはいいんで。じゃ」  郁人は一応場をとりなし、乙女のことを追いかける。  乙女はすぐ外のベンチに座っていた。木の下で、心地よい風が吹くこの学校でもトップスリーに入るお弁当スポットである。  弁当そのものを持ってなければどうしようもないが。 「悪気はなかったんだし、無視すんのはよくないだろ。最低限のマナーさえ必要ないのか?」 「うるさい。感情の制御が苦手なのは自覚してる」  面倒臭い言い方だ。もしかしたら人付き合い全般が苦手なのかもしれない。 「食う?」  郁人がコロッケパンを差し出す。  乙女は目を見開いて、パンと郁人を見比べた。  朝のうちにコンビニで自分の昼食として買っておいたものか。昼休みに案内する以上、食事も同行する可能性もあるだろうと思って、カバンごと持ってきていた。 「……いらない」 「腹減ってるんだろ。別に遠慮することない」 「人に借りは作りたくない」  変なことにこだわるやつだ。 「別に借りとか貸しとかないだろ。クラスメイトのよしみというか、持ちつ持たれつというか」 「そういう曖昧な関係、嫌いなの。ああ、そうだ」  乙女は財布を取り出す。おっさんが使うような黒くてごつい長財布だ。そこから一万円札を取り出した。 「これで買い取らせてもらう。釣りはいい、迷惑料込み」 「はぁ?」  うまくいえないが、ひどく腹が立った。無視されたり皮肉られたりしてもイラッとするが、それとは別種のやるせなさ。  一喝する直前に、財布の中がちらりと見えた。かなりの量の札が入っているようだった。女子高生には不釣合いの財布に、その中身。事情はわからないが、彼女の価値観では、これは誠意の表現なのかもしれない。  頭をかきむしって、大きく息を吐く。 「あのなぁ。そういうことすると、怒るやつもいるから気をつけろよ」  笑われた。口の片端をわずかに上げただけの、本当に軽薄な笑みだった。 「知ってる。だからよ。手切れ金込み。これでもう私に関わらないで」  郁人と自分の間に一万円札を置き、コロッケパンをひったくった。  昼休みの遠い喧騒の中、乙女が咀嚼する小さな音だけが広がる。  郁人は、間に置かれた金に手を伸ばすつもりはなかった。向こうは渡したつもりだろうが、こっちは受け取ってはいない。ただ、彼女が望むとおり、もう関わるのはやめようと思う。こんなひねくれた仕打ちまでされて付き合う義理はない。一応、校内の案内もしたといえばした。  席を立とうとしたときだ。  風が吹き、一万円札がめくれあがる。  いらないとは思いつつも、そこはお金だ。つい目の端で追ってしまう。  ベンチの上から飛んでいきそうになった瞬間、その上に携帯電話が落ちてきた。 「わっ」  一世代前の二つ折りタイプのガラケーだ。使い古されたようにあちこちはげている。落ちたショックで開かれて、一万円札の上に乗っかった。  見上げると、木の枝にやたら大きいカラスがいた。今まで気づかなかった。カァとひと鳴きすると、自分の仕事は終わったといわんばかりに飛び立っていく。 「なんだ?」  思わず乙女に目を向けると、向こうもわけがわからないように携帯を凝視していた。コロッケパンはひたすらほおばっているが。 『お初にお目にかかる』  あざといくらいのアニメ声。  携帯画面に、アニメーションが現れた。頭にヤギのような曲がった角が二本生えた、赤髪のメイドの少女だ。 『我は、ムーウアと申す。早速だが、我が主君にして時と天地を司る王が賊の手にかかり逝去いたした。肉体は喪ったがその魂は我とともに――』  ぱたん、と乙女がその携帯を閉じた。  落ちたショックでワンセグ放送にでもつながったのだろう。見たことないアニメだが、あまりおもしろくはなさそうだった。  すると、閉じたはずの携帯がひとりでにまた開く。 『おのれ人間ふぜいが我が言葉を遮るか! ええいっ、結論から言うぞ! 貴様ら二人で我が君を育てるのだ!』 「……え? 俺ら?」 「バカね。セリフに決まってるでしょ」 「いや、まるでこっちに話しかけてるように感じたから」 「妄言は顔だけにして」 『話しかけてるというに! まあそれならそれでよい。男のほうはちょっと頼りなさそうだが、このさい仕方ない。女のほうはこの城の姫君かな。我が界においても見果てぬほどの美貌と風格。我が君も、それを引き継げればよいが』 「え? ちょっと待って、それって……」  明らかにこっちに対してのコメントじゃないのか。するとアニメじゃなくて、通話? 見えてるようだし、テレビ電話? 誰から? 『では、魔王様が遺された最後のお力を持って最大の秘術を体現させる。界境を超え、幽明を超え、時の因果を遡り、この者ふたりの縁を手繰り寄せ、再びここに降誕を!』  閃光と轟音。  携帯が爆発したかのような暴風にさらされながら、思わず頭を覆う。  やがて風と光が治まり、音が戻った。 「な、なにが――」  おそるおそる目を開く。木の下にはベンチがあり、乙女も驚いたような表情を浮かべている。特に風景に変化はない。  ただ、目の前に何かが浮かんでいた。  そう、浮かんでいる。重力に逆らい、そこだけ水の上に漂う浮き輪のように、ぷかぷかとそれが浮かんでいた。  白いタオルにくるまれた赤ちゃんだった。 『取れい』  声。 『早く! 抱っこ! 落ちる!』 「え? あ、こ、これ?」  乙女に目配せする。が、彼女のほうは逆に一歩退いてしまった。 「わっ!」  赤ちゃんに重力が戻り、落下。その直前に、なんとかキャッチした。  赤ん坊を抱っこしたことなんて一度もない。小さいくせに、重く感じる。それだけにすぐこぼれ落ちそうで、どうやって抱えればいいかもわからない。 「ちょ――なにこれ? いや、意味わからん」  意味はわからないが、たしかに生きた赤ちゃんが腕の中にいる。  さっきの爆音で、学食や教室からこちらをうかがっている。 『無事に時空超絶転生の儀が完了した。ふぅ。喜ぶがよい、貴様らの子として、我が君は生まれ変わったのだ』 「え? 俺と、こいつの子?」 『左様。我が君の最後の力を持って、因果を逆転し、二人の子をここに呼び寄せた。まぎれもなく、おぬしらの血を分けた子だ』  よく見るとこの赤ちゃんの左目の下に、乙女と同じ三つのほくろが並んでいる。 「で、魔王?」 「左様。今は無き遥か遠き大地と天空を恐怖で支配した魔王――そのご再誕したお姿である。まこと愛らしいお姿になられたものだ」  感慨深く頷いている。 「人間ふぜいが、おそれおおくもありがたかろう。かしこまりて育てるがよい」 「いやいや、待てって! 因果逆転とか意味わかんないし。だってこいつと俺、ついさっき出会ったばっかりで、子供できるようなことなんて――おい入谷、お前もなんか言えよ!」 「は? 私? なんで?」  予感がした。  自分と関係ないものを見る、完全に冷めた目つき。 「ずいぶん手が込んだ手品ね。いやー、びっくりしたわ。よくわかんないけど。それじゃ、私はこれで」  逃げる気だ。 「いやいやいや、待てって! この子、ほくろ、お前の子だろ?」  乙女は振り返り、笑みを浮かべる。慈しみと哀れみに満ちた、冷たい微笑だ。 「私、処女だから」  郁人は返す言葉を失う。  その一瞬の間隙を縫って、乙女は背を向けてしまう。 「お、俺だって、ど、どどどど、どうて――」  大声で言えるか! 「とにかく待て、行くな! 行かないで! お願いします後生ですから待ってください!」  乙女は一度も振り返らず、校舎の中へと消えていく。  追いかけたかったが、腕の中の赤ちゃんへの抱き加減がわからず、身動き一つできない。  ひとり残され、泣きたくなった。  というか、涙出てきた。 『むむ? なんだ? どうして恋人と子供置いて、どっか行っちゃうのだ?』 「そりゃあ、俺が恋人でもなんでもないからだよ」  放心したまま答える。 『なぬ? こ、恋人でもないのに二人きりで食事を同伴べるとな! なんとふしだらな文化! とんだ未開の世界へ飛んでしまったものだ……』  致命的な勘違いをしている気がするが、それを今は正す気力も出ない。  つい昨日、水天宮さんに告白して、すぐに返答はなかったもののいい感じだったのに。  今日になったら見ず知らずの生意気な女の子供を抱いて、立ちすくんでいる。  夢なら覚めてほしい。  頬をつねりたいけど、両手は赤ちゃんでふさがっているのでそれすらできない。  赤ちゃんはこっちの心情などお構いなしにすやすやと寝ていた。これだけ騒いでも起きないとは、大物である。そういえば魔王が転生したとかどうとか言ってたっけ。それならひとりでも生きていけるかな?  置いていこうか。  そもそも、最初に抱っこしてしまっただけである。逃げたのは乙女も一緒。だったら自分だけ非難されるいわれはない。ここは一応公的機関である学校だし、誰かなんとかしてくれるのではないか。  ――さすがに、それはまずいか。  もし落ちたりしたら大変だ。一応、保健室までは連れて行って、あとは先生に相談しよう。拾ったとかいえばいいか。学校内に赤ちゃんが捨てられてるなんて不自然だが、爆発とともに現れたと説明するよりマシだ。 「ちょっと、休憩いいかな」  慣れないせいか、体がこわばってしまう。起こさないように、そっとベンチに横にした。  その瞬間、身じろぎする。 「うっうっうぅ」  うめき声を上げながら手足を伸ばす。  まずい、と思うが早いか、 「ぎゃーーーーーーー」  泣いた。  身を捩じらせて、全身で泣き叫ぶ。 「ど、どうしよ?」 『あやすのだ!』 「あやすったって――」  いかんせん経験がないのでわからない。とりあえず落ちないようにベンチの横で構えはするが、赤ちゃんの泣き声はますます大きくなっていく。  さすがにことの成り行きを見守っていた周りの人たちもおかしいと気づいたのか、ざわめいているように見える。変に騒ぎが大きくなるのは嫌だったが、この際誰でもいいから助けてほしい。 『そうだ、生贄を十人ばかり捧げるのだ! さすれば魔王様のご機嫌もすぐれよう!』 「アホか!」  そのとき、何かがきしむ音がした。  見上げると、校舎がおかしい。  校舎と空とに一直線の亀裂が入り、そこでズレが生じている。まるで巨大な鏡でもそこに差し込んだかのように。  次の瞬間、ズレが膨張。亀裂の周囲の景色が混ざり合う。  視界が真っ白に染まる。 「――っ」  さっきの赤ちゃんが現れたときの比ではない。 「うっ」  意識が一瞬飛んだような気がする。  赤ん坊の泣き声に引っ張られて、頭を上げる。  パラパラという音。見回すと、辺りは白い煙に覆われて視界が悪い。  そして、校舎が消えていた。  さっき亀裂が走った辺りから上が、消し飛んでいる。  白い煙の中、さっきから落ちてくる破片は、コンクリートの残骸だろうか。 『これは、魔王様の空間断絶魔法! 生まれた直後にしてこの威力とは、さすがである!』  携帯の声が叫ぶ。  これ、あの子がやったのか?  その瞬間、赤ちゃんの泣き声が次なる爆発のカウントダウンに聞こえる。 「くそっ」  無事だったベンチの上から赤ちゃんを抱きかかえる。 「おー、よしよし! ベロベロバー、ベロベロバー」  もてる知識を総動員して、恥と外聞と自己イメージをかなぐり捨て、抱えた赤ちゃんに精一杯のアピールをする。 『でも、転生直後に魔力は持ち得ないと聞いたのだがな……』  赤ちゃんは泣き止まない。  いっそこのままここに捨てて逃げたほうがいいのではないか。次に爆発するのは、一番近くにいる自分かもしれない。  とはいえ、さっきベンチに置いて泣き出した事実。ますますひどいことになるやもしれない。  ベンチの周辺に、さっき爆発したのと同じ空間の揺らぎが出現する。 「ちっくしょう!」  走る。  とにかく学校はまずい。人も多いし。  水天宮さんもいる。  無我夢中に走る。息をしていたかも定かじゃない。  焼け付くような喉の渇きと、吐き気を覚え、ようやく足を緩める。通りがかりのベンチの上に、倒れるように座り込んだ。  公園だった。幸い人気もないし、ここでなら多少爆発してもいくらかはマシかもしれない。 「はあ、はあ、はあ」  荒い息を抑えながら手元の赤ちゃんを見ると、じっと郁人のほうを見つめている。  目が合うと、キャッキャとあげて、笑顔になった。  郁人の胸の中に、暖かい温度が広がる。  今朝、はにかむ水天宮さんと目を合わせたときのような幸福感に似ている。天使の笑顔とはこのことか。  赤ちゃんは郁人の顔に手を伸ばしている。  顔を近づけてあげると、鼻の中に指を突っ込まれた。 「あだだだ」  顔をしかめる郁人を見て、赤ちゃんますますキャッキャキャッキャ。  ――性格、悪っ。  もしかして、最初に笑ったのも汗だくで疲労困憊の姿を見て喜んでたのだろうか。いい性格をしているようだ。魔王の魂とやらのせいか、親が悪いのか。  とにかく泣き止んでくれたのはありがたかった。鼻をさすりながら、そう納得した。  これからどうするべきか。  魔王だとか、自分の子だとかは突拍子過ぎて、いまだに信じられない。ただ、目の前に突然赤ちゃんが現れたのは事実だし、泣き出した途端に爆発も起き、校舎が吹き飛んだ。あれは化学室や生物室など普段生徒がいないはずの特別教室棟だが、けが人とかはいなかっただろうか。 『おいご尊父』  そんな敬ってるんだか見下してるんだかわからない言葉。見ると、手に携帯をつかんだままだった。  小悪魔メイドがぷんぷん怒っているようなアニメーションだ。 『いつまで魔王様を日の下にさらしておくつもりだ。王宮へお連れするのだ!』 「だから、俺やあいつは王族でもなんでもない、一般ピープルなの」 『む。では先ほどまでの堅牢な城はなんだ』 「あれは学校。で、俺はただの学生」 『……え?』  郁人は大きくため息をついた。 「やっぱりただの勘違いかよ。ついでに、その子が俺の子だっていうのも間違いであってほしいんだけど」 『それは間違いなく貴様らの子であるぞ』 「そもそも、あんたは何なんだ? 魔王だとか魔法だとか、意味がわからないんだけど」 『ふむん。では改めて説き明かしてくれる』  携帯の画面が切り替わる。  小悪魔メイドが全身の姿で映し出された。 『我はムーウア。愛しの魔王様の侍女として、日夜お世話をおおせつかっていた』  ムーウアが料理をしたり、洗濯したり、魔王なる黒い影を膝枕したりしていた。 『とはいえ、魔王様は時間と空間を司るお力がおありになったので。おなかが減れば胃の中の時間を巻き戻したり、部屋が散らかれば異空間へゴミを吸い込ませたり、我が毎日してたのは膝枕ばかりだった気がするが。ああ、懐かしい……』 「膝枕すか」 『我の特技は精神に干渉すること。過去も未来も現在も、すべてを手中に収めた魔王様であるが、夢の中ではムーウアが助けることで癒して差し上げた。ところが、平和な日々は終わりを告げました』 「平和だったんだ」 『ええ、平和に人間どもの国を侵略しておった』 「だめじゃん」  魔王だしね。 『現れたのは、勇者を名乗る賊であった。人間ふぜいが万物精霊の加護をえており、屈強なる魔王軍の将軍らを次々と屠っていきおった。特に厄介だったのは光の精霊で、彼奴めは光を超えた速度での斬撃を放つのだ』 「なんだかすごいな」  時空間を支配する魔王もだが、超光速の勇者も。 『戦いは苛烈を極めた。魔王様の空間切断も時間震爆発も無限回廊封鎖も時間凍結牢も、光の速度で突破される。逆に勇者めの光速斬撃も、万華鏡空間や逆行時間交錯で回避。一進一退の攻防が繰り広げられた。魔王様も本気を出し、過去世界へ自ら飛んで勇者の存在発現を妨害したり、時間そのものを未来へ加速し勇者の存在を置き去りにしようともしましたが、これも光の速度で打ち破られた。おのれ勇者、反則すぎだ』 「魔王のほうだってどえらいけどね」 『最終局面、魔王様は自身の全身全霊を込めて、光をも捉える超重力場を完成させた。が、これは空間と時間をも大きく歪ませる超魔法、魔王様自身も最後の賭けであった。これに対し勇者は、光速を超えた光速の一撃で、過去から未来に至る世界存在そのものごと魔王様を打ち滅ぼしてしまったのだ』 「……は?」 『おいたわしや、魔王様。しくしく』 「いやいや。え? 世界滅ぼしたのって、勇者の一撃?」 『いかにも。勇者めは、魔王様と戦う直前にムーウアが仕掛けた精神攻撃によって自我を失っい、無様にも光の力を暴走させておったのだ。くっくっく』 「それって、精神攻撃与えなければ、勇者もそこまでしなかったんじゃ――」  ムーウアの言葉が止まる。 『……とにもかくにも、いまわの際に魔王様から力を預かった我が、異次元の流浪の果てにこの世界へとたどり着き、今に至るわけだな』  無視しやがった。  郁人としてはどちらでもいいのだけど。 「この子、戻すことはできないのか?」 『当たり前だ! 魔王様の力はもう使ったしな』 「そんなこと言ったって、俺だって困る。早くなんとかしないと」 「何をなんとかするんだ?」  男性の声。  驚いて顔を上げると、自転車にまたがった中年の警官がいた。 「なに、学生? こんな時間に何してるの?」 「あ、いや、その――」 「その赤ちゃん、どうしたの? きょうだい? 家はどこ?」  口調こそ穏やかだが、目が笑ってない。こちらを刺激しないように言葉を選んでいるようだ。  郁人は「あの、その」としどろもどろになって、視線も定まらなくなる。ムーウアを見ると、画面いっぱいに電池の絵が点滅してる。  電池切れかよ。  警官は、大きく頷く。 「わかった。とりあえず、交番までこようか」  わかってないよ!  と、さすがに突っ込む言葉を飲み込む。  そのときだった。 「パパぁ!」  後ろから、誰かが首に抱き着いてきた。一瞬呼吸が止まった。  聞き覚えのある声。 「もう、どこ行ってたの? マナカ、探したんだから。そんな格好で赤ちゃん抱いてたら、どう見たって不審者だよ。気をつけてよねっ」  よねっ、とか言われても首が絞められてるので答えられない。  警官も、突然の出現に戸惑ったようだ。 「んむ? 娘さん?」 「うん。ごめんなさい、おまわりさん。うちのパパ、コスプレ好きなの。若く見られるからよく勘違いされるし……妹の散歩に出ただけで、やっぱり捕まってる。いい加減、若いつもりでいるのやめなよ! もう二児のパパなんだから!」 「コスプレってひど――ぎゅっ!」  さらに強く締め付けられる。 「おまわりさん、あとはマナカがちゃーんと、叱っておきますから。逮捕しないであげて」  マナカの本気の猫なで声だった。これで篭絡しないおっさんはいない。 「そうかそうか、わかった。おじちゃん、てっきり誘拐犯か何かかと勘違いしちゃったよ」 「よく間違えられるんだ」  どんなだよ。 「お嬢ちゃんも大変だね。じゃ、お父さん、コスプレもいいけどほどほどにね」  そう言い残して、警官は自転車で公園をあとにした。 「……ふぅ」  その姿が見えなくなったところで、マナカはようやく郁人の首を開放する。  急きこむ郁人に、にっこりとマナカがほほ笑む。 「さあて、事情を聞かせてもらえるかな、パパ?」                     3  家に戻り、郁人はお湯を沸かした。  洗いなおしたカップに、スーパーで買ってきた粉ミルクを入れる。どこか懐かしい香りが広がる。それに、軟水のミネラルウォーターを沸かしたお湯を入れた。水を買ったのなんて初めてだ。  カップの口にラップを巻き、かき回して冷ます。  しばらくそうしていると、居間のほうからマナカの声がした。 「もういいよ」  カップを持って居間に入ると、タオルを敷いた畳の上に赤ちゃんが寝転がっていた。ミルクと同じく買ってきた紙オムツをはいている。すべて、マナカがやったものだ。 「とりあえず、こんなもんかな。ミルクはどう?」 「一応、言われたとおり作ってみたけど」  マナカに渡す。マナカは二の腕にカップを当てて、温度を確かめた。 「うん、大体冷めて来たかな」  買ってきた滅菌ガーゼの封を破り、ミルクに浸す。 「あとでちゃんとした道具、買ってこないとね」  マナカが赤ちゃんを抱っこし、その口元にミルクを含ませたガーゼを当てる。チュパチュパと吸い付いた。かなり力が強く、ガーゼが千切れんばかりだ。 「一時しのぎだけど、とりあえずはこれでご飯は大丈夫かな。できる?」 「え、俺が?」 「そりゃそうだよ。これから誰が世話するの?」  自分なんだろうな、と郁人は短くため息を吐く。 「オムツ替えは私がやるから。女の子だし、パパにされるのも恥ずかしいんじゃないかな」 「女の子だったんだ」  外見では性別の見分けがつかないし、魔王だというからなんとなく男かと思っていた。 「さ、ミルクあげてみて」  マナカに促されて、赤ちゃんを預かる。同じようにやるが、片腕だけで赤ちゃんを支えるのが思いのほか難しい。マナカは、二の腕に赤ちゃんの頭を乗せるようにして細腕一本で難なく抱えてていたが、なかなか難しい。手間取っていると、ミルクが欲しいのか赤ちゃんも身をよじってくる。  マナカが笑う。 「まあ、すぐに慣れるよ」  どうにかミルクをあげる。一生懸命ガーゼを吸っている。吸い尽くしたら、またミルクを含ませての繰り返し。ドロドロになった赤ちゃんの口を、マナカがウェットティッシュでふき取った。 「マナカちゃん、ずいぶん慣れてるんだね」  正直、意外だった。  小悪魔的に人をおちょくってくる彼女が、実は子供の世話をできるなんて。 「お母さんがやるの、よく見てたから」  そういう彼女の表情がちょっと曇った気がした。それも一瞬で、すぐに笑顔が戻る。 「さすがにガーゼでミルクはあげなかったけどね」 「そりゃそうだけど」  逆にいえば応用でやったということだ。ちゃんとタオルを巻いて肌着代わりにしてるし、股に巻いてオムツにもしていた。 「魔王って言っても、普通の赤ちゃんみたいだね」 「あ、ああ」  歯切れの悪い返答に、マナカが首をかしげる。 「どうしたの?」 「いや、さっきの説明、本当に信じてくれたんだなって」 「転校生を案内していたら携帯電話の悪魔が現れて勝手に魔王の魂を宿した自分の赤ちゃんを出現させられた――だよね? 違うの?」 「その通りだけど」 「ならいいじゃん。変なパパだねー」  そういって、赤ちゃんのほっぺを突っついた。  最近はゲームの影響か、人は死んでも生き返ると思っている子供が多いと聞いたことがある。信じてくれるのはありがたいが、マナカの現実感がちょっと心配になった。 「しかし、そのパパっていうの、やめてくれないかな……」 「なんで? だってこの子からしたら、パパなのは間違いないんでしょ?」 「でも別にマナカちゃんのパパでは――」  言いかけて、マナカの表情に気づいた。  潤んだ目でどこか遠くを見ている。ただただ寂しそうに。と、郁人の視線に気づいて、必死に笑顔を作った。「なに、パパ?」  たしか彼女の両親は外国で暮らしているのだ。おじいさんである本当の大家さんと一緒に暮らしているが、寂しかったのかもしれない。  これで少しでも寂しさが和らぐなら、別に構わないと思った。  あらかたミルクを上げ終わると、赤ちゃんは寝息を立て始めた。 「布団しこうか?」 「ううん、柔らかい布団だとうつぶせになって窒息するかもしれないから、タオル敷いたくらいのがいいと思うよ」  言われた通り、タオルを何重かにして畳に敷く。その上に赤ちゃんを乗せる。特に起きることもなく、ちゃんと寝てくれた。 「ふぅ」  ようやく一息つけた。やたら肩が凝った気がする。 「私、買い物行ってくるよ」 「え?」  にやっとマナカが笑う。 「さみしいの? パパったら、甘えん坊」 「ち、違う。ただ、ちょっと不安というか。買い物なら俺が行ってもいいし」 「一、二時間は寝てると思うよ。それにパパがいないと、その子また泣いちゃうかもしれないし。この家、壊さないでほしいんだけど」 「それはそうなんだけど」  やむをえないか。 「じゃあ、お願いするよ」 「うん。じゃ」  手を差し出してくる。 「お金」  願いだからそういうことを天使のような微笑みで言うのはやめてほしいと思う。  郁人は財布を見る。仕送りだけで生活しているが、なるべく節約しているのである程度のたくわえはある。財布の中に一万ちょいと、口座には二十万円はあっただろう。  どれだけあれば足りるか考えていたら、マナカが財布ごとつまみあげた。 「ちゃんとレシートもらってくるから大丈夫だよ」  何も大丈夫じゃない。  止める間もなく、マナカは家を出て行ってしまった。 「……うーん」  いろいろ腑に落ちない点も多いが、現実としてここに赤ちゃんがいるわけだからしょうがないか。現金も一万円しか入ってないし。  それより、今後のことだ。  すやすやと寝息を立てる赤ちゃんを見る。  自分が育てられるわけもないし、義理もない。仮に異世界の魔法によって作られた自分の子だとしても。  こういうときは児童養護施設に預ければいいんだろうか。電話帳を見れば、連絡先くらいはわかるだろう。  だが、魔法のことがある。泣くと破壊魔法を発動するのは、学校で目撃した。そんな爆弾みたいな子を無責任に預けてしまっていいものだろうか。一応、郁人が抱いているときは発動しなかった。たまたまかもしれないが、仮にそうだとしたら、郁人が育てるほかないことになる。 「うーん」  思考が堂々巡りだ。  そんな風に悩んでいたら、一時間くらい経ってしまった。 「マナカちゃん、まだかな」  そもそもどこまで買いに行ったのだろう。今まで意識したことがないので、赤ちゃん用品がどこで売っているかもいまいちわからない。  と、チャイムが鳴った。 「帰ってきた」  郁人は玄関に駆け寄り、鍵を開く。 「わっ」  立っていたのは、水天宮さんだった。 「こ、こんにちは。えっと、カバン持ってきたんだけど、大丈夫?」 「え? あ、ああ」  そういえば、学校から無断で帰宅した形になっている。心配してきてくれたのだろう。 「郁人くん、どうしたの? 昼に爆発音がしたって話もあったし。何かあったのかなって」 「ああ、別に大丈夫。むしろ爆発した校舎のほうが気になるけど」 「え? 校舎?」  水天宮さんは首をかしげる。 「爆発したような音がしてすごい煙が出たけど、何か壊れたって話は別に聞かなかったよ」  壊れていない?  だが、郁人はその目で見た。爆発し、四散した校舎を。そもそも大量の煙は、校舎のコンクリートを吹き飛ばしてできたものではないか。  一体どういうことか、考えようとした時―― 「ぎゃあああああ!」  この世の終わりのような声が、居間のほうからした。 「うげ」 「え? 何の声?」 「ちょ、ちょっと待ってて!」  居間に駆け戻ると、赤ちゃんが体を突っ張るようにして泣いていた。 「おおっ、ごめんよ。ええっと、どうすれば」  とりあえず抱きかかえるが、完全に火がついてしまって泣き止む気配がない。腕の中でのけぞって、落とさないようにするのが手一杯だ。 「郁人くんどうし――あれ、赤ちゃん?」  あらあら、と水天宮さんが近づいてくる。 「いや、あの、危な――」 「抱っこしてもいい?」 「え、あ、うん」  水天宮さんは赤ちゃんを受け取る。 「おー、よしよし。どうしたどうした? オムツかな、ご飯かな?」  手馴れた様子で赤ちゃんを抱きかかえ、笑顔でオムツを覗き込む。  女の子は赤ちゃんを前にするとなんて無防備な表情になるのだろう。  水天宮さんの表情に一瞬和みかけるが、この赤ちゃんは普通とは違う。いつ暴発するかわからないのだ。  赤ちゃんがこちらに向かって小さな手を伸ばす。こちらも手を伸ばすと、人差し指を掴まれ、そのまましゃぶられた。  と思っていたら、泣き声が治まっておき、そのまま眠ってしまった。 「さみしかったのかな。郁人くんに甘えてるんだね」 「そ、そうかな?」  そのまま赤ちゃんをタオルの上におろす。 「この子、どうしたの?」  寝てる赤ちゃんを気遣ってか、ささやき声で水天宮さんが聞いてくる。 「えっと……急に親戚の子を預かることになっちゃって――」 「そうなんだ。あ、それで今日は帰っちゃったのかな」 「まあ、そんなとこ」  いくらなんでもこんな生まれたての赤ちゃんをただの男子高校生に預ける親戚などいるだろうか、と思うが、水天宮さんはあっさり信じた。しかたないとはいえ、彼女に嘘をつくのに罪悪感を覚えた。 「名前はなんていうの?」 「え?」 「この子の名前」  まったく予期していなかった。魔王で、女の子で――。 「ま、まお、かな?」 「マオちゃんか。かわいい名前だね」  安直過ぎて申し訳ない、と赤ちゃん改めマオに心の中で謝った。 「あれ、この子もうホクロがあるね。目の下に三つも。珍しい。そういえば転校生の子も、この辺にホクロあったよね」 「そ、そうだっけ? 別にホクロくらい誰でもあるよ!」  冷や汗が止まらない。 「郁人くん、一人でこの子、面倒見るの?」 「一応、そのつもりだけど……」 「うーん」  水天宮さんは腕を組んで考えた。 「どういう事情で預かることになったのかはわからないけど、正直、難しいと思うよ。普通のお母さんだってひとりで育てるのは大変だし。学校はどうするの? 昼間だけ見てくれる人とか、どこか保育園とか決めてる?」  郁人は首を振る。  決めているわけがない。 「うちの保育園でいいなら、とりあえず空きはあるけど――」 「ちょっと考えさせて」  そもそも、安易に預けてしまえるのなら、そもそも自分の手元に置いておこうとは思わない。 「それに、相談してくれればよかったのに。そりゃあ、子育て経験者には負けるけど、お手伝いくらいはできるよ」 「ありがとう」  いい子だよな。心の底からそう思う。 「――あと、昨日のことだけど」  目線をそらしながら、水天宮さんが言ってきた。 「ちゃんと返答しないといけないと思って」 「え?」  話せないことがあり、それを話せるように決意できるまで待つ、ということだった。 「水天宮さんのこと、話してくれるの」  頷く。 「私、今日の昼休みに学校であった爆発のこと、知ってると思う」  心臓が跳ねる、ということが本当にあるんだと初めて知った。 「何を言ってるかよくわからないかもしれないけど、あれ、魔力の爆発だと思う」 「ま、魔力?」  うつむいた水天宮さんの顔は真っ赤だ。 「へ、変だとか、気のせいだとか、中二病とか思われるかもしれないけど、わ、わたし、生まれる前は別の世界で、そ、その――勇者、やってたんだ」  言葉が出ない。  水天宮さんは一気にまくし立てる。 「魔王が世界を侵略してて、それをやっつけるために魔王城に乗り込んだの。わたしは光の精霊の力を借りてるから光の速さで動けて。途中からの記憶はないんだけど、きっとわたしはやられるか相討ちかしちゃって、この世界に生まれ変わったんだと思う」  そうじゃない。勇者は魔王の元に向かう前に側近の精神攻撃を食らって暴走し、魔王ごと世界を滅ぼしてしまった。 「昨日の爆発、その魔王と同じ力を感じたの。もしかしたら、魔王もこの世界に生まれ変わって、なにかをやろうとしてるのかもしれない。だとしたら郁人くんも危ない目に遭うかもしれないし、信じてもらえないかもしれないけど、話しておいたほうがいいと思って――」  目をぎゅっと閉じながら、告白する。  その手は震えて、目尻からは涙がこぼれている。 「ご、ごめんね、変な話して。こんなマンガみたいな話、信じられるわけないよね。でも、ちょっとだけでもいいから気をつけて――」 「信じるよ」 「……え?」  こぼれ落ちそうなほど、水天宮さんの目が見開かれる。濡れたまつげが光を帯びて、キラキラしている。 「今の話。水天宮さんは前世は勇者で、魔王と戦って、そして今魔王がこの世界のどこかにいる」 「――っ」  くしゃ、っと水天宮さんの表情が崩れる。  あとはただ泣いた。  迷い犬を届けた時よりもさらに激しく。 「――ごめん――ありがとう――」  そのふたつの言葉だけを、むせび泣く合間に漏らすようにつぶやいた。  郁人は彼女の肩をそっと抱きながら考える。  自分は、この魔王のことがなければ、今の話を信じられただろうか。  告白する姿は真剣そのもので、嘘など微塵も入り込む余地はない。  だからこそ、「彼女はそう信じ込んでしまっているんだ」と思っていたかもしれない。そういうパラノイアという精神疾患があると聞いたことがある。  だが、今は素直に信じることができる。むしろ、腑に落ちる思いがあった。目の前でいろいろなことを見たけど、どうしても認めることができなかったが、水天宮さんの決意を目の当たりにして、ようやく全部信じることができた。  この騒ぎでも動じることなく寝ているこの子は、魔王で、泣き声で魔法を発動してしまう。自分の子供だというのは、よくわからないけど。 「……ありがとう、もう、大丈夫」  ようやく落ち着いた水天宮さんは、赤くなった目をこする。 「なんかわたし、泣いてばかりだね。恥ずかしい」 「泣きたいときは泣いたほうがいいよ」 「郁人くん、優しいね」  そういわれると、胸の辺りがこそばゆく感じる。 「……ところで、その魔王っていうのは、出会ったらすぐわかるもの?」 「わたしも出会ったことがないからよくわからないけど、そういうのじゃないと思う。魔法の力を使ったときにはわかるけど、それ以外じゃ、目の前にいてもわからないと思うよ」  特に意味はないんだろうが、マオの頭を撫でながら、水天宮さんはそういった。  一応、魔王がここにいることはばれていないようだ。  だけど、話したほうがいいだろう。  勇者だったころの記憶があるのなら、何か解決策があるかもしれない。  そう声をかけようとしたとき、水天宮さんが「えへへ」と笑いをこぼした。 「どうしたの?」 「ううん、本当に信じてくれてるんだなって思って」  ぎゅっと、手を握ってくる。  彼女の手は光そのもののように暖かい。 「なんだか、わたし今、無敵だよ。きっと何がきても負けない」 「え?」 「ぜったいに郁人くんのこと、守るから。魔王でもなんでも、やっつけちゃうよ」  笑顔でガッツポーズをとる。 「うん? どうしたの?」 「……あ、いや。なんでもない。ありがとう」  言えない。  この子が魔王だ、なんて。  そりゃ、いきなり攻撃を加えたりとかはしないとは思う。それでも敵対することが宿命であるなら、何かあってもおかしくない。もうちょっと様子を見てみよう。 「ただいまーって、あれれ、お邪魔だった?」  マナカが廊下から顔を覗かせていた。  水天宮さんが、慌てて郁人と距離をとる。なぜかスカートを正し、正座。 「えっと、この子は……」 「この家の管理人さん。赤ちゃんのこと話したら、手伝ってくれるんだ」  郁人のほうも、驚きを抑えながらどうにか話した。いつから聞いていたんだろう。  見事な笑顔でマナカは会釈する。 「マナカって言います。ところで――」  おもむろに、水天宮さんの胸をわしづかみした。  あまりに堂々とした、かつ無駄のない動きのため、水天宮さんも動けない。 「え? ええっ!」 「おーっ、二〇代のふくよかさもいいけど、一〇代のハリのあるおっぱいもたまりませんなぁ」  オヤジ臭いことをいいながら、指をわしわし。服の上からでも胸にやわらかく指が食い込むのが見える。 「ちょ――や――あぅぅ」  こねるように胸の形をいじるマナカを、水天宮さんは振り払おうとする。だが腕に力が入らない様子で、変な声出してしまっている。  郁人が我に返った。 「ま、マナカちゃん、いい加減に――」 「ふふっ。止めるの、ずいぶん遅かったね?」  触る時と同じく、マナカは流れるような動きで水天宮さんから離れる。  水天宮さんは胸元を押さえて、部屋の隅に退いた。子犬のように震えているが、なぜか息が荒い。 「ごめんさない。でも子供がやったことだから許してあげて」  そういって舌を出して笑いかけるマナカ。自分でよく言う。  水天宮さんも息を吐いた。 「たしかに保育園でもよく触られるけど……くすぐったいからやめてほしい」 「触られるんだ……」  つい声に出してしまった。 「ひとり気に入られちゃって。よくお胸触られたり、スカートめくられたり、チューされそうになったり」 「ちゅう!」  つい大声を出してしまった。  マナカが笑う。 「ヤキモチだ」 「そ、そんなんじゃ――」 「もちろん、ほっぺだよ」 「わかってるよ」  と言いつつ、少しほっとした自分が哀しい。  マナカが廊下から買い物袋を持ってくる。ずいぶん買い込んだものだ。 「重くなかった?」 「大きいのは送ったし、帰りはタクシーだから。はい、レシート」  さらりと言われて、郁人の背筋に冷や汗が伝う。タクシーなんて、郁人も乗ったことないのに。ただ、財布の中の現金はもうあきらめているので、冷静を装う。 「……いや、別にいいけど。でもよく足りたね」  レシートを確認すると、妙なことに気づく。  紙オムツ、お尻拭き、お口拭き、粉ミルク、哺乳瓶、哺乳瓶の洗浄器、ブラシ、吸い口、ガラガラ、肌着数枚、よだれかけ数枚、パジャマ数着、服数着、靴下、手袋、ガーゼ数枚、タオル数枚、赤ちゃん用浴槽、液体石鹸、保湿クリーム、ベビー用布団、ベビーカー、抱っこヒモ、体温計、爪きり、桐箱、スポイト、ハブリーズ、携帯の充電器……ミンテンドーDSとソフト?  なぜゲーム?  いや、それよりも、トータルの会計額が八万円を超えてる。 「え。お金、どうしたの?」 「貯金下ろした」 「……は?」 「一月二六日」 「なんで俺の誕生日知ってるんだよ!」 「管理人さんだから」  そういえば入居のとき、必要書類に生年月日も書いたような書いてなかったような。 「むしろ暗証番号を誕生日にするなんて、危機意識低すぎだと思うよ? 気をつけないと泥棒されちゃうから」 「まさにこのことだよね?」 「えー。財布ごと渡したくせにぐだぐだ言い訳? 男らしくないなぁ。ねぇ?」 「え? うーん、でも必要なものだから、しょうがないかもね」  水天宮さんが苦笑する。  たしかに、よくよく考えればほとんどは必要なものだ。改めて赤ちゃんってお金がかかる。 「でも、物は買えても、人手は買えないから。よかったよ、ママがお手伝いに来てくれて。やっぱりパパだけじゃ頼りないもん」 「いや、この人はママじゃなくて――」  言いかけて、郁人は固まる。  待て。  何を言ってる? 「うん、どうしたの? 入谷乙女さんだよね?」 「――マオちゃんのママ、入谷さんなの?」  水天宮さんはマオの顔を、そして郁人の顔を見る。  郁人がどんな顔をしていたか、自分ではわからない。  水天宮さんのきょとんとした表情が、こわばり、震える。 「――そんな」 「いや、あの――」  言葉が続かない。  なんと説明すればいいんだ。ついさっき、魔王のことは黙っていなければ、と思った矢先なのに。  あは、と。  水天宮さんが笑った。  一発でわかる、精一杯の作り笑顔。  細めた目から、さっきとは違う涙がぽろぽろと出てくる。 「なんか、ごめんね。わたし、勘違いしてたみたい」  顔を伏せながら立ち上がる。 「ち、ちが――」 「ほんと、ばかだよね、わたし」 「待って――」  水天宮さんの体が黄金色にほのかに光り始める。淡く、柔らかな光。彼女がわずかにつま先で床を蹴った瞬間――  瞬く閃光。  水天宮さんの姿が消え去った。あとには、お日様のにおいがするそよ風だけが残る。  止めようとして伸ばした郁人の手は光の残像を掴む。その手の甲に、水滴がふた粒落ちた。 「……消えちゃった」  ぽつりと、マナカがつぶやいた。 「彼女、勇者の生まれ変わりなんだって」 「あ。パパの話に出てきた勇者? じゃあこの子が魔王だってこと、ばれちゃったの?」 「いや」  それならまだよかったかもしれない。  手のひらの水滴を見つめながら、郁人はため息をつく。 「なんか、ごめん。私のせい、だよね?」 「……気にしないでくれ。うん、ああ、ちょっとこの子のこと、見ててもらってもいいかな」  そういって居間をあとにする。  階段を一段ごとにため息で登り、寝室へ。敷きっ放しだった布団に大の字に倒れこむ。  魔王。  それが世界を滅ぼす存在だとすれば、間違いなく郁人の世界は打ち砕かれた。                     *  ムーウアが再起動する。 『ふわぁ――よく寝たわい。新しい体は、なかなか勝手がわからんぞ』 「おはよう」  ころころと鞠のような声。  ムーウアは、初めて自分が見知らぬ誰かに持たれていることを意識した。体に差し込まれた器具――携帯用充電器――から活力が注がれている。その声の持ち主が取り付け、ムーウアを起こしたのか。 『誰だ!』 「今はマナカ。あなたはムーウアちゃんでいいかな? 魔族、ってやつなんだよね」 『人間ごときが、気安く我が名を呼ぶでない!』 「ふうん、そういう態度取るんだ?」  マナカはポケットから液体で満たされたスポイトを取り出す。その口先を、携帯のマイク部分に向ける。 『な、何をする』 「教えてあげようかなって。魔族ごときが気安く口を取っていいかどうか」  ぽたり、と雫が一滴、マイク部分に垂れる。 『ぎゃああああああ!』  パンパン、と携帯の中でスパークする音とともに、絶叫が響き渡った。 「あはは。思ったより効くなぁ。予想以上だよ」 『ば、ばかな、この世界に第一種純度の聖水があるなどと……』 「ただのハブリーズだけど。ま、とにかく。あなたにとっては、私に協力するか死ぬかの、どっちかなんだから」 『なら殺せ! 人間に尻尾を振ってまで生きながらえたく――』  ムーウアの言葉が止まる。  まじまじと、マナカの顔を――その根本から流れ出る力を見つめた。 『まさか――いや、そんな――』  マナカは子供らしいあどけない笑顔を浮かべる。 「ちょっと、あなたにお願いがあるんだ」                     4  次の日は土曜日である。  休日。  その早朝、郁人はマオを抱えて住宅街の電柱の陰に身を潜めていた。早速、昨日買ってきた抱っこヒモを使っている。スリングタイプで横抱きのまま下げられるので、首が据わっていないマオでも大丈夫である。 「本当にあそこが入谷の家なのか?」 「ん。不動産業界の力をナメないでよね」  コンビニで買ってきたあんぱんをかじりながら、マナカが言う。昨日は一度帰ったようだが、今朝も早くから来てくれた。  一方の郁人は目が赤い。原因はいろいろだが、寝不足であることも要因の一つ。マオが二、三時間ごとに泣いて対応を迫られるため、ろくに眠れていない。 「なんで俺ばっかりこんな目に――」  一言、言ってやらなければ気がすまない。  あわよくばそのまま押し付けたい。  と、音楽が聞こえる。クラシックに疎い郁人でもわかる。これはシューベルトの『魔王』だろう。  ポケットから取り出す。自分のスマホではなく、古ぼけた二つ折り携帯だ。 『こらご尊父! 魔王様への敬意が足りぬぞ!』  メイド悪魔が怒っていた。 「なあ、お前って携帯閉じてても周りの状況わかるの?」 『だんだんとこの体の使い方がわかってきたぞ。カメラを使って周囲も見れるし、スピーカーホンにすれば周りの音も聞こえる。バイブを調整すれば多少なら動――』  電源を切った。  しばらく様子を見たが、勝手に起動することはなかった。いつの間にか充電されてたときは驚いたが、機能は携帯に依存するようで、電源さえ切ってしまえば静かなものだ。 「ねえ、パパ」  マナカが見上げてくる。いつもの笑顔でなく、どことなく神妙な顔つき。 「この子が邪魔なの?」  その言葉が胸に刺さる。 「邪魔というか――俺が預かることになったのは事故みたいなものだし。それを元の状態に戻したいというか」 「ふーん」  あんぱんを詰め込み、牛乳で流し込むと、マナカは電柱の陰から歩き出した。 「え? マナカちゃん」  まっすぐ、さっきまで見つめていた家に向かっていく。 「ちょ――」  止める間もなく、チャイムを押していた。 「なにしてんの!」 「パパ、男らしくないんだもん」 「もんとかかわいく言ってもダメ! って、早く逃げなきゃ」  ピンポンダッシュ状態だが、やむをえまい。  と、表札が目に入った。  『雑司ヶ谷』。  入谷じゃないの? 「はい、どちらさま?」  玄関が開いた。表札に意識をとらわれ、スタートが遅れてしまった。  出てきたのは、若い女性だった。 「すみません、間違――」 「入谷乙女さん、いますか?」  郁人の言葉をさえぎりマナカがいきなり核心に踏み込む。  と、女性の顔がぱっと華やいだ。 「あら? 乙女のお友達? やだぁ、あの子ってばもう友達できたの!」  子供みたいに声をはずませてる。  乙女の家だというのは間違いないらしい。乙女とはだいぶ印象が違うが、お姉さんだろうか。この人も綺麗だが、あまり似ていない。 「あの子、ジョギングに行って今はいないの。もうそろそろ帰ってくると思うんだけど」 「あ。じゃあ出直してきま――」 「あぶー」  マオが目を覚ました。 「やだーっ」  お姉さんが玄関から飛び出してくる。  郁人が抱いてるマオに食いついてくる。 「なになにこの子、かわいい! 抱っこしていい?」 「え? まあ、いいですけど……」  スリングからマオを抜き取り、抱える。 「やーん、かわいい! 乙女が赤ちゃんだった頃を思い出すわぁ。この子、美人になるわよ!」 「あ、ありがとう、ございます」 「ほんと、見れば見るほど乙女のときと同じ――ていうか、似すぎ? ん? このホクロ……」  お姉さんの表情が、怪訝なものに変わっていく。 「つぐみさん!」  鋭い声が響いた。  振り返ると、長い髪をポニーテールにした乙女が立っていた。Tシャツにスパッツと、かなり本気で走るスタイルで、顔がやや上気している。 「あら乙女。よかった帰ってきて。お友達がお見えよ」  きっと、郁人をにらみつける。  相変わらずおっかない。けど、歯をかみ締めてにらみ返す。今日は引くわけにはいかない。  乙女は舌打ちし、視線をお姉さんに向けた。 「友達でもなんでもありません。余計なことしゃべらないでください」 「まだ何も話してないわ」  乙女は言葉こそ敬語だが、言い方はきつい。それでもこのお姉さんは、やんわりと受け流している。  乙女は荒いため息を吐き、きびすを返した。 「……場所を変えましょう」 「あ、ああ」  郁人の返事を待たず、進んで行ってしまう。慌ててつぐみさんに向き直り、マオを返してもらおうとする。  受け取る瞬間、つぐみさんにぎゅっと手を握られた。 「乙女のこと、嫌いにならないであげてね。本当は、いい子だから」  なんと答えればいいのか。言葉を選んでいると、視線がマオに移る。 「じゃあ、あなたもバイバイね」  ほっぺを突かれ、マオもくすぐったそうに身をよじる。 「行っちゃうよ?」  マナカにせかされ、会釈だけしてつぐみさんの元から離れる。  何度か振り返るが、その姿が見えなくなるまで、ずっと彼女は見送り続けていた。  乙女についていった先は公園だった。  川辺の広い公園で、まばらにしか人がいない。  乙女は水道に向かい、上向きの蛇口を開ける。垂れ下がる後れ毛をかきあげなら、吹き出す流水を口に含んだ。  唇の動きと白いうなじに思わず目をやってしまう。 「ママ、きれいだね」  マナカがにやにやしている。  否定したい気持ちはあるが、しぶしぶ頷く。 「まあ、顔はな。マナカちゃんも、脚さすったりすんなよ。水天宮さんと違って、蹴られるぞ、マジで」 「……しないよ」  小さく答える。  なんだろう。  今日は妙にかわいらしい――もとい、元気がないように見える。 「で、なんなの? というか、なんで私の家知ってるのよ」 「不動産業界の力」 「はぁ?」  何もしてないのに蹴られそうな剣幕。当たり前だが、いきなり押しかけてきて怒ってらっしゃる。ちょっと話をそらそう。 「ところで、さっきの人ってお姉さん?」 「なんでそんなこと、あんたに言わないといけないのよ」 「別にただの世間話だろ。ああ、あれだ。昼飯お前におごったこともあったっけ。一万円出されたけど、結局受け取らないままどっか飛んでっいったし。これ、貸しを返してもらったことにはなってないよな」 「……むぅ」  腕を組んだまま唇をかみ締める。乙女を悔しがらせたことに、妙な達成感があった。 「あの人はただの保護者。社会的便宜性と生活基盤の確保に寄与してもらってるだけよ」 「でも、お前のこと赤ちゃんのときから知ってるようだったし」 「そのころから同じ関係なだけよ」  さすがにそれ以上踏み込んで質問するのは、一万円の域を脱している気がする。 「そっちこそ、その子は何よ?」 「うちの借家の管理人さん」  郁人の体に隠れるようにしながら、会釈する。憧れのアイドルに出会ったけど緊張しっぱなしでまともに話せないファンみたいになってる。  乙女が肩をすくめて笑う。 「いつの間に姉まで増えたのかなって思った」 「冗談言ってる場合じゃない。こっちの子は本当にお前の子でもあるんだから、協力してくれないと困る」  マオをスリングから腕に抱きなおし、乙女に見せる。  伸ばしてくるマオの手を、乙女は顔を歪ませて振り払う。 「証拠は?」 「顔だって似てるし、ホクロなんかそのまんまだろ」 「そんなの証拠にならない。赤ん坊の顔なんてサルにだって似てるわよ。ホクロだって、たしかに同じ場所にあるのは認めるけど、だからなに? DNA鑑定くらい持ってきてほしいもんだわ」 「たぶん、やれば合致するぞ」 「あれって安くても三十万くらいするのよね。あるの? 私は出さないわよ」  「だけどな」と言いかけて、マオが不機嫌そうに身をよじった。つい声が大きくなってしまう。抱かれてるほうとしては迷惑だろう。 「私が見るよ」 「ああ、ありがとう」  マナカにマオを渡す。 「水天宮さんが、勇者だったんだ。彼女に知られたら、どうなるかわからない。だからこれからのことをお前と話し合ってだな」 「いいじゃない勇者なら。倒してもらえば?」 「真面目に答えろよ!」  ふん、と乙女は鼻で笑う。  ベンチに腰掛け、鷹揚に足を組んだ。 「答えてもらってるだけありがたいと思えない? 魔王だ勇者だ私の子だ――バカバカしい。昼食分の貸しだけでも、十分対応したほうだと思うんだけど」 「でも、お前だって見ただろ。目の前で赤ちゃん現れて、そのあと爆発して」 「爆発は音だけしか聞いてない。その子が現れたのだって、手品で再現できる部類の話よ」 「そうかもしれないけどな」 「逆に、その子はあんたがどこかで仕込んだ子じゃないってどうして言えるの? 私から見たら、自分の子を適当な相手に押し付けようとしてると見たほうが、まだ現実的に感じるけど」  たしかに、そうかもしれない。  郁人は爆発を目にしているし、水天宮さんの話も信じている。だから魔王の存在も認められるが、そうでない人間からすればとても信じられないだろう。 「セオリー通り、児童養護施設にでも置いてくることを薦めるわ」 「信じてくれないだろうけど、この子は泣くと魔法を出すことがある。学校の爆発はそういうことだ。安易には預けられない」 「まあ、そういう想定だとするなら」  と前置きし、乙女は考える。 「やっぱり勇者に話すしかないわね。もしくは、あんたが勇者になるか」 「俺が? どういうことだ」 「殺すのよ」  さすがに、郁人もすぐには返答できなかった。いや、返事を考えることすらしたくなかった。 「でも、有効な手段ではあるはず。泣いて魔法が出るのなら、泣く前に処理すればいいし、体が人間並みの強度なら方法に問題はない。あとは死体の処置だけど……まあ、そこから先はファンタジー設定は必要ないわね。ミステリ小説でも参考にすればいいわ」 「……無理だろ、そんなの」 「そう。なら育てれば? 私は、生かすよりは殺すほうが楽だと思うけど、あとはご自由に」  ベンチから立ち上がる。  それが別れの挨拶のつもりだったのか、背を向けて離れていこうとする。 「待てよ! 話は終わってないだろ!」 「終わった。与太話だと承知の上で助言までしたのに、まだ不満? これ以上は本当に金とるわよ」  背中越しに言われ、ついカッとなる。 「待てって!」  肩につかみかかったつもりだった。  手が肩に触れた瞬間、乙女が手をいなす方向に身を翻す。掴む対象を失った郁人の手に添えるように置き、体重をかけられた。一気に体勢を崩し、倒れかけた先に乙女の腕が入る。  一転。  気づいたら、地面に倒れていた。  げほ、と圧迫された息が咳となって吐き出される。  咳き込みながら、初めて、自分が投げられたことに気づいた。 「いやー、危なかったわね。ちゃんと掴んでたら暴行の現行犯になってたところよ。子供の将来考えたら、前科者はよくないわね」  乾いた笑いだけ残し、乙女は振り返ろうともしない。  そのときだ。 「ぎゃああああ!」  悲鳴にも似た泣き声が、公園中に響き渡った。  マナカが青ざめた顔をしている。その腕の中で、マオがけたたましく泣いていた。  止めないと。  そう思う一方で、体がうまく動かない。  いや、動こうと思えなかった。  変な赤ちゃん押し付けられて、水天宮さんには誤解され、乙女には散々罵倒された挙句に投げ飛ばされて、もう何もかもどうでもいい。なんか起こったなら、こいつも巻き込まれてみればいい。 「……なによコイツら」  緊張をはらんだ乙女の声に、目を向ける。  後ずさる彼女の前に、三体の骸骨がいた。  理科室にある人間の骨格標本のようだった。だが、色は黄味がかった白色で、両手にはそれぞれ刃こぼれした剣とひび割れた盾を持っていた。  ゲームで初期の洞窟に出てくる骸骨戦士そのものだ。  カラカラと乾いた音を立てながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。  ――やばい。  意識がハッキリする。  まだふらつく体を起こし、周囲を確認した。  空中が陽炎のように揺らぎ、骸骨戦士が現れる。またたく間に、囲まれていく。  爆発じゃない。これは、召喚魔法か。  時空間を操る、とムーウアは言っていた。たしかに召喚魔法は時空操作である。 「マナカちゃん、その子貸して」  言いながら、奪い取るようにマオを抱きかかえる。 「おぉ、よしよし――ぐえ!」  蹴られた。  落とさないように抱えるのがやっとで、泣き止ませるどころじゃない。 「ま、マナカちゃんだけでも逃げて!」 「――無理っ」  腰を抜かしたのか、マナカは地面に膝をついて、郁人の足にしがみつく。そうでもしないと倒れてしまいそうだ。  乙女はどこだ。 「なっ」  いつの間にか、骸骨の包囲網を抜けて、公園の外にいた。こちらに背を向け、わき目も振らずどんどん離れていく。 「あの野郎……」  その間にも骸骨はどんどん数を増やしていく。もう二十以上はいる。  郁人はムーウアの電源を入れた。 『――けるし、天気予報も……って、あれ? ああっ、電源を切りおったな!』 「るさい! それどころじゃない! これ見ろ」  ムーウアのカメラを骸骨たちに向ける。 『おお、これは不死軍団ではないか! さすがは魔王様、次元の壁を諸共せずに我等が軍勢を呼び寄せるとは! しかも一度崩壊した世界から僕どもを再構築までしている! さすがとしかいいようがないな!』 「そうじゃなくて、なんとかできないのか!」 『ふん、無様に慌ておって。不死軍団はかりそめの命を与えられた者どもだ。召喚者の命令に反する振る舞いなど――』  ヒュン  鋭い剣の一閃が、ムーウアの言葉をさえぎる。  郁人の頭のすぐ横を、骸骨の剣が掠めた。運よく外れたが、頬に濡れた感触があった。  触ると、血が流れていた。 『……なるほど。呼び寄せた魔王様自身が幼く、狂乱中のため命令も何もないのだな。となれば、不死者の本分に従い、生あるものを無差別に襲い掛かってきているということか』 「だからそう言って――」 「パパ、後ろ!」  振り返ろうとした瞬間、背中から強い衝撃を受ける。  硬い、絶望的な感触。  マオとムーウアを放り出し、受身も取れず地面に倒れる。  倒れながら後ろを見ると、血に濡れた剣を手に笑う骸骨がいた。  斬られた。  背中が熱を帯びてくる。 「――な、ぐ――」  動こうとして、初めて痛みが走った。肉と肉が引き剥がされたような激痛だ。実際、そうなっているのかもしれない。  身動きできず地面にうつぶせのまま、何体もの骸骨の足が見える。  その中に、地面に投げ出されたマオが転がっていた。  寝返りすらできないマオは、うつ伏せのまま、涙と土で汚れた顔で泣いている。泣き声はさらに激しくなり、落とした時に打って怪我したのかもしれない。あの子も、きっと殺される。さっきまで笑っていたのに、泣きじゃくったまま、殺される。  起き上がっていた。  自分でも意識したわけではない。気づいたら体が動いていて、転がるようにマオのほうへ突っ込んだ。  マオを拾い上げるが、そのまま足がもつれて地面に倒れる。  しかしそれでも、マオを体の中に抱きかかえた。  これでマオを助けられるわけじゃない。自分が殺されれば、その次はマオで、結局数秒だけ命が長らえるだけだ。  それでも、そうしてしまった。  抱きかかえられながらも、激しく泣くマオに、自然と言葉が口をついた。 「痛いの痛いの、飛んでけ」  そう言った瞬間、背中に春の日差しのような暖かさが宿った。先ほどまでの痛みを伴った熱とは違う、柔らかい感触だ。  マオも、泣き声のボルテージが低くなった。まだしゃくりあげているが、抱きかかえてやれば泣きやみそうだ。  郁人の顔に陰がかかる。  骸骨が、刃を下に剣を構えていた。  とっさにマオをかばい、身を固くする。  その瞬間、郁人の背中から黒い光が飛び出す。弾ける速度で現れたそれは、とどめを刺そうと迫る骸骨にぶつかった。  骸骨が、のけぞるように吹き飛ばされる。  地面を転がる。起き上がろうとするが、背骨の一箇所を破損し、立ち上がれないでいた。そこはついさっき、郁人が攻撃を受けた部分と同じように見えた。  だが、次々と骸骨が迫ってくる。 「――くそっ」  郁人は立ち上がる。  よくわからないが、体の痛みは完全に引いている。とにかく、逃げようと思った。囲まれているといえども、二、三体かわせば抜け出せる。動きはそれほど機敏ではないし、振り切ればなんとかなりそうだ。  何発かもらうかもしれないが、一時は死の覚悟までしたのだ、いまさら怖気づく必要はない。 「マナカちゃん!」  彼女は地面にうずくまって丸くなっている。郁人のほうが動き回っているため注意を誘うのか、骸骨たちは足元の彼女には見向きもしていないようだ。  とはいえ、ほうっておくわけにもいかない。骸骨らを振り払いながら、彼女を抱きかかえ、走り抜ける。やるしかない。  せーのっ、と心の中で気合を入れかけた瞬間だった。  目前の骸骨の頭が、吹き飛んだ。  しゃれこうべは弧を描き、公園の塀を越えて民家のガラスを突き破る。「誰だ、野球やってるやつは!」とダミ声が響き渡った。 「お前……なんで?」  乙女だった。どこかの工事現場から拝借してきたのか、黄色いメットをかぶり、両手には金属性のスコップを構えている。 「自衛のためよ。説明は、あとッ」  スコップを振りかぶり、背後に迫っていた骸骨の頚椎を打ち抜く。パン、と弾ける音がして、骨が粉砕、頭が転がり落ちる。  それでも首を失ったまま、剣を振り下ろしてくる。 「バケモノめっ」  軽やかにその一撃をかわし、その流れのまま腰骨に向けてなぎ払う。腰を砕かれ、今度こそ骸骨は地面に倒れた。  それを踏み越え、別の骸骨が迫ってくる。だが、乙女は正確に腰骨めがけてスコップを振るい、戦闘不能に陥れる。 「なんか。すごい場馴れしてる気が……うおっ」  思わず見ほれてしまったが、骸骨にはこっちにもいるのだ。背後に迫った敵に気づき、あわてて距離をとった。  とにかく、乙女の参戦によって骸骨たちの包囲網が崩れた。今なら逃げられる。  そう思った瞬間だった。 「うっ」  乙女の体勢が崩れ、地面に倒れてしまう。足元には、骸骨の手。腰骨を砕き動けなくしたはずの骸骨が、いつの間にか損傷箇所が回復し復活している。 「なんで……」  乙女のうめきに、転がっていたムーウアが答える。 『ふふっ、愚昧な人間め! 骸骨戦士どもは個々の戦闘力はさほどでもないが、数の優位と再生能力を有する。聖別された武具か二級純度以上の聖水がなければ消失させることはできぬのだぁ!』 「なんで偉そうなんだよ!」  乙女は地面に手をつき、即座に反転。掴んでいた手を逆にねじりあげ、極める。固まった関節部分にスコップの刃を突き立て、切断した。肉も筋もない骨格をどういう仕組みでつないでいるかわからないが、関節部分はやはり弱いのだろう。  だがその動きで生じた隙を、別の骸骨に狙われる。振り下ろしてきた剣をスコップの柄で何とか防ぐが、そのまま絡めとられる。乙女の手を離れ、弧を描く。 「ちっ」  立ち上がれない乙女の周りに、四体の骸骨。  郁人がそちらに向かおうとするが、さらに二体の骸骨が立ちふさがる。  ――やられる。  乙女は皮肉に笑いながら、言う。 「ねえ、一応聞いてみるけど、一〇万やるから見逃してくれない?」  死を覚悟した彼女の言葉が、それだった。  骸骨の動きは止まらない。  光が舞い降りた。  一瞬の閃光。それだけで、半数以上の骸骨が塵と化す。  その光の中心に、少し小柄な少女の姿。  彼女は、ジャージの上にヒヨコのエプロンを装備し、足元はゴムサンダル、頭には三角巾で、手には丸めた新聞紙を持っていた。 「……水天宮さん」  彼女が周囲を見渡す。マオを抱えたまま立ちすくむ郁人に、ところどころ裂けた服をきて地面に倒れる乙女、亀のように身を丸めたマナカ。そして閃光を免れた、いまだ二〇は下らない数の骸骨戦士たち。 『この光――ゆ、勇者か!』  ムーウアの声が合図となったかのように、骸骨たちが一斉に詰め寄った。  先ほどまでの動きとはまるで別物だ。一体一体が乙女と同じか、それ以上の速度で水天宮さんに迫ってくる。よく見ると、体中から赤黒い煙のようなものを発している。 『おおっ、魔力の過供給による暴走――』  ムーウアの言葉が終わる前に、骸骨たちは水天宮さんに到達。四方八方から襲い掛かる。 「……せーのっ」  水天宮さんがそうつぶやく。  まばゆい光が公園内を駆け巡った。  瞬きする間もない。  骸骨たちの姿は掻き消え、残った赤黒い魔力の残滓も、風にまかれるように薄くなり、消えてしまった。 「すご――」  郁人の声をマオの泣き声がさえぎる。光に驚いたのか、勇者の力に反応したのか、泣きやみかけていたマオがまた泣いた。 「うわっ」  驚く。マナカも、郁人の足にしがみついてきた。 「パパ、これじゃまた――」  言う間もなかった。  骸骨の出現とは比較にならない巨大な歪みが、公園の片隅に生み出される。  郁人は、身震いした。  立っているのすら厳しく感じるほどの悪寒。  得体の知れない気配が、歪みの中から放たれている。 「う――」  まず現れたのは足だ。足先から膝までで郁人の身長と同じくらいある。黒い鎧の臑当てに覆われて、踏み出した足が公園の滑り台を飴細工のように踏み潰し、溶かしてしまった。  歪みを潜り抜けてきた巨体。それは黒い甲冑を身にまとった骸骨だった。足は四本、手は八本で、それぞれ電柱並みの長さの剣を掴んでいる。頭は三つで、うち二つは獣と鳥の骸骨で、兜をかぶっている。 『これは、不死軍団の大将軍が一、『腐敗する灼熱』ザーダガーシャ殿! その吐息は触れるだけでただれさせる猛毒で、八本の剣はいずれも冥界の業火で鍛えられた魔剣。その一刀は、いかな城壁でも打ち砕くのだ!』  だが、水天宮さんは一顧だにせず、マオを抱える郁人のほうを見つめている。  大きな瞳はなぜか泣きそうに潤んでいて、唇をかんでいるようだ。 「魔王の力――郁人くんが、魔王だったの?」 「ち、違う! この子が、魔王の生まれ変わりで」 「……マオちゃんが?」  火がついたように泣き続けるマオ。  歪みの中から、別の巨体――その頭部が現れる。  竜の骨だ。頭だけで、ザーダガーシャと同じくらいある。無数の乱食い歯が並び、黒い眼窩には青白い炎が見える。 『おぉ、あれは同じく不死軍団の大将軍が一、『蒼き涙』ゲオルドー殿! その魔眼から発せられる光は見ただけで生ある者を焼き尽くす最凶のドラゴンゾンビなるぞ!』  見ただけで焼かれてるならとっくに死んでるはずだが、とりあえず無事だ。水天宮さんから発せられる暖かな光が、あるいは邪悪な力を打ち消しているのかもしれない。 「郁人くんと入谷さんの子供で、魔王なの?」 「う……たしかに、それはそうなんだけど……ちゃんと説明させてほしいんだ!」  水天宮さんは、深く息を吐く。  うつむいた彼女の表情は、郁人からは見えなかった。 「昨日は、ほとんど眠れなかった。赤ちゃんいるの隠して告白してくるなんて信じられないし、大嫌いになった。けど魔王の力を感じた瞬間、郁人くんのこと守るって約束、思い出したんだ」 「水天宮さん」  翼の羽ばたきが聞こえる。  上を見ると、歪みの中から鳥が飛び出してきた。  骨の巨鳥だ。翼だと思った一つひとつが人の頭蓋骨だ。風を切るたびに、怨念がこもった声が響き渡る。 『ぬおおっ、あれは不死軍団の大将軍が一、「日を喰らう翼」セルスレイポォ殿! その翼に用いた六六六対のしゃれこうべは双子の魔術師から刈り取った首で、あらゆる魔術を諳んじ、その羽音を聞くだけで死病を患う、不吉の象徴! 不死軍団の三将軍が揃いぶみ、いかに勇者といえどもこれなら勝てる!』  いつしか空は黒い雲に覆われ、渦を巻いている。赤い稲妻が走り悲鳴のような雷鳴がとどろく。  水天宮さんが手にしていた新聞紙を開いて、くしゃくしゃに丸める。それをマオの前でもむと、カシャカシャと音がした。  マオは、突然現れた変な音に注目する。そちらが気になってか、泣くのをやめてしまった。 「そう。郁人くんは、わたしの話を信じてくれた。初めて、信じてくれたんだ」  水天宮さんが顔を上げる。 「だから、わたしは郁人くんを信じる」  真夏の太陽にも勝る笑顔。  その瞬間、禍々しさの極みであった不死三大将軍は一瞬にして消滅、穢れた魂は昇天する。  渦巻く暗雲は吹き飛ばされ、一切の晴天。三重の虹がかかり、ハレーションしている。地面からは次々と花が咲き乱れ、柔らかな風に乗って花弁が乱舞した。 「……アホか」  乙女の呟きが、高い空に吸い込まれた。                     5  いったん、郁人の家に戻った。  乙女も一緒だ。骸骨戦士たちの攻撃を紙一重でかわしたものの、服はそこかしこが裂けてしまっている。そのままでは帰るに帰れないので、着替えを借りることにしたようだ。  帰路の合間に、郁人が後ろをついてくる乙女に声をかけた。 「ありがとな。助けに戻ってきてくれて」  表情を崩さずに乙女は答える。 「あのときも言いかけたけど、あれは自衛のため。あんたたちが死んでたら、最後に会っていた私が疑われる」 「その場合、やったのは骸骨どものはずだろ」 「警察の科学捜査が異世界からきた骸骨戦士を認めれば、ね。あんたともども魔王を殺したら、消えてしまうかもしれないし。そのリスクより、あんたたちを助けるほうがリスクが少ないと判断した。それだけのこと。礼が言いたいなら、あっちに言ったら?」  乙女が視線で、水天宮さんを示す。マナカと並んで歩きながら、マオを抱っこしてあやしていた。 「私は言わないけど」 「いやそこは言っておけよ」 「行為に対する反射的効果に関しては金銭の清算事由にはあたらないの」 「せめて『助けてなんて頼んでない』とか柔らかく言って!」  水天宮さんが困った顔をする。 「なんだかよくわからないけど、お礼もお金もいらないよ。私は、郁人くんを守るって約束したわけだから。今日も保育園で忙しかったんだけど、急にスタッフが一人多く出勤しちゃって。心配だったから、そのまま飛び出してきちゃった」  水天宮さんはいい人だ。 「ただ、しいて言うなら、はじめからちゃんと説明してほしかったな。もしかして、わたしが魔王を問答無用でやっつけちゃうとでも思った?」 「そ、そんなわけでは――」 「たしかにいきなり世界征服はじめるような人ならしょうがないけど、こんな赤ちゃんだもんねー」  と、マオに笑いかける。マオはむすっと不機嫌に歪ませながら、乙女のほうに手を伸ばす。 「あ、やっぱりママがいいのかな」 「誰がママよ」  乙女は受け取るどころか、そっぽを向く。マオの表情がどんどん険しくなっていく。 「って、ごめんなごめんな! 俺でよければ抱っこするよ」  郁人が抱きかかえると、一応、泣くのはこらえてくれた。 「……征服はしないかもしれないけど、世界を滅ぼすことはできるんじゃない?」  その様子を見ていたマナカが、ぽつりと言った。  誰も、答えられなかった。  水天宮さんが、静かに言う。 「――たしかに、いざとなったら、そのときは勇者であるわたしが……その……」  わずかに声を震わす水天宮さんの言葉を、郁人はさえぎる。 「そんなこと、させないよ」 「え?」 「ようは泣かせなければいいんだろ。俺とこいつとで見てればいいんだから、なんとかなる」 「私は嫌よ」 「お前な。世界の命運がかかってるんだぞ」 「じゃあ雇う?」  乙女はスマホで何かを操作する。 「どうやらベビーシッター代は時間あたり二〇〇〇円ってところが相場みたいね。五割増しで、一時間三〇〇〇円なら請け負ってもいいわよ」 「なんで五割増すんだよ」 「子供が嫌いだから。言ったでしょ」  それでも足元を見すぎだろう。 「あるいは、彼女を雇ったほうがいいかもね。泣いても対処してくれるし」 「わ、わたし?」  突然話を振られ、水天宮さんがまばたきする。 「いいよ、お金なんて。できる限りは手伝いたいし」  郁人も言い返す。 「いい加減にしろ。なんでもカネカネって、いやらしくないか」 「好意に甘えて一方的に保護される関係は、いやらしくないんだ」  乙女の切り返しに、郁人は言葉を詰まらす。 「そ、それは俺だって、お返しするよ。なんか、別の形で」 「すぐ返す、は借金踏み倒すやつの常套句よね」 「――よかった」  なぜか、水天宮さんが笑顔で見ている。 「入谷さん、ちゃんと話してる。心配してたんだ、学校では誰ともしゃべってなかったから」 「わ、私は別に――」 「……パパって、いじりがいあるからね」  マナカにまで言われ、乙女は言葉を詰まらせる。で、なぜか郁人がにらまれた。  そうこう言っている間に、家についた。  つい一、二時間前に出たはずだが、ずいぶん前のような気がする。鍵を開けながら、そんなことを思った。 「じゃあ、あがってくれ」 「……あんた、ここに一人暮らしなの?」  二階建ての家を見上げながら、乙女がぽつりとつぶやいた。 「まあ、一応な」 「ふーん」  そういって、玄関に上がる。靴をそろえてる水天宮さんと違って、遠慮というものがない。 「シャワー借りていい?」 「お前、ずうずうしいにもほどがあるだろ」 「あ、わたしも借りていいかな? マオちゃんの泥も洗いたいし」  たしかに、あの騒動で地面を転がったせいで、マオの体は土まみれだ。指をしゃぶろうとしたので、郁人はあわてて止めた。  かわりに、郁人の指がしゃぶられる。 「おぅ」  意外と強い。口全体で吸い付いてきて、痛いくらいだ。 「って、俺の指も綺麗じゃないから、あとでな」  とりあえず風呂場に入り、浴槽にお湯を入れた。  風呂場のほうに向かった水天宮さんが声をあげた。 「あ、ベビーバス買ったんだ。これあったほうがお風呂入れやすいよね」  マナカが買ってきた、一抱えある黄色いバスタブだった。 「それ、使い方もわからないんだ。そもそも赤ちゃんってどうやって風呂に入れるんだろ」 「うん? 別に、お湯に浮かべさせるだけだよ。ちょうどいいから今使ってみようか」 「ダメよ」  なぜかマナカが否定した。 「マオちゃん、女の子なんだから。パパに裸とか見られたらきっと恥ずかしがると思う」 「そうかな? だって子供のうちならお父さんとお風呂入るでしょ?」 「入らない!」  かたくなにマナカは否定する。年頃の女子なのか。 「それじゃオムツ替えはどうしてるの?」 「私がしてる」 「気持ちは偉いと思うけど、マナカちゃんだけじゃ大変だと思うよ」 「おかあさんだって手伝ってくれるじゃない」  数秒の間があった。 「……おかあさんって、わたしのこと?」  マナカの、しまったというような表情。  よく小学校の先生をおかあさんと呼んでしまうアレだろうか。珍しくマナカがあわてる。 「そ、そうだよ! おかあさんみたいでしょ、そのおっぱいとか!」 「お、おっぱいは関係ないと思うけど……」  そう言いながらも水天宮さんは胸元を押さえる。が、本人は気づいてないかもしれないが、押さえることで、腕の間からはみ出して、かえって強調されてたりする。 「パパ、鼻血出てるよ!」 「え!」  鼻の下を触るが、大丈夫だった。マナカを見ると、ふんと顔をそむける。八つ当たりか。 「と、とにかく、わたしだって協力するけど、いつも見られるわけじゃないよ」 「じゃあママに」  顔がまだ赤いマナカが、ぶっきらぼうに答える。いくらなんでも、その提案は投げやりすぎだろう。 「いいわよ」 「マナカちゃん、こいつに聞いたって――え?」  図らずもベタな反応してしまった。本気で聞き間違えた。 「なによ。面倒見てもいいって言ったのよ」 「な、なんで? 言っとくけど、あとで請求されても金はないぞ!」 「……あんた、人を詐欺師かなんかだと思ってない? これでも、お金に関しては真摯に対応してるつもりだけど」 「だって、時給三〇〇〇円だってさっき」 「もちろん、条件はある。私がやるのは、他に誰の手も借りれないときだけ。あなたたちも、協力してくれるんでしょ? この男から何かしらの報酬を得た上で」  乙女は水天宮さんとマナカに向けて言った。 「報酬とかはいいんだけど、でも、そうだね。なるべく手伝うつもりだよ」  水天宮さんはうなずく。マナカもそれに続いて、無言でうなずいた。本当にこの子は乙女に対してだと別人のようだ。 「ならもうひとつの条件。ここに住まわせて」 「えっ」  思わず声が出てしまった。 「じゃあ、俺はどこに住むんだよ」 「はあ? こんだけ広いんだから、私の分の部屋くらいあるでしょ」  つまり一つ屋根の下に暮らすということか。 「で、でもお前の家は?」 「つぐみさんの家のこと? さっきも言ったけど、ただ間借りしてるだけだから。言っとくけど、あの家だってお金出して住んでるのよ」  そうなのか。つぐみさんとの関係も不明だし、特殊な事情があるのだろうか。だが、郁人の中からまだ騙されるのではないかという不安が残っている。 「どっちみちお金払ってるなら、自分で家を借りればよかったんじゃないのか」 「普通、家を借りるには保証人が必要なの。保証人なしでいい物件もあるけど、未成年ならどちらにしても保護者の同意は必要だし」  この家に住むときは、もろもろの手続きは親がやったので、郁人はちゃんと把握していない。たしかに契約書に判子を押すとき、親の名前も書いてあった気もした。 「そういうもんなの?」  と、マナカに聞いてみる。が、きょとんとしていた。あわてて首を振る。 「そ、そういう事務的なことはおじいちゃん担当だから!」  ずいぶん半端な不動産屋の力だ。 「その条件でいいなら、その子の面倒を見てもいいわ。子供は嫌いだけど、やるからには手は抜かない」  はっきりと明言する。  学校でのパン代の件にしてもそうだが、お金に関しては変に律儀なところがある。その言葉は信じられる気がした。  実際、助かる。他の手が借りられないときしか手伝わないというが、逆にいえば最低でも一人は見てもらえる人が確保できたということだ。学校がやはり問題だが、一人と二人ではぜんぜん違う。しばらくは交代で登校しながら、別の方策を考えればいい。  とはいえ――  水天宮さんを見やる。向こうも郁人の視線に気づいてか、目が合った。 「いいんじゃないかな。マオちゃんも、ママと一緒のほうが喜ぶよ」  にこにこ。  ぜんぜん意識されてないのだろうか。 「……まあ、じゃあ、それでいいけど」 「ずいぶん煮え切らない返答ね。まあいいわ。あとで契約書作るから、判子用意しといてね」 「契約書まで書くんだ」 「当たり前じゃない。口頭でも契約は有効だけど、書面が基本でしょ」  ふと疑問に思う。 「さっき未成年だと保護者の同意が必要だとか言ってたけど、お前はなんでそんなに契約慣れしてるんだ」 「……変なこと気づくのね」  感心したのかあきれたのか、よくわからないため息をついた。 「別にあんたに言う必要はないわ」 「なんだよ。別に言いたくないなら無理にとは言わないけど」 「勘違いしないでほしいのは、同じ家に寝泊りするからって、関係は変わらないから。私とあんたと、そしてこの子も、他人どうし。家族ごっこならそっちで勝手にやってよね」 「……わかってるよ」  わかってる。  乙女が同意したって、あくまで自分の理由だ。こちらに心を開いたわけじゃない。  それでも、やりきれない気持ちが残るのはなぜだろうか。  お風呂ができた。  乙女と水天宮さんが、風呂に入りながらマオの沐浴を教えることになった。 「じゃあ、覗く?」  マナカがいい笑顔で親指を立てた。 「じゃあ、じゃないよ。つーか入谷の姿が見えなくなった瞬間、なにいつもどおりになってるんだよ」 「うん? いつもどおりだけど?」  今はたしかにいつもどおりだ。  郁人にもその辺はわかる。乙女は冗談通じるタイプではないし、子供としては近寄りがたいのだろう。  とりあえず湯上りに飲ませるミルクを入れて、冷ますことにした。  と、マナカが台所の隅に立って、壁に耳を当てている。 「ところでパパ、知ってる? この家、台所の横がお風呂だけど、この辺にいるとお風呂の音が聞こえるんだよ」 「え?」  考えてみれば一人暮らしで誰も泊めたことがないので、他人が風呂に入っている状況なんてありえなかった。そんな場所があったとは。 「って、さすがに趣味悪いぞ」 「そんないい子ぶっても始まらないよ。いいから聞いてみなって」  むぅ、とうなって、郁人もマナカの横に立ってみた。  たしかにシャワーの音が聞こえる。  よくよく聞いてみると、声が聞こえた。 「うわ、乙女ちゃん、すごいスタイルいいね! 肌も白くてすべすべ。シャワーの水、はじいてるよ」 「あなたにスタイルのこと言われてもいやみにしか聞こえないんだけど。なに入ってるのよこの胸に」 「ひゃあ! ちょっと、触らないでっ」 「ふふ、嫌がっても体は正直じゃない? 息が荒くなってきたわよ。それにしても柔らかい……なにこれ、指がめりこんで見えなくなっちゃう」 「……あの、マナカちゃん、何してるの?」  居間のほうからマナカが顔を出す。手には紙コップ。居間の壁から、二人の声真似をしてた。 「あれ、ばれちゃった? けっこう自信あったんだけど」  たしかに一瞬聞き間違えるほどうまかった。短い間にこのクオリティの声真似できるなんて、相当なものだ。しかし、会話の内容があまりにも人格と逸脱しすぎている。 「てか、マナカちゃんは一緒に入らないのか」 「私はいいよ。お化粧落ちるし」 「その年で化粧とかしてるのかよ……」 「イマドキの小学生ってやつだよ」  まったく、世も末だ。 「でも、なんかいいねこういうの」  居間のちゃぶ台に両手で頬杖つきながら、マナカが笑った。 「家族みたいで」 「そうか?」 「うん。ママと妹がお風呂に入ってて、パパはミルクを作ってて、私は勝手に遊んでる。そういう感じ。うまくいえないけど、なんだかわくわくする」 「入谷いわく、家族ごっこだけどな」 「でもさ。ごっこがいちばん、楽しいよね」  驚くほど達観した言葉に、郁人は返す言葉を見つけられなかった。  だが、なぜだか、そんな大人びた発言をする彼女は、誰よりも子供らしいように感じた。  風呂上りのマオは上機嫌だった。 「お風呂、好きな子と嫌いな子といるんだけど、この子は大丈夫みたいだね」  水天宮さんがまくっていた腕を下ろしながら言った。  お風呂には入らなかったようだ。 「乙女ちゃんも、教えたらすぐできたよ」 「洗うだけじゃない」  乙女は郁人の貸したシャツとジャージを着ていた。濡れた髪をタオルでまとめていたて、後れ毛が残ったうなじの白さに思わず目をそらしてしまった。  マナカがニヤニヤしてる。半分はこの子のせいだ。 「郁人くん、ミルクは大丈夫?」 「ああ。ちゃんと冷ましといたぞ」  一回に飲む量は約八〇ミリ。哺乳瓶に熱湯を入れたミルクは、かなり冷めにくい。本当は七〇度に保温したお湯を使ったほうがいいらしいが、そもそも電気ポットがなく、いちいちヤカンで沸かしている。しょうがないので、哺乳瓶にアイスノンを巻いたまま振って、冷ました。  マオを預かり、左腕で抱く。空気が出ないように気をつけながら、哺乳瓶の吸い口を口に当てた。  すごい勢いで飲み始めた。 「おお、今回は飲むなぁ」 「お風呂上りだから、のど渇いたんだよ」  あっという間に八〇ミリを飲み干した。  なんとも言えない充実感がある。 「パパ、げっぷ」 「あ、そうだった」  マオを縦抱きにして、左胸に腹ばいに乗せる。右手で背中を下から上に、ゆっくりと撫でた。  五、六回それを繰り返したら、「げぇぇっ」と立派なげっぷをした。  赤ちゃんはうまくげっぷができないため、ミルクを飲ませた後は出してあげないといけない。でないと消化不良の原因になったり、ミルクを吐き戻したりする。 「郁人くん、上手だね」 「たまたまだよ」  五分以上さすっても出ないこともざらにあった。三〇秒以内に出るのは最短記録だ。 「じゃあ、マオちゃんのご飯も終わったところで、ひとつお願いがあるんだ」  水天宮さんが改めて言ってきた。 「ムーウアさんと話をしたいの」  携帯を起動する。 『ふはははは! 不死軍団に栄光あれ!』  起動音代わりに歓声を上げる。こいつの中では三大将軍召喚時で時間が止まっていたらしい。 「あのムーウアさん、ちょっと伺いたいことが」 『むおおお! 勇者! くっ、三大将軍をもってしても貴様を止めることはできぬとは……惜しむらくは我が同胞の最期を見届けることが叶わなかったことか』  三大将軍はスマイル一発で軒並み昇天したわけだが、余計なショックを与えそうだから言うのはやめた。ついでにムーウアもその余波を食らって意識(電源?)が吹っ飛んでたわけだし。よく壊れなかったものだ。 「たしかにわたしは勇者です。赤ん坊の魔王なら、簡単にやっつけられます。でもそうはしたくありません。できれば仲良くしたいと思うんですが」 『ふん、何かと思えば戯れ言を――当世の勇者はとんだ腑抜けであるな! どちらかが滅するまで雌雄を決するのが我らの定め。軟弱な勇者など恐れるにあたらず。今は物言わぬ赤子なれど、ゆくゆくはこの世を地獄に変えるであろう。そのときを震えながら待つがよい!』 「待つがよい、って言われてもねえ」  マナカがぼやいて、ムーウアを摘み上げる。 『え? ちょ――なに……』 「パパ、ちょっと抱っこして」 「え? いいけど……」  言われるままに、マナカを抱き上げて、頭上に持ち上げる。  居間の上にあった神棚に、ムーウアを置いた。 『ぎゃああああ!』  ものすごい悲鳴が響いた。 「ど、どうしたの?」 「いやー、魔物だっていうから、神聖な場所においたらどうなるのかな、って。思ったより効くもんだね。人間で言えば、熱湯に入れられたようなもんかな」  くすくすと笑いながら言ってるけど、けっこうひどいんじゃないだろうか。 「キャッキャ!」  腕の中でマオが声を上げて笑った。悲鳴で喜ぶとは、さすがは魔王か。 「ちょっと、うるさい。静かに痛めつけなさいよ」  不機嫌そうに乙女が顔をしかめていた。こいつがいちばんひどい気がする。 「いくらなんでも可哀想だよ」  光がひらめく。勇者の力を使ったのか、一瞬にしてムーウアの携帯は神棚から水天宮さんの手の中に移っていた。だが、ぼん、と音を立てて煙を吹いた。 「あ、あれ?」 「神棚で熱湯なら、直接勇者の光にさらされるなんて、硫酸浴びるみたいなもんじゃないかな」  トドメになってないだろうか。  ムーウアを水天宮さんから預かって、電源を入れてみる。 『ふはははは! 不死軍団に栄光あれ!』  記憶が飛んでた。 『む。なんだここは? むおおお、勇者! くっ、三大将軍を――』 「ところで、マオも神聖なものとか近づけないほうがいいのかな」 「この子は大丈夫じゃない? ムーウアは魔物の魂が悪霊みたいに携帯に乗り移っただけだけど、マオは人間として生まれ変わったわけだから。じゃないと、三大将軍が消し飛んだときに無事なわけないし」 「そりゃそうか」 『って、我の話を聞け――うわああ!』  マオがムーウアを郁人の手から掠め取った。「キャッキャ」と笑いながら、振り回している。よくよく見ると、神棚のほうに向けている。  もう一回、そこに乗せたがっているようだ。 『ま、魔王様おやめください! なんかよくわかりませんが、あそこはものすごくイヤな感じがします!』 「マオちゃん……」  さしもの水天宮さんも絶句している。  と、マオからムーウア携帯をつまみあげた手があった。  乙女だった。 「私も聞きたいことがある」  淡々と、音声検索でもするかのようにムーウアに向かって話しかける。 「魔王がこの世に転生した仕組みを知りたい」 「仕組みってお前、魔力だの魔法だの、そういう俺らにはわからん力によってだろ」 「たしかに、法則そのものが違う世界のことだと言われればそれまでだけど。ただ、魔王とやらは時間と空間を操る、と聞いたわ。そしてこの携帯魔物は精神干渉。どちらも、生命そのものや肉体に影響を与える分野ではない」 「それはそうかもしれないけど――それを確かめるのって、そんなに重要か」 「重要ね」  なぜか蔑んだ目で見下ろされる。 「あのね、私はこの子が魔王であることはぎりぎり認められるけど、子供だっていうのは承認してないの。こればかりは、認めたくない。たとえば、自分が知らないうちにレイプされたって言われてるようなものだから」 「レ――えぇっ」  さすがにそこまでは思わなかった。 「非常に不愉快だわ。でも、そこをうやむやにしておくのも、もっと気持ち悪い。時間と空間の能力の範疇においての可能性なら、私の排卵時の卵子とこいつの精巣内の精子を転移させ、受精させ、時間を加速させて生み出したということ」  ダイレクトな物言いだが、そういう風に言われると、郁人も不愉快さが少し理解できた。勝手に持っていかれるなんて――ちょっと縮こまった。 「でもこれじゃ母体が存在しないから成長はできない気もする」 『左様。そのような原始的手法ではない』  もったいぶった言い回し。さっきまで赤ちゃんに振り回されて悲鳴を上げてたのに、よくもこう自信を失わないものだ。 『この呪法、因果を逆転し、結果を固着させることを旨とする。すなわち、無限に広がる可能性の海からお前たちが子をなす未来を選び出し、魔王様の魂を宿したお子を産ませる。と同時に、この現世へと呼び寄せ、その未来を確定させる。これぞ因果逆転による転生呪法。未来での出来事ならばあの勇者も手出しはできず、魔王様再誕を妨害することはできぬ!』  うまく理解できない。 「えっと。つまり、マオは未来に俺と入谷が作った本物の子供で、それを呼び寄せたってこと?」 『そういうことだ』  いやいや。 「俺がこいつと? いやいやいや、ありえない」 「まったく同意。天地がひっくり返っても、その可能性はゼロ」 『それなら天地がひっくり返ったのだな。何にせよ、その可能性はたぐり寄せられ、いまや確たる事実となった。本来ならば「すべてに勝ち得た栄光の未来」をたぐり寄せるべきであったが、それには魔力が足りなかったのだ』  結果を呼び寄せ、先に確定する。恐るべき魔法である。  だが、まだ納得できない。 「待て。たとえば、俺が絶対にこいつとは一緒にならない、と決意したらどうなんだ?」 『ただの決意など、膨大な時の流れの前には、何の力にもなるまい』 「じゃあ、こいつを殺したら? 性器を切り落とすでもいい」  なんかめちゃくちゃ怖いこと言ってる。 『難しいだろうな。因果律のすべてがこの結果に向かって流れている。いわば、大河の流れをすべて覆すようなものだ』 「私は十八歳になったら去勢手術を受けるつもりでいる」  乙女が言った。 「去勢ってお前、猫じゃないんだから」 「バカね。人間だってできるわよ。体への負担が大きいから年齢的な制約があるだけで」 「どこか体、悪いの?」  水天宮さんが心配そうに聞いた。 「別に。ただの自己都合。子供が嫌いだから。誰とも結婚するつもりはないけど、間違いがないとは限らないから」 「でも、それじゃ不妊手術は受けられないと思うよ。病気でないなら、既婚者で子供がいて配偶者の同意が必要だから」 「基本的には、ね。世の中、いろいろやり方はあるわ。とにかく、私は子供を作らなくなるはず。それでも、結果が優先されると?」 『簡単なことだ。十八までに子をなすか、あるいは心変わりするかだな』 「……検証が必要ね」  乙女は台所から包丁とまな板を持ってくる。  テーブルにまな板を置き、包丁を突き立てる。真顔で郁人を見下ろし、命じた。 「パンツ脱いで」 「いやいやいやいやいや!」  アホかこいつ! 「大丈夫よ。玉のほうだけにしとくから」 「そういう問題じゃないっての!」 「……うあ、わたしはお邪魔かな?」  顔を赤らめて、恥ずかしそうに水天宮さんはマオを抱えて廊下のほうに出て行こうとする。「マナカちゃんも見ちゃだめ」違う、致命的に違う! だめだこの人テンパってる! 「話の流れ、おかしいだろ! なんでお前が去勢するって話で、俺がやることになるんだよ!」 「それは男女の構造的問題よ。女より男のほうが楽だから」 「そりゃそうだろうけども! でも大きな問題が無視されている気がする!」 「こいつの言うとおりなら、切断する前に何らかのアクシデントがあるってことじゃないの。それとも殺す?」 「殺されない!」  乙女がイラついたように包丁を振り上げる。 「ああ、もうつべこべうるさいわね! あのね、私は怒ってるの。こんな得体の知れないやつに、あんたなんかと子供を作るとか言われて、さっさとそれを否定してやりたいの。玉のひとつやふたつでぐだぐだ言ってんじゃないわよ!」  つかみ掛かってきた。  乙女の踏み出した足の下に、いつの間にか転がっていたマオの哺乳瓶があった。  踏みつける。  くるん、と足をすべらせ、乙女は仰向けで転倒。  テーブルに後頭部をぶつけた。  豪快な音とともに、乙女が動かなくなった。 「……おい?」  気を失ってた。 『そう。これが因果律の力である』  ムーウアの無駄に尊大な口調が、静けさに満ちた居間に響いた。  乙女は郁人の部屋で寝かしておいた。  水天宮さんは心配していたが、郁人は放っておくことにした。因果律とやらが死なせはしないだろうし、つい先ほどまで貞操ならぬ精巣を狙ってきた相手に、そこまで同情するつもりにはなれなかった。 「ふぅ」  居間に座ると、どっと疲れた気がした。 「お疲れ様」  水天宮さんがお茶を入れてくれた。  思わず見上げてしまう。 「あ、ごめんね。勝手に淹れちゃった。よかったかな?」 「ぜんぜん。むしろ、ありがとう」  一口、すする。いつ買ったのかも覚えてない安いお茶だが、生涯でいちばんうまいような気がした。 「マナカちゃんは一回おうちに帰るって。マオちゃんは寝ちゃった」 「そっか」  ムーウアも必要以外はうるさいので電源を切っている。  二人きりだ。  ついこの間、この場所で二人きりになって、迷子犬のポスターを作った。あれからだいぶ時間が経ったように感じた。  告白までしたのだ。  フラれもした。  その誤解はとけた。  しかし、今はその真実こそが厄介だ。 「マオちゃん、郁人くんと乙女ちゃんの、未来の子供だったんだね」  水天宮さんも同じことを考えていたらしい。 「……うん」  認めたくない事実だった。 「よかったね! 乙女ちゃん、すごく美人だし、しっかりしてるし」  そんなことを笑顔で言わないでほしい。 「でも、俺が好きなのは――」 「だめ」  強い口調だった。 「そんなこと言ったら。マオちゃんがかわいそうだよ。やっぱり、パパとママは仲良くなくちゃ」 「……でも、俺は」  あの子の父親では、少なくとも今は違う。  確定された未来だろうと、現時点では否定できる。  いわば別の自分が作った子だ。  そう思ったとき、ふと、ひらめいた。 「あの子を、本当の親――未来の俺のところに送り返せないかな」 「え?」 「何歳で生んだかは知らないけど、今より未来の俺と入谷のところへ。むしろそのほうが、子の子も、勝手に呼び寄せられた親のほうもいいんじゃないだろうか」  ただ、それには時間を超越する力が必要である。 「送るだけなら、できるかもしれないけど」 「本当?」 「いわゆるウラシマ効果ってやつ」 「それって、宇宙旅行から帰ってきた人より、地球にいた人たちのほうが時間が早く流れるって、あれ?」 「そう。光速に近づくほど時間の流れは遅くなる。だから、私がマオちゃんを抱いたまま光の速度でひとっ飛びしてくれば、未来の郁人くんに届けることはできるよ。ただ、帰りが……」  そうだ。その方法では一方通行。水天宮さんはそのまま未来の住人になるしかない。 「一応、光の速度を超えれば過去に戻ってこれるらしいけど。やったことないし、なんか悪い予感もする」  彼女は――正確には前世の勇者は、光の速度を突破して世界を滅ぼしてしまった。  はっきりとした記憶はなくとも、何かを感じているようだ。 「難しそうなら、しょうがないよね」 「ううん。ちょっと、考えてみる。それなら、もしかしたら――」 「なに?」  水天宮さんははっとして、首を振る。 「なんでもない。わたしも、いったん家に帰るね」  そういって、水天宮さんは部屋を出て行く。  もしかしたら、同じことを考えていたのかもしれない。  前の世界で、魔王の波状攻撃を幾度も打ち破った光の勇者の力。  その力で、マオを未来に返すことができれば、確定されてしまった未来も元通り、別の形になることもできるかもしれない。 「ちっ」  意識を取り戻した乙女が最初に放ったのは、舌打ちだった。  水天宮さんが出て行った後、部屋に忘れ物をとりに入った。その音で起こしてしまったらしい。 「どうやら、本当に強制力が働くようね」 「どういうことだ?」 「本気で獲りにいこうと思った瞬間、転ばされた」 「俺は何よりお前が怖いよ」  こいつと一緒になる未来は。やはり謹んでお断りしたい。  郁人は、水天宮さんの力を借りて未来にマオを返す案を話した。 「それで確定された未来が可変的になる、というのは楽観的だと思うわね」 「そうか?」 「それで返したところで、いったん今の時間軸にあの子が存在した事実は覆らない」  たしかに、それはそうかもしれない。 「けど、他に手段はないだろ」 「彼女に、光の速さでタマを切断してもらったりとか」 「冗談じゃねえ」 「奇遇ね、冗談も嫌いなの」  だからこそ、笑えない。 「なんにせよ、当面はなんとかするしかないようね」 「ずいぶんあっさりしてるんだな」 「私としては、今のところメリットとデメリットは相殺されてるから。居住箇所を得られたのは大きいわ。さて」  乙女が立ち上がる。 「行くわよ」 「え? どこへ」 「もちろん、つぐみさんの家に。荷物、持ってこないと」 「なんで俺が」 「育児のほか全般はやる、という条件だったはずだけど」  そうだった。  いいように使われるだけのような気がするが、考えても悲しくなるだけなのでやめた。  マオを抱えて外に出る。  水天宮さんから、オムツとおしりふき、予備のミルクを持つようレクチャーを受けていたのでその通りにした。ミルクは外出時に熱くても飲むときにちょうどよくなっている、とのこと。二、三時間に一回はあげるものらしい。  当たり前だが、乙女は何も手伝ってくれなかった。  そもそも荷物を取りにいくのに、出発からそれなりの荷物を抱えている時点でおかしい気がする。 「タクシーでも使えばいいじゃない。こういうときに使うものよ。私は出さないけど」 「いちいち使ってられるか。金もないし」  マオの体重は三、四キロ程度。スリングを使ってだいぶ負担は少ないが、紐が食い込み肩が凝る。  世のお父さんお母さんは、偉大だと思った。 「三千万円」 「え?」 「子供一人当たりのの費用。全部公立で大学まで行かせることを考えた場合でもね」 「そんなにかかるのか」 「育児って、社会構造維持と経済の循環のためにいかにも大義名分を掲げているけど、結局は金と労力がかかるただの趣味なのよ。恋愛して、結婚して、子供作って、車と家を買って――それが幸福だとされてるけど、どれもこれも、消費を目的としたプロパガンダ。まったく、ばかげてる」 「まあ、そうかもな。考えたこともなかったけど」 「何を呑気にいってるの。まさに、コレがそれでしょ」  マオは穏やかに寝ている。  こうしてみればかわいいが、費用の面から見れば金食い虫なのだ。  今の貯金だって、マナカが使った初期費用だけで半分吹き飛んだ。オムツは二週間ごとに一袋、ミルクもひと月に一缶。服だって大きくなれば買い換えるし、オモチャだって必要だろう。きっと数ヶ月で貯金は底を突く。  ただ面倒を見ればいいわけじゃない。お金だってかかるのだ。 「いい仕事、紹介できるわよ。健康で若い人が歓迎される、高収入バイト」 「怪しすぎるんだけど」 「堅気の仕事よ、一応。まあ、そのかわりマージンとして月の収入の十パーセントもらうけど」  いきなり金の話で何かと思ったら、そういうことか。 「だったら自分で探すっての。だいたい、そんなに金が好きなら自分でやればいいだろ」 「もちろん自分でもやってたけど、体はひとつだし、要望は多数。だから人に振り分けてるだけよ。時給一六〇〇円だから、一〇パーセント引いても、その辺のバイトより割りはいいと思うけど」  一六〇〇円。一割引なら一四四〇円。学校のあと四時間働いただけでも五〇〇〇円を越える。ゲームが一本。マンガなら十冊買えるし、マオの消耗品なら一か月分はまかなえる。 「いやいや。やっぱり、怪しい」 「まあ、私としてはどっちでもいいけど」  と、乙女はコンビニに入っていく。 「待って。お金、下ろしてくから」  この間、かなりの金が財布に入っていたはずだが、まだ足りないのか。それともすでに全部使ってしまったのか。  さっきの仕事の紹介もそうだが、何かと怪しい。泣かなければ無害なマオより、よっぽど油断ならない気がした。  外にいても仕方ないので、一緒に店内に入る。乙女の横で、雑誌コーナーを見るともなしに見る。その片隅に、子供の絵本がおいてあるのを発見した。今までまったく意識したことがなかったが、こんなのもおいてあるのか。 「懐かしいな」  郁人が生まれる前からやってるアニメ『菓子パンマン』の絵本があった。なんとなく手にとってみる。  一〇〇〇円。 「……マジか」  一〇枚あるかどうか、というページ数。たしかに普通の本より大きいしフルカラーだからそれなりの値段なのかもしれないが、ちょっと信じられない。週刊漫画が一か月分買える。 「……なによこれ」  ATMを見ながら、乙女が眉根にしわを寄せている。  こんなに感情をあらわにしている姿は初めて見る。 「一〇万減ってる」 「え?」  ATMをそのままにして、スマホを取り出し、えぐるような指使いで何かを探し始める。  と、その指が固まる。 「魔力供給?」  謎のつぶやき。  すぐさまどこかに電話をかける。 「貴行に預けている入谷と申します。お世話になります」  電話口では声のトーンが変わる、いわゆるよそ行きの声で、少なからず驚いた。  どうやら銀行に確認をしてもらっているようだ。  ふとATMの画面を見る。  口座の残高照会の画面のようだ。  数字がたくさん並んでいる。いちばん左は七。いちじゅうひゃくせん……一〇〇万。七〇〇万。  驚いた。  というか、引いた。  よく「賞金一〇〇万円!」というフレーズを聞くけど、その七倍。完全に、郁人の想像の範疇を超えている。 「ありがとうございました。また何かわかりましたら、ご連絡お待ちしていす――チッ」  電話を切った瞬間に舌打ち。 「子安。ムーウアを出して」 「ここでか?」  返答は、鬼のような形相でにらみ。それが返答だった。郁人は無言で、電源を切ったままのムーウアの携帯を渡す。 『コラ、また電源を――』  乙女のにらみで、ムーウアが黙る。 「あんた、私の金、盗んだわね」 『な、なんのことだ! 盗みなどするわけが』 「じゃあこの支出項目『魔力供給』ってなんなのよ」  スマホをムーウアのカメラに向ける。  郁人の所からも見えた。ATMと同じ残高だが、乙女が言うとおり、その下に支出項目という表がある。  口座から引き落とした内容が書いてあるのだろう。  その中に『マリョクキョウキュウ』とあった。額はぴったり十万円。 『知らぬ』 「便所に流すわよ」 『ほ、本当だ! この体の我にそんな芸当できるわけがなかろう!』  たしかに二世代前の携帯では無理だろうが、もっと重要なことがあった。 「入谷、ちょっといいか」 「なによ!」 「まず、ちょっと声を落とせ」  店内で騒いでいるので、さすがに周囲の目が痛い。店員が注意するかしまいか迷っているのが見えた。  郁人はスマホを指差しながら、努めて落ち着いた口調で話す。 「そして、その時間を見てみろ」 「時間? 今日の八時五一分。それが何よ」 「その時間、俺たちは何をしてた?」  郁人も正確な時間はわからないが、おおよその見当はつく。  公園でマオに泣かれ、骸骨どもに囲まれていたころだ。 「だから、なんで襲われてた時間に私の口座から金が抜かれてるのよ」 「あのとき、お前言っただろ。十万円で助けてとか何とか」 「まあ、そんなこと口走ったような気がしないでもないけど……」  その直後、水天宮さんが現れて骸骨どもを片付けてくれた。  その後、水天宮さんは言っていた。急にスタッフがあぶれたおかげで、仕事を切り上げて駆けつけることができた。 「十万円で、水天宮さんを呼び寄せることができた?」 「そんなバカなこと――」  言いかけて、乙女は財布から百円玉を取り出す。  おもむろに、郁人が抱えていたマオを取る。  代わりに、郁人に向けて親指に乗せた百円玉を向けた。 「一〇〇円で、ふっ飛ばす」  コインを弾く。  次の瞬間、天井だった。爛々とする蛍光灯。コンビニの天井のようだ。そしてこちらを覗き込む、乙女の冷たい目線。  床に大の字で寝転がっていた。気を失っていたらしい。 『価値置換魔法だな』 「貨幣価値を別の効果に置き換える、ということ?」 『そうだ。魔王様も同様の魔法を行使したことがある。ある物体の時間を効果に置き換える。時間とは可能性、可能性とは熱量だ。その物のありうるべき時間を、別の形に変換する。それと同じだな。なぜお金かはわからぬが、たしかに他の効果へ置換できる意味では、時間も貨幣も似ている』 「タイムイズマネー、てやつね。なるほど」 「なるほどじゃねえよ!」  起き上がる。額がじんじんする。 「なにしれっとぶつけてるんだよ。介抱くらいしろよ」 「したわ。起こすのは二〇〇円必要だった」  それは介抱ではなく検証だ。 『魔王様の存在が確定されたことで、魔力が逆流し、能力が発現したのだな』 「……そういうこと」  じっと、腕の中のマオを見下ろす。  と、起き上がった郁人に、すぐに返す。 「必要以外はあんたが世話する約束でしょ」 「わかってるけど――なあ、魔力が逆流したってことは、お前がこの子の母親だって証明になるんじゃないのか」  平然と、乙女は肩をすくめる。 「そのようね。けど、約束は何も変わらない。私は居住費分の育児は担うけど、それ以上は契約外よ」 「お前な……」 「じゃあ逆に聞くけど、なぜ子安君はその子を守ろうとしているの? 自分の子だから? 世界の平和のため? なるほど、ご立派ね。勇ましさすら感じる。でも、実の親だから子の面倒を見なければいけないとか、世界が脅かされているからだとか、実は何の根拠にもならない。ただの、思い込み」 「何が言いたいんだよ」 「理解できないだけよ。その手の思い込みに必然性を感じることが」  価値観が違う。  捨て犬を放っておけず、飼い主を探し出し、別れに耐え兼ね泣いてしまう人がいる。  だが乙女は、捨て犬がいても関せずに放っておける。  ただそれだけの違いだ。 『されどご母堂。魔王様を育て上げれば、世界を得られるぞ』 「たしかに、それは価値だわ」  ムーウアの言葉にうなずく。 「でも、お断り。過ぎたるは及ばざるが如し、てね。私は、自分が扱えるだけの価値が得られれば、それでいいの」  七〇〇万の資産を持つ女子高生は、そう悪魔の問いに答えた。  女性は子供をお腹の中で十月十日育てるから愛着を持つし、男性はそうでないから無関心になる傾向がある、という話がある。  乙女が普通に子供を妊娠し、出産したとしたら、その心境は今とは違っていたのだろうか。  未来において乙女は、何を思って産んだのか。  そんな答えの出ないことを考えているうちに、つぐみさんの家についた。 「あら、乙女。おかえりなさい」  庭のほうからつぐみさんが現れた。指先が土で汚れている。よく見ると庭は狭いなりによく手入れされており、石で囲われた花壇には薄紫の花が咲いていた。 「つぐみさん。私、ここから出て行くことにしました」  単刀直入にもほどがある。  つぐみさんは一瞬驚いたように息を呑んだが、すぐにもとの柔らかな微笑みを浮かべる。 「そう。その人の家?」 「はい。学校の都合上、また保護者でいてもらう必要はありますが、それはよろしいでしょうか」 「どうぞ。ちなみに、お金はいらないんだけどね」 「そうはいきません。住居代は引きますが、名義代は引き続き支払います」 「それで気がすむなら、それでどうぞ」  こうして聞いていると、たしかに家族の会話ではない。  それどころか、何年も一緒に住んでいた二人の別れの挨拶ですらない気がした。  乙女は必要最低限のことだけ残して、荷物をまとめに家に入ってしまった。 「お名前、伺ってなかったわね。私は雑司が谷つぐみ。あの子の保護者みたいなもの。ぜんぜん何もしてないんだけどね」 「あ、子安郁人です。ええっと、クラスメイトです」  どう説明すればいいかわからない。だが、つぐみさんは特に突っ込んで聞いてこなかった。 「あの子、腹立つでしょ?」  いきなりの核心だった。 「えっ? い、いや、まあ――」 「んもう、まいっちゃうわよねぇ。かわいくないっていうか、意地っ張りというか。基本的に何でもできちゃうから、始末に負えない。もうちょっと頼ってくれてもよかったんだけど」  笑顔で話すが、声色に寂しさが漂っていた。 「あの、つぐみさんとあいつは、どういう関係なんですか?」 「おっ。そこ聞くんだ」 「あ、いや、別にいいんですけど」 「いいのいいの。あの子の父親の知り合い――幼馴染ってやつかな。昔から何かと面倒見てきたけど、まさかまだ赤ちゃんの娘を預けてくるとは思わなかったわ」  あっけらかんと、とんでもない話をする。 「あんまり話すと乙女に怒られるから黙ってるけど、とにかく、そういう背景があるの。あの子、しっかりしてるようでここぞというときに大ポカやらかすから、気をつけてみてあげてね」 「はあ」  そういえば初日に弁当忘れていた。  思えば、あのとき何事もなければ購買に行くこともなく、こうなってもいなかったのかもしれない。 「ああ、そうそう」  つぐみさんが家の中に入り、すぐにまた戻ってきた。  手には小さいポーチがあった。 「あの子が厄介になるなら、これも持っていってほしいの」 「なんですか」  ポーチを開くと、乙女名義の銀行の通帳だった。印鑑もある。 「あの子の父親からの振込み口座。毎月五〇万ずつ入れてきてる。あの子は絶対に受け取らないけど」  つぐみさんが通帳を開く。  すべての行が五〇万円の振込みと、合間に利子が数千円があるだけ。  右端の現在残高は、とにかく桁がたくさんあった。いちじゅうひゃく―― 「一億ちょっとあるわ」  数え終わる前に答えを出された。  一億円って、あの一億円か? 「あなたにあげる。頃合いを見て乙女にあげてもいいし、手間賃だと思って自分で使っちゃってもいい。私はどっちもせずに貯まるに任せたけどね」 「いや、そんな大金、困ります!」  そもそも、よく知りもしない人に預けていいんだろうか。  その考えを読んだように、つぐみさんが言った。 「いいのよ。どうせ行き場がないお金だもの。乙女にいわく、使わない金はないも同じ。それに、あの乙女が居住先に選んだ人だもの。間違いはないわ」  買いかぶりすぎだろう。  とにかく受け取れない。 「ちなみに乙女に見つかると焼き捨てようとするから、気をつけてね」 「何してるんですか?」  乙女が玄関から現れた。黒を基調としたパンツスタイルの私服に着替えていた。荷物は、肩にかけたボストンバッグと左手に提げた通学用カバンだけだ。  あわてて通帳をポーチごとマオのスリングの中にねじ込む。 「余計なこと、話さないでください」 「世間話してただけよ」  つぐみさんの姿に隠れて、何をしていたかはわからなかったようだ。 「私の幼馴染が、どこかの国で大もうけしてるって話をしてただけ」  その言葉で。  冷徹な乙女の表情が、怒りに染まる。 「やめてよ!」  乙女の拳が玄関の壁に突き刺さる。文字通り、だ。石膏が陥没し、拳の半ばまでめりこんでいた。  拳を引き抜く。大またで歩きながら無言でつぐみさんとすれ違う。石膏の白い欠片がついたままの手で、郁人の肩を引いた。 「行くわよ」 「あ、ああ」  玄関を振り返る。  夕暮れに染まる赤い玄関先で、つぐみさんが変わらない微笑んで手を振っている。  血がつながっていないとはいえ、赤ちゃんのころから十数年見てきた子を、まるで遊びに行くの見送るように手を振る。  二人の関係がどんなものか、郁人には判断できない。  ただ、その姿を見て、身震いがした。                     6  月曜日。  郁人は登校した。  マオは乙女に預けてきた。この学校の授業は乙女からすればレベルが低く、出席日数的にクリアできる程度で登校はよいとのこと。マオの世話も、日曜日に一通り教えたら、すぐにできるようになった。  また、日曜日は水天宮さんに書類的な手続きを教えられた。  本来は出生届が必要になるが、今回は暫定的なものとして処理してくれるとのこと。これで、マオを未来に返したとしても、行方不明にはならない。一方で、児童手当や保険証交付、医療費助成や予防接種など福利厚生は通常通り受けられる。  市長であるお父さんに状況を説明し、理解を得たらしい。さすが、市長。市民が聞いたら問題になるんじゃないかと心配するほどの職権乱用っぷりだ。  便宜上、名前も『子安茉央』とした。 「茉央、ねえ」  図らずも意味まで調べてしまった。音は魔王からきた案直すぎるネーミングなだけに、字は辞書を引きながら、凝ってみることにした。一番素直に字にするなら『真央』だが、男にもいそうな名前だし「真の中央」では本当に魔王になってしまいそうだった。だから茉莉花(ジャスミン)の字を取った。  水天宮さんからは「かわいい名前だね」とお褒めの言葉を授かったが、乙女は「キモ」と一言。『乙女』なんて名前のやつに言われたくはない。  教室に入る。  金曜の昼以来だが、妙な違和感があった。  朝の時間はもっと喧騒にあふれているものだが、妙に静かだ。みんな、妙にうつむき加減で、押し黙っている。  水天宮さんが黒板を消していた。  妙にあわただしく、いらだたしげでさえあった。  ついさっき消したばかりらしい。うっすらと文字が読み取れた。 『入谷乙女は金でなんでもやる女』  うぐっ、と静まり返った教室に鼻をすする音が響く。  ほかでもない、水天宮さんだ。  嗚咽まじりに黒板を消している。  なんで水天宮さんが泣くんだ――と思うと同時に、彼女だから泣くんだ、とも思った。  郁人と違い、クラス委員としての責務を全うしようとしているのが彼女だ。愛想の悪い転校生をクラスになじませようと身を粉にしているはずだ。なかば乙女の自業自得とはいえ、こんなのは許せないだろう。  あまつさえ、彼女自身も同様のことを経験しているはずだ。  郁人は掃除ロッカーから雑巾を取り出す。嫌な感じに湿っているが、今はちょうどいい。それで黒板をふき取る。 「……郁人くん」 「あとはやるから、水天宮さんは顔洗ってきな」  涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。  水天宮さんはしばらく考えたあと、「うん」と小さくうなずき、教室を出て行った。  とりあえず文字が見えない程度にふき取る。  振り返ると、最初から変わらない様子でいた。明らかに青ざめている連中もいる。  郁人は、深くため息をついた。  自分で言うのもなんだが、このクラスの連中は悪人というわけじゃない。ただの、普通の学生だ。時にはちょっと悪ノリしてハメを外すこともある。これだって、特に深い意味がない、ちょっと過剰なまでに周囲を拒絶する転校生の意外な情報を手に入れたから、軽いいたずら程度にやったのだろう。  それで誰かを――たとえば、感受性の高いクラス委員を傷つけることになるなんて、思いもしない。 「――くそ」  床に雑巾をたたきつけて、郁人も教室を出て行く。  乙女のことは同情しない。こういう事態は織り込み済みでやったんだろう。  もろもろの連中をぶん殴りたい気持ちでいっぱいだ。だが、そんなことしたって水天宮さんは予定に気を病むだけだ。それに、書いたやつ――さらにはそれで盛り上がった連中――はとっくに後悔してる。水天宮さんの涙で、自分のやったことの意味を刻み付けられたはずだ。  水天宮さんは廊下の水道で顔を洗っていた。  一切の加減なく水を自分の顔にたたきつける。水が飛び散って服や床を濡らしていた。その様子に、廊下を行き交う人たちもちょっと引いているように見えた。  郁人もすぐ横で、とりあえず手を洗う。いい加減、雑巾のぬめりが気持ち悪い。 「――郁人くん」  したたか濡れた水天宮さんが、郁人のほうを見上げる。大きな瞳から、水道水とは別の水がつっと流れる。  なんて。  弱くて優しい人だろう。  光速で骸骨どもを蹴散らすことができるのに。  悪意とすら呼べないからかいにさえ、深く心を痛めてしまう。  ハンカチを彼女に渡しながら、郁人は思う。  仮にマオが真の魔王として君臨した場合、この人はそれを討つのだろうか。 「ごめんね。変だよね、怒って泣いちゃうなんて」 「変なことない。前にも言ったじゃないか。泣きたいときは泣いたほうがいいって」  水天宮さんは首をふる。 「もう大丈夫」  そういって笑顔を作る。いつもどおりの笑顔なのが、逆に心配になった。 「なんだか、乙女ちゃんに噂があるみたいなんだ。前の学校で、危ないアルバイトをしていたのがばれて転校することになったって。実際に、依頼した人もいるんだって」 「あいつが、ねえ」  なんとなく、しっくりきた。あの札束が入った財布、骸骨戦士を圧倒した身のこなしなど、普通の高校生とは思えなかった。 「あとは――その――特殊なサービス業、とかをね」  うつむきながら、とても言いにくそうにしている。ちょっと顔赤い。 「いや、そういうのはないんじゃないかなぁ」 「そ、そうだよね。マオちゃんのお母さんだもん、そんなことしないよね」  単に「処女だから」と言ってたのが根拠だけど、そんな説明できないので曖昧にうなずいておく。 「仮にそういうことやってたとしても、いいんだけど」  とりあえず、怒りや涙は引いたようだ。郁人は、一応安心する。  クラスの連中も、さっきの様子ではもう悪ふざけもしないだろう。 「まあ、あいつはそんな話、気にしないと思うけどな」 「だめだよ郁人くん。ちゃんと気を使ってあげないと。マオちゃんのお母さんになる人なんだから」  そういうことを水天宮さんに言われるのは、ちょっと切ない。 「あ、そうだ。方法、見つけたんだ。未来へマオちゃんを届けて、私だけ帰ってくる方法」 「え、そうなの?」  水天宮さんはうなずく。 「日食だよ」  意味がわからなかった。たしかに、半月後には日本で皆既日食が見られると話題になっている。それがこの場合どう関係するか、わからなかった。 「日食は月と太陽と地球が一直線になることだよ。未来から超高速で過去に行くことはできる。けどそのとき、ものすごい余波が発生して、大変なことになってしまう。そこで日食のときに、月と太陽の間へ戻ってくるようにすればいいんだよ。月と太陽の重力場の影響で次元に歪みが生じてるからちょっとこじ開けても影響は低いし、仮に強い衝撃波が生まれても、月が盾になるから地球へは届きにくいと思うんだ」  一応、筋は通っている気はする。 「それって、水天宮さんが考えたの?」 「そんなわけないよ! パパが市役所で魔王対策チームを結成したんだ。そこで考えてくれたの」  いいのか市長、そんなことに税金使って。  いや、世界の危機なわけだから、本来なら真っ先に対応してもらわないといけないことなんだが。なんだか市役所が予算使って魔王と対峙するというと、違和感を禁じえない。 「だから、日食までがんばろう!」  希望があるのはいいことだ。  水天宮さんの笑顔には、希望を素直に信じられるようになる力があるように感じた。  まるで、太陽のようだ。  昼休み。郁人は図書館のパソコンを使っていた。  数分の利用なら、申請すれば自由に使っていいことになっている。  ――入谷冥。  入谷姓を手がかりに父親のことを調べたら、思いのほか早く見つけられた。  株や投資で財をなす、いわゆる相場師だ。ただ、その実力は桁違いである。あらゆる不況のときも、儲け続ける。それで、世界的なトレーダーとしてのし上がってきた。  まるで未来を覗けるかのようだ、とする評もある。  彼へのインタビュー記事を見つけた。原文は英語のようだが、日本語に直した記事だ。  「そんなに儲けて何がほしいのか」との質問だった。 『月がほしい。私の妻が死ぬ間際に言ったのがそうだ。妻とは大学で知り合った。恐ろしく美しく、あらゆる男たち――もしくは一部の女子も――彼女に惚れていた。いわゆる傾国の美女とでもいうか、彼女は自分が望む望まないに関わらず、他人を不幸にしていった。ついに彼女をめぐって決闘沙汰が起こり、ついには私が立ち上がった。さながら、世界をなきものにする魔王に立ち向かう勇者のようにね。そして彼女は私のものになった。月を条件にね』  そして、奥さんとの結婚写真も載せてあった。  乙女だ。  長い黒髪も、左目の三ツ星の涙ぼくろも、乙女そのものだった。  ただ彼女と違うとわかるのが、穏やかな笑みを浮かべていること。あの女はこんな表情はしない。  この写真の女性が乙女の母親だろう。 「…………」  郁人はパソコンを閉じた。  こんなことを調べたって、入谷乙女のことは何もわかりやしない。  なぜあんなにかたくなな態度をとるのか。何でも屋として危ない仕事をしていた、という話とも関係があるんだろうか。                     *  太陽が届かないよう、カーテンでさえぎる。部屋の中が暗くなった。  昼下がり、乙女がちょうどマオを寝かしつけたとき、彼女のスマホが震えた。  五秒間の連続振動。万年バイブ設定にしているが、この震え方の意味は決まっている。ほんの少しだけ、ため息をついた。 『もう連絡しないと決めたけど、すみません。最後の最後にお願いしたいことがあります。場所はC二。時間は今から。一〇〇万。依頼内容は物理的復讐です』  中身を読んで、もっと深いため息が漏れた。  別の画面を開く。予定表だ。過去の予定を一覧にして、読み返した。 『十月五日 精神的復讐 五〇万  十月二日 荒事 二〇万  九月一五日 書類作成 一万』  これが乙女の裏稼業だった。いわゆる何でも屋で、主に法的にグレーなものから黒いものの間を扱っていた。前の学校は伝統ある進学校だが、逆に表立ってできない物事を抱える人は多いようで、需要はあった。  正直、一〇〇万は格別な価格だった。有名大学の替え玉受験でさえ六〇万。誰かを痛めつけるだけで、それだけの金額が手に入る。 「……ふん」  テーブルに放り投げるようにスマホを置く。  それと同時にマナカが部屋に入ってきた。 「こんにち――は」  乙女だけと見るや、とたんに表情がこわばった。  きっと嫌われてるんだろうが、それはお互い様なので気にしない。 「ねえ」 「は、はいっ」  声をかけると、びっくりしたようにこっちを向いた。 「あの子、ちょっとの間見ててくれない? 今は寝てるし、一時間くらいで戻るから」 「え。あ……はい」  子供に子供を任せて行くのは抵抗があるが、もうじき郁人も帰ってくると思うので問題なかろう。  出て行こうとしたところで声をかけらた。 「あの、ママ?」 「そのママっていうの、やめてくれない?」  「うっ」と、マナカはうつむいてしまう。  泣きそうな表情に、乙女はうんざりする。だから子供は嫌いだ。 「で、なに。用があるから呼び止めたんじゃないの?」 「その……気を、つけて」  そんなことか、と思うと同時に。なんとなくこの子は事情を知っているんじゃないかとも思えた。  だから、あえて答える。 「全部、折込済みよ」  事の顛末はこうだ。  何でも屋として、ある生徒を陥れた。その生徒からひどくいじめられた生徒からの依頼で、簡単にいえば復讐だった。  依頼は全うした。だが、復讐を受けた側は怒りの矛先を乙女に向ける。無論、特定されるようなミスはしなかった。だが、自分を陥れたはずの依頼者を懐柔することまでは予測していなかった。  依頼は人を介して受けている。だが、ちゃんと手順を踏めば、自分まで行き着く。  そして自分の存在は明るみになり、学校からは転校を余儀なくされた。  乙女はC二に到着する。  記号で呼んでいるその場所は、港沿いの廃棄された古い倉庫内だった。相続関係で何十もの権利が重複して、結局誰も手をつけずに打ち捨てられた不動産だ。無免許での司法書士業務を行った際に見つけた物件だが、この手の表ざたにできない話をする場合はうってつけなのでよく利用していた。  倉庫内は埃と鉄の臭いが充満している。錆びたコンテナが無造作に積み重ねられている。日が傾きかけた時間帯のせいもあり、倉庫内は薄暗い。  乙女の足音だけが、梁がむき出しになった高い天井に響く。 「あはははは!」  耳障りな女の声が、倉庫内に反響する。幾重にもこだまする嘲笑は、ただただ不快だった。 「バカね、まんまと騙されるなんて」  コンテナの上に、女子生徒の姿があった。乙女と同じ制服を着ている。顔の左半分は包帯に覆われており、開いた右目は暗がりの中でさえわかるほど血走っていた。  その足元には、連絡役に使っていた他校の男子が転がっていた。あえて校外に連絡役を作ることでカモフラージュしていたが、きちんと追いかけていたらしい。 「この人なら大丈夫よ。眠らせてるだけ。用事があるのはあなただけだから」 「ああ、そう」  彼にはそれだけの報酬は出しているので、折込済みだ。 「あたしの顔をこんな風にしてくれて――きっちり、お礼をさせてもらうわよ」 「別にそれは私がやったんじゃなくて、あんたが自分でやったんじゃない」  陰から人を使って、いじめている子を傷つけようとしたが、その連絡系統を混乱させて、彼女自身に向かわせた。 「うるさい!」  彼女の一喝で、コンテナの陰から何人もの男が現れる。  一瞥するが、十二、いや十三人か。金髪、トサカ、スキンヘッド、鼻ピアスに刺青――いかにも素行が悪そうな連中だ。全員、鉄パイプや木刀など武器を持って、にやついている。 「みんなには、お前を好きにしていいって言ってあるの。お前にはあたしの苦しみを倍にしてやらなきゃ気がすまない」 「ねえ」  肩をすくめながら、乙女が言う。 「一斉に出てきたけど、あんたたち、どういう気持ちでコンテナの裏に隠れてたの? 安いドラマなんかでわらわら出てくるやられ役みたいだけど、自覚あるのかしら」  場が、凍りつく。  構わず乙女は視線を、コンテナの上の彼女に向ける。 「あなたもあなたね、近衛まゆりさん。よくもまあ恥ずかしげもなく、小悪党みたいなせりふが吐けるわ。逆に尊敬する。私ならとても耐えられない」 「このアマ、よくも――」  ぷ、と乙女が吹き出す。 「このアマ、だって。センスがすっかり昭和だわ。おもしろいから、あとでみんなに聞かせてあげたい」  そしてポケットから、ICレコーダーを取り出す。  まゆりの表情が途端にこわばった。 「本当は迷惑料とかもらいたいところだけど、これ以上付きまとわれるのも面倒だから、いいわ。私のこともう放っておいてくれるなら、コレは誰にも聞かせないでおく」 「そ、そんなの、パパに頼めば――」 「警察官僚のお父さんのこと? いよいよ小悪党ね。権力でもみ消す、なんていつの時代の話よ。今の時代、権力があるからこそ、よく燃えるんだと思うけど」 「――ふっ」  と、思い出したように、まゆりが笑った。 「って、別にいいのよね。それ、壊せばいいんだから。さあ、あんたたち、もういいからやっちゃって。高い金払ってるんだから、ちゃんと働くのよ!」  その声を合図に、男たちがゆっくり距離を詰めてくる。  さすがに十人以上を一気に相手するのは無理だ。セオリーどおりいくのなら、手薄なところを狙い、逃げ出すことを考える場面だろう。 「さて」  レコーダーをポケットに戻し、代わりに小銭を取り出した。  百円玉だ。  両手に構えて、迫ってくる男たちに向ける。 「――あ?」  正面のスキンヘッドの大男は、一瞬だけ歩みを止めるが、それがただのコインだと気づいてか、また距離を詰めてくる。 「なんだよそれ、おっかねえなぁ」  あからさまな薄ら笑いを浮かべていた。 「たしかに、おっかないわよね」  一言つぶやき、乙女は放つ。 「飛べ、一〇〇円!」  その瞬間、銀色の一閃が倉庫の暗がりを貫き、スキンヘッドの額に直撃する。 「――痛てっ」  スキンヘッドは直撃した箇所をさする。跳ね返ったコインがコンクリート床に落ち、乾いた音を立てた。  ちゃりん、という音が倉庫内にむなしくこだまする。 「な――」  百円玉は、通常指で弾いた速度で飛び、通常ぶつかった程度の威力を発揮し、そして通常通り落下した。  百円玉が残っている。  前に郁人を相手に検証したときは、直撃と同時に消えうせていた。昏倒した郁人を復活させたときも、握った硬貨はなくなった。所持金を消費することで魔力を行使する――そういう力だと思っていたが。  使えなくなっている。 「あはは、なによそれ、バカじゃないの! マンガじゃないんだから、コインで人間を倒せるわけないじゃない!」  高所からまゆりが笑う。  とたんに恥ずかしくなる。  切り札が使えなくなり圧倒的に不利な状況だが、なにより本気でコイン投げしたバカと認識されたのが途方もなく屈辱だった。このまま消えてしまいたい。 「おらよっ!」  スキンヘッドが手にした鉄パイプを大きく振りかぶり、乙女に向かって叩きつけてくる。  直撃の瞬間、半歩踏み込む。相手のひじを絡めとり、重心を奪い、攻撃の勢いをそのままに投げ飛ばした。  スキンヘッドの巨体が弧を描く。  背中から地面に叩きつけられ、動かなくなった。 「――ああ、もう」  通常通り投げれば、通常通り倒すことができる。  検証が甘い技術など使うべきではなかった。 「なにやってるのよ、一斉にかかりなさい!」  他の男たちが一気に詰め寄ってくる。  ざっと見る。スキンヘッドがいた正面は、やや手薄だ。そちらに向かって駆け抜ける。  足の速さなら負けない。相手は武器を持っているし、その分速度も落ちる。逃げ切れる。  惜しむらくはこの場でまゆりから逃げる形になることだが、それはあとでどうとでもできる。  そう思ってまゆりのいるコンテナに目をやったときだ。  光るものがあった。 「――ッ」  すかさず身を翻す。  風を切って飛来する光。乙女の体を掠め、地面に当たる。猛烈な速度で跳ね返ったそれは、男の一人の足に命中した。 「ぎゃあああ!」  悲鳴とともにもんどりうつ。男の足には、鈍く光る矢が突き刺さっていた。  ボウガン。  体勢を崩した乙女に、一人の男が迫ってきた。何も持っていない――いや、右手には黒い箱状のものを握っている。その先端は青白い光を放っている。  とっさに防御するが、かばった腕ごと全身に衝撃が走る。  踊った。  文字通り、目の前が真っ白になる。  かろうじて意識をつなぎとめる。どうやら床に転がった状態みたいだが、それ以上は何もできない。  あれはスタンガンだった。  動けない。痛みすらない。全身が、限界まで正座したときの足首みたいに感覚がなくなっていた。  そういえば、連絡役だった彼も昏倒していた。おそらく同じように電気を食らわされたのか。 「ふふ、これでおしまいね」 「なあ、近衛さんよ。あそこにあんたの矢でやられたやつがいるんだが」 「知らないわよそんなの。その分の金は出してるんだから、自分で病院行きなさいよ」  ずいぶんな言い方だったが、意見にはおおむね同意だ。 「それより、さっさとやっちゃったらどう?」 「ま、それもそうだな」  ちかちかする視界の中で、男たちが下卑た笑みを浮かべながら乙女を取り囲む。  相変わらず動けない。 「へへ、こいつマジで美人だな」 「ていうか、生きてるんか? ぜんぜん動かないけど」 「んなもん、別にもうどっちでもいいんじゃね?」  口々に言いながら、乙女の体に手をかけていく。  このまま犯されるのか、と乙女は妙に冷めた感想を抱いた。  その場合、孕むことはないんだな、と妙に覚めた思考がよぎる。確定された未来が、郁人との間にできると告げているから。あるいは、一度は孕んで、堕胎するか。  どっちでもいいか。  もう考えるのをやめようと思ったときだ。  赤ん坊の泣き声が聞こえた。 「な、なんだ」  目を開く。  幻聴かと思ったが、驚く男たちの様子を見るに、実在する声らしい。  ――まったく。  コンテナの陰から、青白い骸骨が現れた。  空き地で襲い掛かってきたのと同じタイプだが、薄暗い倉庫の中で見るといかにもな雰囲気をかもし出していた。 「な、なんだこいつ、どこからきやがった!」 「ふざけやがって!」  一人が金属バットで骸骨の頭部を殴りつける。頭蓋骨が粉砕する。  が、数秒と待たず再生した。  次の瞬間、骸骨から赤い瘴気が発生する。 「な――」  金属バットの男が、骸骨のひと薙ぎで数メートル吹っ飛ぶ。コンテナに激突し、そのまま動かなくなった。  骸骨は落ちた金属バットを掴み、無造作に投げつけてくる。音より早く飛来したバットは、轟音を立ててコンテナに突き刺さった。  あとは恐慌だった。  男たちは逃げ惑い、人知を超えた速度で迫る骸骨になぎ倒されていく。 「ママ、大丈夫?」  マナカだった。泣きじゃくるマオを抱いている。 「……なんでここに?」 「えっと、マオが起きちゃったから――」  下手な言い訳だ。まさかこんな子供に心配されるとは。  乙女は起き上がる。なんとか体に感覚が戻ってきた。  乱れた服を直し、マオを抱きかかえる。  それだけで、すっと泣き止む。 「……はあ」  本当に、嫌になる。  一体、何が違うというのだ。ただの遺伝的つながりというだけで、ここまで違うものなのか。もっと子供の扱いに長けた水天宮あかりではなぜダメなのか。  気づけば、男たちの悲鳴が消えていた。全員、打ちのめされたのだろう。  コンテナの陰から、骸骨が現れる。こちらを見つけ、体を向きなおした。 「これ」  マナカが百円玉を渡してきた。さっき飛ばしたやつだろう。  マオを抱えたまま、百円玉を指の上に乗せる。  高速で接近する骸骨に向けて。 「ふっ飛べ、一〇〇円」  コインは一条の銃弾と化し、骸骨の頭部を吹き飛ばす。  そのまま地面に崩れ落ちる。  できた。  マオを見やる。さっきと違うのは、この子がいることだ。考えてみれば、魔力はこの子から流れてきているという。ならば離れていたら使えないのが道理か。  倒れた骸骨が、復活しようと動き出そうとする。マナカがスプレーを吹きかけた。  骨が砕けて灰になり、そのまま消えてしまった。 「それは?」 「ハブリーズ」  液状の脱臭用スプレーだ。 「聖水なら浄化できるって言ってたから」  それって聖水といえるんだろうか。  とにかく、効果があるならよかったが。 「まあ、長居は無用ね。行きましょ」  倉庫を後にする。  襲われた連中の安否はどうでもよかった。運がよければ生きてるし、そうでなくても知ったことじゃない。 「ごめんなさい」  マナカがふいに謝ってきた。 「なにが?」 「さっき、またママって言っちゃった」  そういえば、駆けつけてきたときに言われた気がした。 「別にいいわよ。好きに呼べば」 「本当?」 「そんなことに嘘ついてどうするの」 「――ありがとう」  マナカが笑顔を浮かべる。この子の笑顔を初めて見た気がした。 「大体、本当のママはどうしたのよ」 「本当のママは、わからない。私のこと生んで、どこか行っちゃった」 「へえ」  悪いことを聞いた、とは思わなかった。よくある話だ。 「父親は?」 「パパはちゃんと育ててくれた。ママとは別の、お母さんも一緒に。ただ、もう誰もいなくなっちゃったけど」 「そう」  それだって、ままある話だ。  生まれたばかりの子供を他人に預けて、金だけ送って責任を取ったつもりになっている親だっている。バカな親ならいないほうがマシだ。  ただ、それを子供に言ってもしかたない。それくらいの分別はある。だからさっきのことも金を払おうとは思わなかった。 「ねえ、ママはマオのこと、どう思ってるの?」 「どうって?」 「その、好きとかどうとか」 「どっちでもない。正直、何の感情も抱かない」 「そう」 「血がつながった親子は無償の愛でつながれる、なんていうけど、そんなことあったら世の中から虐待の問題はなくなるわよね」 「私は、あってほしいと思う。無償の愛っての」  乙女は鼻で笑いかけるが、マナカの表情を見て、何かを思い出した。  子供のときだ。  明日、迎えにきてくれるんじゃないかと待ち続けた日々。 「人生の先輩として言わせてもらえば、あきらめたほうがいいわよ。愛は求めるもとでなく与えるもの、なんて誰かが言ってたけど」 「わかってるよ」  マナカは笑う。もう九割九分、あきらめている笑顔。 「それでも、ほしいんだ」                     7  日食の日が来た。  休日の校庭に来た。ここなら邪魔が入ることもない。それに、マオと出会ったこの場所が、別れの場所にふさわしいとも思った。  誰もいない学校の木の下で、水天宮さんがマオを抱きなおした。 「それじゃ、行ってくるよ」 「気をつけて」  郁人が声をかける。  マナカも無言で頷く。  乙女は一歩引いた位置で、相変わらずの無表情。ただ、じっと水天宮さんの腕の中で早速ぐずりだしたマオを見つめていた。 「最後の最後まで、他の人じゃぐずるのかよ。やっぱり寝かしてからのほうがよかったかな。ほれ」  郁人が受け取ろうとしたところで、マナカがさえぎる。 「最後は、ママに抱っこしてもらったら?」 「なんで私が――」 「この子、きっとママのほうが好きだから。そのほうが、ちゃんと泣き止むんじゃないかな」  たしかに乙女が抱いたほうが泣き止む時間は短い気がしていた。母と父の差だろうか、と妙な物悲しさを覚える。 「……いい迷惑だけどね」  舌打ち混じりながら、乙女はマオを受け取る。その抱き方は、手馴れたものになっていた。 「毎晩毎晩夜中に起こされて、シモの世話もやって。それがなくなると思っただけで、せいせいするわ」 「お前な、最後の最後にそんな言い方ないだろ」 「言い方もなにも、事実でしょ。私なんかになついたってしかたない。さっさと元の時代に返ったほうがいいんじゃない」  乙女なりの気遣いだろうか。 「それは違うよ」  マナカが否定した。 「マオはママのこと大好きだよ」 「たしかに、こんなんでも親は親だからなぁ」 「あんたに言われるととてつもなく不愉快ね」 「郁人くんも乙女ちゃんも、最後なんだからだめだよ」  と、こちらに近づいてくる小さな影があった。 「あれ?」  子犬だ。  ふわふわした毛並みのトイプードル。 「あれ、この子」  水天宮さんが何かに気づいた。  それで郁人も思い出した。  いつか、水天宮さんと一緒に持ち主を探した犬だ。 「こいつ、また迷子になったのか」 「わあ」  マナカがぱっと顔を輝かせて、抱きかかえる。こんな無邪気な笑みを浮かべるなんて、やはり子供なんだな、と妙な感慨を覚えた。  子犬の首輪にリードがついたままだ。だが、異様に短い。  リードが切られている。なにか鋭利なもので切断されたのか、切り口がまったく潰れていない。  と、乙女が一歩退いた。見ると、露骨に顔をしかめている。 「そういやお前、犬が怖いとか言ってたっけ」 「怖くない、嫌いなだけ。日常性と危険性から比較した中でもっとも指標が高いというだけで」  ようは怖いということだろう。 「あんまり緊張してるとマオにも伝わるだろ」 「ならあんたが持ってよ」 「わっ」  子犬を抱えていたマナカがバランスを崩してよろけ、乙女のほうにぶつかる。 「きゃあ!」  と、乙女が女の子みたいな悲鳴をあげた。実際、女の子ではあるが、彼女からは聞いたことない類の声だった。  もっと驚いたのは、マオのほうだったらしい。乙女の腕の中で、泣き始めてしまった。  全員が、無言で乙女を見る。 「な、なによ、私が悪いっての?」 「別にそうは言ってないけど」 「けどなによ!」  乙女が顔を赤くして怒る。さっき「きゃあ」とか言っちゃったこともあるのだろう、珍しく感情をあらわにしていた。 「まあとにかく落ち着け。マオ、泣いてるし」 「わかってるわよ!」  異変に最初に気づいたのは、水天宮さんだった。 「――あれ?」  それでマナカも気づいたか、腕の中のトイプードルに視線を落とす。  子犬が、成犬になっていた。 「え? 大きく、なってる?」  見る見るうちに、さらに大きくなる。驚いてマナカが地面に放り投げた。  地面に着地した犬だが、苦しげに震えている。全身から毛が抜け落ち、代わりに黒々としたウロコが現れた。  おかしい。  郁人は、泣きじゃくるマオに向き直る。 「入谷が抱いてるのに、魔力が漏れてる?」  別の生物と化した犬はさらに巨大化を続ける。甲高かった鳴き声は低いうなり声となり、首が伸びて頭からは太くねじれた角が二本現れ、背中から悪魔のように黒く鋭い翼が生えた。  ドラゴンだ。  四階建ての校舎と同じくらいの大きさにまでなったところで、黒かったウロコが虹色に輝きだす。鏡のように景色が反射して映ったり、逆に透明になって向こう側が見えたりと、ウロコの一枚一枚が万華鏡のように千変した。  マナカがムーウアを取り出す。 『おおお、これぞ魔王様が魔力の粋を結集して生み出した対勇者用最終兵器、次元竜! そのウロコは次元障壁でこの世のあらゆる干渉を遮断する無敵の盾! 同時に、この世のあらゆる法則を打ち崩す最強の矛でもある! いかに勇者であろうとも、それを打ち破ることはできぬ!』  ドラゴンが、音も風もなく飛び立った。  重力を無視した動きで、学校の上空を旋回する。 「くそ、最後の最後になんだってこんなの……」 「殺すしかないね」  マナカが言った。まるで「猫が顔を洗ってるから明日は雨だね」と言うように、日常的な調子でこぼした。 「あのワンちゃんも。あと、魔王も」 「だ、だけどマオは未来に返すって」 「無理だよ」  ふと、空にかげりができた。  雲でも出てきたかと思ったが、違う。太陽が欠けてきている。  日食が始まったのだ。 「次の日食は一年近くかかる。その間に、世界は何回の危機にさらされるんだろう」 「たしかに、それが現実的な見方ね」  乙女が同意した。 「お前まで――」 「私たちがいたって、魔王は力を行使した。成長したのか、他に要因があったのか、わからないけど。とにかく、たしかな安全なんて保障できない。今すぐ対処しなければならない」 「そんなの――」  水天宮さんは、今にも泣きそうなほど震えている。 「何か方法はないのかな?」 「ない」  乙女が断じる。 「けど、最善策はある。日食が完成するまでの数分間であのドラゴンを倒し、この子を未来へ送り出して、帰ってくること。そうすれば、子安が水天宮の代わりにこの子を殺さなくて済む」  上空のドラゴンが輝き始める。  大きく開いた顎から、虹色の球体が地上へ向かって発射された。 「――っ」  振り絞るように両手を閉じ、水天宮さんは金色の光と化す。  一条との閃きとなり、ドラゴンの発射した球体を貫く。  空が割れた。  ひび割れたガラスのように亀裂が入り、その裂け目が爆裂する。空一面が白い閃光に満たされ、そして一瞬で消え去った。  最初にマオが現れたときの爆発と同じだ。威力は桁違いだが。あれが街の中心に直撃したら、跡形もなく吹き飛んでしまう。 「……なんで俺がこの子を殺すことになるんだよ」 「殺すわよ」  つまらない数式を解くように、乙女は答える。 「誰かが手を汚さなければならなくなったら、水天宮はきっとそれをやる。だからあんたが、その前に手を打つ。死ぬほど迷って、死ぬほど後悔するだろうけど」  わからない。本当にそうなったときにそうするのか、想像できなかった。  マナカが冷めたように告げる。 「でもママ、さっきの最善策って、欠陥があると思うんだけど」 「わかってる。でも、そうでも言ってけしかけないと、踏ん切りつかないでしょ。手をこまねいてドラゴンに焼かれるよりは、いい手だと思うけど」 「どういうことだよ」  乙女が首を振る。 「水天宮は絶対に間に合わない」  光速内はゼロ時間である。  毎秒二九・九七九二四五八万倍に圧縮された世界。光と化したあかりからは周囲はほぼ停止して見える。  可視化した光を刃にして、ドラゴンの体につきたてる。  だが、通じない。  あるいは、何の抵抗もなく反対側にすり抜けてしまう。  光速の波状攻撃は、外から見れば一瞬にも届かない時間で何十何百もの閃光が怒濤のように吹き荒れるすさまじいものと見えるだろう。万物精霊の加護がなければその一撃だけでも地球が消滅するほどの威力だが、ドラゴンには何のダメージも与えられていない。  ドラゴンのウロコは別次元の障壁である、とムーウアが言っていた。  ――それなら。  あかりはドラゴンの開きっぱなしの口に飛び込もうとする。  すんでのところで、踏みとどまった。  口の中を無数に覆う体毛。その一本一本が、ウロコと同じ次元障壁だ。これだけの細さと密度になると、強靭な刃になる。飛び込んだ瞬間、ズタズタにされるだろう。  外からも中からも攻撃が通じない。  それでも、ひとつだけ次元障壁を貫く攻撃があった。  ――でも、それには……。  太陽を見る。  四割ほどが月に呑まれていた。光の量は普段の半分ほどである。  あかりの能力は光の量に依存する。日中に力は最大限に高まり、夜になると低下して眠くなる。日食中も同じように、力は制限される。マオを未来へ送るため、なるべく貯めておかねばならない。 「たあああああ!」  音速など問題にならないほど加速された世界で、あかりはあえて叫ぶ。  残った力を全開にして、ドラゴンのどてっぱらを下から突き上げる。絶対防御に阻まれ衝撃は跳ね返される。しかし衝撃は殺しきれず位置エネルギーの上昇へと変換される。  すなわち、ドラゴンの体が空へと向かう。  絶対的な強度を誇るだけで、反応は光速には遠く及ばない。ほぼ無抵抗で、ドラゴンは空へと浮かばせ続けられる。  停止した世界で、風を切り雲をかき分け成層圏を突き抜ける。あらゆる生命が生存できない真空と宇宙線の飛び交う空間へと到達する。  しかし、ここには光がある。大気の壁に遮られない、ありのままの太陽光だ。  そして、力の余波で壊れる街もない。 「はァッ」  地上とは桁違いの光を放出し、ドラゴンの体を一気呵成に押し流す。  三八万キロメートルを一息でふっ飛ばし、月の裏にドラゴンの体を叩きつける。  新たなクレーターが生まれた。  アルミと無数のレアメタルを含有した土煙を大量にあげる。真空かつ低重力の月面での爆煙は放射状に拡散した。  猛烈な速度で膨らむ煙に、月面上空を漂うあかりも巻き込まれる。  土石流のようなそれに飲み込まれた瞬間、太陽も月光も星のまたたきすら消えうせる。  ――まずい。  体から力が抜ける。地球から持ち込んだ万物精霊の加護により宇宙服のように大気をまとわせていたが、それも穴が空いた風船のようにしぼみ始める。月地表の粉塵によって可視化された大気の球が見る見るうちに削られていく。  脱出しなければ。  そう思った矢先だ。  灰色の雲と化した煙の中を、無数に枝分かれした空間の亀裂が走った。 「あ」  郁人の顔が脳裏をよぎる。  どれだけかわからない気絶状態から復帰したあかりは、まず自分が助かっていることに驚いた。  光を遮断されろくに防御もできない中で空間爆裂に直撃したのだ。木っ端微塵になってもおかしくない。本当に奇跡的な偶然だった。無尽蔵の土煙の中において、蜘蛛の糸ほどの細い光があかりの頬を照らした。  道しるべにも似たそれをたどり、間一髪、爆発範囲から離脱した。それでも逃げ切れずに爆風にあおられはしたが、幸い命は残っている。  全身、ズタズタだ。体は軽い擦り傷と火傷で済んだが、とても街中を歩ける格好ではない。  月面を見て、言葉を失う。  丸いはずの月の一部が、ぶつけた卵のように陥没していた。これが地球だったら、日本の国土の九割は消えていたはずだ。  周囲には砂利石から山くらいの大きさの岩塊まで無数の月の欠片が漂っていた。  ドラゴンの無差別攻撃の名残だろう。  と、場違いなアラームが響き渡る。  あかりはスカートから携帯を取り出す。あの爆風にあおられてなお無事だった。さすが、余計な機能がないだけあってらくらく電話は頑強である。  その少ない機能の中で使った、予定表。皆既日食の瞬間である。  マオを届ける時間に、間に合わなかった。  だけど、覚悟を決める。  それなら月を半壊させた目の前の脅威に全力を傾ける。  ワンちゃんとその飼い主の女の子の顔が脳裏をよぎるが、光の速度で意識の外に置いやった。  月の一部が吹き飛ぶ瞬間を、多くの人が目撃した。  皆既日食の直前と言うこともあり、月の裏側の爆発により舞い上がった粉塵が、太陽光に晒され、肉眼でも観測できるほどのモヤになって見えたのだ。  その直前にも関東平野上空での謎の爆発や、天へと昇る光の筋が目撃され少し話題にもなったが、日食という世紀のイベント中とのこともあり、かえって話題にはならなかった。  とりわけ、その正体が少女勇者が万華鏡ドラゴンとの死闘があったことなど、想像だにしない。  あかりは地球上に降り立った。  と同時に、重力に体を預けて地面に崩れ落ちる。 「はあ、はあ、はあ――ぐずっ――ぶわあ」  地上はまだ日食の後半。皆既状態から太陽がわずかに顔を覗かせた、ダイヤモンドリングと呼ばれる状態だった。力を取り戻すほどの光量ではない。 「――ごめん――うぐっ、ああ、わあああ!」  光速を越えた一撃で、ドラゴンの首を落とした。  月と太陽の重力場の中で、超光速の一撃の余波は地球まではほとんど届かなかった。月はさらに大きくえぐれることになったが、裏側のことなど次のアポロ計画に任せればいい。  そんなことより、何の罪もないワンちゃんを手にかけたことのほうが重要だ。 「うあ、はあ、あああ――」  息も絶え絶えの中、それでも泣き叫ばずにはいられない。  そして、この悲愴もまだ序の口だ。  これからもっと冒しがたいモノを手にかけなければいけない。  勇者としての宿命。  なんて、かわいそうな人だろう。  そんなだから、近づく刺客に気づかないのだ。 「えっ?」  そっと耳に添えられる携帯電話。  それに気づき、顔を上げようとした瞬間に、スピーカーから発せられた大音量のノイズが耳をつんざく。  それは、太古から現在に至るまでの、あらゆる言語で発せられた呪詛の言葉だった。 「――――」  あかりが、倒れた。  目を見開いたままよだれを垂れ流し、体はぴくぴく痙攣している。  傷だらけの精神に、無防備な状態で、劇薬にも似た呪詛を浴びせられた。  それであかりの精神は一気に破壊された。 「ごめんね。こんな手段しかなくて」  そういって、彼女は腕の中で抱えていた子犬を離す。  ドラゴンになったはずのトイプードルだった。子犬は倒れたままのあかりの顔を何度か匂いをかいだり心配するそぶりを見せたが、そのまま離れて走り去っていった。  さっきも、危うく勝ってしまうところだった。考えてみれば、対勇者用に生み出された決戦ドラゴンなのだから。土煙に巻かれた瞬間、太陽光の差し込む穴を通してあげなければ、あかりは流れ星になっていた。  それじゃ、困る。ギリギリで勝ってもらわないと。 「あなたじゃないと、倒せない。でもあなたじゃきっと倒せない。だから、あなたじゃないあなたにするしかない」  携帯を閉じて、その場を離れる。 「今度はちゃんと世界を救って。おかあさん」  日食が終わっても、郁人は校庭を動けずにいた。  光は戻り、強かった風がやむ。  水天宮さんは戻ってこなかった。 「光速を超えた一撃じゃないとあのドラゴンは倒せない。けどそれは、日食の瞬間にしか使えない。だから必然的に、水天宮は間に合わない」  乙女が手をかざして空を見上げながら、ぼやいた。腕の中でマオが眠っている。日食の暗がりの中で寝てしまったのだ。  さっきの泣き声はなんだったのか、と思うほどあっさりとしたものだった。 「さて、やるなら戻ってきていない今のうちだと思うけど」 「今のうちって……」 「この子を殺すタイミング」  郁人は乙女をにらみつける。 「そんな顔をしたって、現実は変わらない。さっきのドラゴンをまた呼び寄せられたらどうするの? 月で爆発が起こったの、見たでしょ。被害を抑えられる日食の最中でさえああなんだから。次は、地球が吹き飛んでもおかしくないわよ」 「わかってるけど――ほかに何か方法があるかもしれない」 「そんな『もしも』に賭けてるやつは、たいてい失敗する。ま、私は別にどっちでもいいけどあとは任せるわ」  そう言って、乙女は郁人にマオを預けた。少し身じろぎしただけで、起きることはなかった。  重い。たかだか五キロにも満たない体。それでも、生きてる。 「そういえば、マナカちゃんは?」 「さあ? 水天宮が飛んでいった直後は、いたと思ったんだけど」  忽然と消えていた。 「じゃあ、私も消えるわね」 「ちょ――どこ行くんだよ!」 「どこって、別にもう関係ないでしょ? 私がいても魔力が発現した。つまり、防護策は機能しなかった。それならもういる意味はないし、契約解除よ。私には居住のメリットはあるけど、寝てる最中に爆発されるリスクと比較すれば、割りに合わないわね」 「なっ」  少しは心を開いてくれたのか、と思っていた。  勘違いだった。  こいつは何も変わっていない。  郁人が怒鳴り返そうと思った瞬間、光が降り立った。  水天宮さんだ。  ひどい格好だった。制服はぼろぼろで、あちこち焼け爛れている。下着もほとんどまる見えで、ピンクのブラジャーの肩紐が片方千切れて、こぼれ落ちかけている。 「ちょ――水天宮さん、ま、まずいって!」 「うふふ、いくとくんだぁ」  彼女に渡そうと上着を脱ぎかけたところで、様子がおかしいことに気づいた。  とろんとした表情。いつもの天真爛漫な笑みでなく、妖艶で淫らな笑み。 「ねえ、いくとくん。まおー、こっちにちょうだい?」 「な、なんで?」 「ぶっ殺すから」  耳を疑った。  しかし疑いようがないほどはっきりと聞こえた。 「なんでそうしなかったのかな? 私は勇者で、そいつは魔王。さっさとぶっ殺して、郁人くんとえっちするの」 「ええええ?」 「ゆーしゃのチカラって、えっちするとなくなっちゃうんだよ。だからそのまえにまおーをぶっ殺さないとね。それとも、いくとくんはわたしとえっちするの、イヤ?」 「イヤと言うか、なんというか」 「どっち?」  満面の笑みで尋ねてくる。  うまく思考が働かない。悪い夢でも見ているようだ。 「そりゃ、したい、けど――」 「よかったぁ。いくくんのこと、ぶっ殺さなくてすんだよ」  返答を間違えていたら、ぶっ殺されていたのだろうか。 「それじゃ、はやくちょうだい。まおー、だっこしてたら、いくとくんもいっしょにぶっ殺しちゃうよ? ぶっ殺されたくないでしょ。それとも、ぶっ殺されたいのかな?」 「いやいやいや待てって! ちょ、ちょっと、落ち着こう!」 「おちついてるよ? すっごくいいきもち。ココロのなかがすみわたってる。わたしはゆーしゃで、まおーをぶっ殺すの。あといくとくんがすき。すきすきだいすき、ちょーあいしてる。ああ、なんだかもう、ぶっ殺したいよ、うふふ」  ふらふらと倒れそうな足取りで、ゆっくりと近づいてくる。  怖い。  誰だ、この人。  まださっきのドラゴンのほうがマシだ。 「そーいえば、おとめちゃん、どこかなあ」  ぐるりと首をめぐらした先に。  乙女がいた。  眉間にしわを寄せ、腰を低く落としてどちらにも動ける体勢を取っている。  明らかに警戒している。 「あはは、おとめちゃんみっけ。あれれ? どうしたの、こわいカオして」  乙女は、答えない。ただ、その頬を大粒の冷や汗が流れるのが見えた。 「おとめちゃん、まおーのママになるんだよね。ていうことは、いくとくんとえっちするんだよね。きまっちゃってるんだよね。やだなあ。それはイヤだなあ。いくとくんがほかのおんなのことえっちするのは、ものすごーく、イヤだなあ」 「そうね。同意する。そんなことなったら、私は飛ぶわ」  ようやく搾り出した声。震えを押さえるだけで精一杯のようだ。  あはは、と水天宮さんは笑った。 「そっか! よかったあ! じゃあ、えっちするまえにぶっ殺してもいいよね!」 「逃げろ入谷!」  光が迸る。  その速度にいくら鍛えているとはいえ人間が敵うはずもない。  乙女は身動きする間もなく、跡形もなくかき消されてしまった。 「入谷!」 「ねえ、なんでおとめちゃんのこと、しんぱいしてるの?」  声は背後から。 「もしかして、いくとくん、おとめちゃんのことすきなのかなあ。こまったなあ。こまったら、ぶっ殺すしかないよねえ」 「俺は、水天宮さんが誰かを殺すところ、見たくない」 「わっ」  背後から抱きつかれる。  背中の服越しに、限りなく素肌に近い柔らかな弾力が押し付けられるのを感じる。体温さえ伝わってくる。こんな状態になっても、そのことに意識が向いてしまう自分が哀しかった。 「わたしのためだったんだあ。うれしい!」 「だったら――」 「でも、ダメなんだよ。わたしは、ゆーしゃなんだから。ほんとうにあいしてくれるなら、そのひとのことをぜーんぶ、うけいれないとダメなの。わたしがまおーをぶっ殺しても、おとめちゃんをぶっ殺しても、セカイをぶっ壊しても、いくとくんはわたしのことあいしてね?」  何も、答えられない。 「でも、こまったなあ。さすがにつかれちゃったみたいだよお。まおー、ただぶっ殺すだけじゃミライはかくてーしたまんまなんだよね。やっぱり、おもいっきりぶっ殺さないと」  すっと、水天宮さんの感触が離れる。 「いくとくん、ざんねんだけどいまはまおーはぶっ殺さないでおくよ。あしたのおひるに、おうちにいくよ。そのときちゃんとぶっ殺すから、まっててね」  懇親の勇気を振り絞って、郁人は振り返る。  柔らかいお日様のような笑みで、水天宮さんが言う。 「にげたら、滅、だからねっ」  史上最狂の「めっ」をして、水天宮さんは光になって飛んでいった。                     8  どういう経路で帰ったのか覚えていないが、気がついたら家に帰っていた。 「……ああ」  何も考えられない。  ただマオがぐずったので、オムツを確認する。  おしっこでパンパンだった。  だが、家には誰もいない。マナカからはなぜかオムツ換えとお風呂は分けられているが、しょうがないだろう。早く替えてあげないと、おまたがかぶれてしまう。  でも、明日にはぶっ殺されるのに、多少のかぶれなど関係ないかもしれない。  そう考えると、何もやる気がなくなった。  泣きじゃくるマオを畳の上に放置し、郁人も座り込む。  あれは夢じゃないかと思いたかった。  しかし、消えない背中の柔らかな感触が、現実だったと思い知らしてくる。  明日、水天宮さんが赤ちゃんをぶっ殺しにやってくる。 「うるさいわね」  頭を踏みつけられた。  乙女だった。いらだたしげに、頭をぐりぐりとされる。 「い、入谷、生きてたのか……」 「一〇〇万と引き換えにね」  頭をかきむしる。 「自分が瞬間移動するだけなら、五十万でよかったと思うのよ。でも『ごじゅうまん』より『ひゃくまん』のほうが音がひとつ短い。ああ、もうやってらんない!」 「あはは」 「笑い事じゃないわよ」  安心した。  あれだけのことがあっても、乙女は乙女のままだった。 「でも、マオに触ってないのに、魔法使えたんだ」 「直前までマオを抱いてたせいじゃないの。ああ、うるさい! ちょっと、泣いてるの黙らせてよ!」 「いや、オムツっぽいから、俺はダメだって」 「別にいいじゃないの。マナカいないんだし」 「いるよ」  いた。  いつからいたのか、台所から姿を現した。 「今までどこにいたんだよ」 「パパ、あっち向いて」 「え? あ、ああ……」  背後でオムツを替える音がする。それ以上、マナカは何も言わなかった。 「おかあさん、勇者になっちゃったんだね。で、どうするの? パパはマオを渡すの?」 「それは――」  答えられなかった。 「ママはどう思うの?」 「渡すしかないでしょうね」  即答だ。 「今となっては最善で最良の選択肢――いえ、選択ですらないわね。素直に渡すか、拒んで一緒に消されるか。結果はどっちにしたって同じよ」  郁人にも、それしかないことはわかっている。 「それに、悪い話じゃないかもしれない。超光速で処理してもらって、うまく世界が残っていれば、私とこいつの悪い未来もなくなってくれる。ついでにこいつも童貞卒業。案外、勇者の力がなくなれば水天宮も元に戻るかもね」 「そうだね。きっとそうなるよ」  マナカが言った。ずいぶん確定的な物言いだった。 「パパとおかあさんは結婚して、二男二女を作る。ママの記憶から魔王のことは抜け落ちたけど女の子にはマオって名前をつける。パパの記憶にはこのことは残るけど、魔王を倒したから今の世界がある、魔王の死は無駄じゃなかった、死の先には新たな命があるんだから――って思って余生を過ごす」 「――なんだよそれ」 「でも、それがハッピーエンドの形。少なくとも、おかあさんに殺されるよりは」  わかってる。わかってはいるが。 「それでも、マオは生きてるだろ!」 「そうだね」  マナカは肯定する。 「そして、すべてを滅ぼしたあとに思うの。なんで、あのとき殺しておいてくれなかったのかって」 「そんなこと――」 「違ってはないよ。おかあさんにしてもそう。マオをかばってパパが死んでも、おかあさんは死ぬほど後悔するだけ。パパはおかあさんに人を殺させたいの?」 「そうじゃない。そうじゃないからこそ――」 「それはね。パパ。わがままだよ。子供のだだと同じ」  そうなのだろうか。  マナカの言葉は、不思議と胸に落ちた。 「……わかった。マオは、水天宮さんにちゃんと渡す」 「そう」  ふう、とマナカが安堵したように息を吐いた。 「ありがとう、パパ。あと、ママも」  声が、震えていた。  振り返る。 「私に殺させないでくれて、ありがとう」 「――あんた」  何かに気づいた、乙女の声。  こぼれる涙が、年に似つかわしくないファンデーションを洗い流していく。 「私を生まないでくれて、ありがとう」  マナカの姿が、消える。  まるではじめから誰もいなかったかのように。  オムツ換えの終わったマオだけが遺されていた。眠そうに目をこする。その目の下には、おなじみのほくろ。  郁人の目の中には、たしかに残っている。  洗い流された化粧の下に隠されていた、マオと同じ位置の、三ツ星の涙ぼくろを。 『ああ、魔王様ぁ!』  ムーウアの悲嘆はあまりあるものがあった。 『なんとおいわたしい……自らを滅ぼすために、未来より舞い戻られたとは――。せっかく我が勇者を精神攻撃にて沈めたとしても、すべてが無駄となってしまった』  たぶん最大の要因はムーウアの精神攻撃だと思うが、郁人は何も言わなかった。  すべてマナカの計画通りだったのだ。 「なんだってそんなことを――」 「魔王だからでしょ。泣いただけで破壊活動になるんだから、まともな神経でいるなら、自殺するわ」 「だからって、わざわざ過去に遡ってか?」 「たぶん、手遅れになったのね」  マナカは消える間際に言っていた。「殺させないでくれてありがとう」、と。  乙女が付け加える。 「ああ、でももしかしたら、マオが泣いたら魔力が発動する、というのもフリだったかもしれない」 「うん? どういうことだ」 「単に泣いたときに、近くにいたマナカが力を使っただけ、という可能性もある。魔王の危険性を伝えるために」 「でも、最初に校庭で爆発したときはマナカちゃんはいなかった」 「どこかに隠れてたのかもしれない。あのときは、壊れた校舎が元に戻った。あんたがマオを連れて逃げ出したあとにね。あの場にマナカが残っていたのなら、騒ぎが広がらないように修復しておいたってことで説明はつく」 「でも、魔力を使ったなら水天宮さんが気づくだろう」 「その魔力感知の精度がどれほどのものかはわからないけど、マオとマナカがすぐ近くにいたなら、どっちが使ったかなんてわからないんじゃないかしら。校庭のときは、水天宮も離れていたし」  たしかにそうだ。 「それでも、過去の自分を消したいっていうなら、もっと簡単な方法もあっただろ。マオとマナカちゃんが二人きりの場面なんて、いくらでもあった」 『いかに魔王様といえど、一度確定した未来を変えることは並大抵のことではない。たとえば過去に戻り自分を殺すとする。しかしこの場合、矛盾が生じる。自分を殺せば自分が消えるが、そうすると自分を殺した自分も消える。くわえて、過去の自分は確定しているから、存在の強度としては未来のほうが弱い。未来は変えられるが過去は変えられないのだ。そこを逆手にとり、未来の姿を現世に呼び寄せるこの呪法の美しさ!』  ろうろうと語るムーウアに乙女はハブリーズを振りかける。  しばらく耳障りなノイズが部屋に響き渡った。 『と、とにかく未来の自分が過去の自分を直接変えることはできぬ。だが、ひとつだけ方法がある。同じ時間軸にいる存在ならば、排除することが可能だ。そのため、魔王様は自身の存在を消すため、過去に降り立ち、策を練られた』 「それでも、魔王がいなくなったら、魔王にそそのかされた事実が消えるから、結局矛盾するんじゃない?」 『その時間軸での事実は確定される、たとえその原因が未来の自分で、それが消えたとしても。確定された現在まで変えられない』 「ふーん。なんだかごまかされてる気がするけど、実際に私たちの中にマナカの記憶が残ってるんだから、信じるしかないか」  乙女は理解したようだ。  しかし郁人は理解も納得もできてなかった。 「だ、だって俺は半年も前からマナカちゃんを知っているんだ!」 「それは、単に半年前に戻ってきたってだけでしょ。理由はわからないけど」 『存在強度を高めるためであろう。この時間軸に滞在した時間が長いほど、存在強度は増す。他者への影響力も強くなる』 「ならなんで消えたんだ。いきなり、突然に」 『決意したからだろう。ご尊父が、魔王様を勇者に引き渡すことを。それで、魔王様が消えてしまう未来が確定した。ゆえに存在の原因を失ったマナカ魔王様が消えた』 「じゃあやめる! マオは渡さない」  そう宣言したところで、何も変化はない。 『過去は変えられぬ。いまさら決意を覆したところで、さっきの決意は消えぬし、マナカ魔王様が消えた事実もなくならぬ』 「なら何か方法ないのかよ! お前、魔王の側近だったんだろ!」  一瞬の間。 『いかにも、我は魔王様ともっとも近しきところにいた。ゆえに、最後には魔王様のご意志を尊重したい。前の魔王様は、転生し世界を手にするとおっしゃったがために、それを行った。しかし此度の魔王様が自ら滅ぶことを望むのであれば――』 「逆に聞くけど、子安、あんたは何がしたいの?」 「なにって……」  マナカを戻したい。あとマオを助けて、水天宮さんも元に戻したい。 「うろたえてるんじゃないわよ。まだ、こんなものじゃない。明日はその子を水天宮に渡すんだから」 「…………」 「ま、どっちでもいいけどね。結果は同じなんだから」  そう言い残して、乙女は席を立つ。 「どこ行くんだよ」 「言ったでしょ、結果は同じ。さっき言ったとおり、私は出て行く」 「待てよ。お前、なんとも思わないのか? なかだか十歳程度の子が、自分のこと殺しに未来からやってくるって、異常だろ。それを、放っておくのかよ」  乙女は肩をすくめる。笑みすら、浮かべていた。 「そうね。異常だと思う。それでも私は放っておく。――って、そんなこと、とっくにわかってるのかと思ってた」  わかっている。入谷乙女の答えなんて。  だから、こちらに背を向けた乙女に言い放った。 「でも、それじゃお前の親と同じだろ」  乙女の動きが止まった。 「なにそれ。つぐみさんに聞いたの」  部屋の温度が三度下がった。  そう思うほど、冷ややかな声。  それでも郁人は飲まれない。こんな恐怖、マナカのものに比べれば屁みたいなもんだ。 「いや、俺が調べただけ。お前の親父さんが世界的な投資家ってことと、毎月五十万ずつ送ってきてること」  懐のポケットから通帳を取り出す。家に置いておくと不安なので、結局肌身離さず持ち歩いてしまっていた。  乙女は前を向いたままだが、音で通帳の存在は気づいたらしい。鼻で笑う。 「そんな自己満足」 「同じだろ。偽善的な振る舞いしてないだけマシってか? 俺からしたら五十歩百――」  言葉が最後まで続かなかった。  視界が大きく揺さぶられる。  後ろ回し蹴り、だろうと思う。  かかとが的確に左のこめかみを捉え、郁人は気絶する。  その直前に、笑ってやった。  怒らせてやったぞ、と。                     *  深夜。  乙女はつぐみさんの家に戻り、自分の机に座ってスマホを操作していた。  たった半月で戻ってきた居候を、つぐみさんは快く迎えてくれた。特に事情を聞くこともなく、部屋だってちゃんと掃除が行き届いており、いつ帰ってきてもいいように待っていてくれたかのようだ。全幅の信頼を置いてくれている。親とすれば、理想的なのだろう。  だが、親ではない。  そこだけは、徹底的に一線を引かれていた。  乳児期から世話を見てもらっているが、呼び方は最初から「つぐみ」と名前だった。幼稚園や小学校で「お父さんかお母さんに見せてね」とお知らせの紙をもらうたびに、違和感を覚えた。「きれいなお母さんですね」とお世辞を言われるたびに「母親じゃないんです」と丁寧に否定していた。  彼女の中でどういう信念があるのかはいまだもってわからない。決して、子の成長過程においてよい環境とはいえないはずだ。とにかく、乙女は「自分には親がいない」ということを突きつけられながら育った。  十五歳の誕生日に、つぐみさんからひとつの選択を与えられた。 「乙女には血がつながったお父さんがいる。もう亡くなったけどお母さんもいた。私とは、どうありたい?」  答えは、すぐに出た。 「つぐみさんは、つぐみさんよ」  いまさら、とは思わなかった。それまでうやむやにしていたことを、あえてはっきりさせたのだ。おかげで、乙女の中で漠然としていた考えがまとまった。  翌日から、自活に向けて動き出した。  はじめに、つぐみさんが自分にかけてきた費用を算出した。引き取ってから今までのすべての出費を、できるだけ細かく。それにその年毎の法定金利の上限額をかけて毎年計算しなおした。二日で終わった。一千万円近くあった。  返済することにした。それを話したら、つぐみさんは変わらぬ様子で「別に構わないんだけど、乙女がそうしたいのなら受け取るわ」と了承してくれた。ただし、「その代わり、高校と大学には通ってほしいな。学歴なくたってどうにかできるくらいの力はあると思うけど、それ以外にも意味はあるはずだから」とのこと。条件として、受け取った。  すでに一流大学に入れるほどの学力があったため高校はどこでもよかったが、成績優秀者は学費無料ということで地元の有名私立に進学した。返済すると決めた以上、余計な出費は控えるべきだ。無駄を省く一方、学校内にどす黒い需要があることに気づいた。  金になる。  何でも屋を始めた。  トラブルを避けるため、正体を隠して活動した。人を介し、連絡手段もあえてアナログに徹する。実行するのは自分だが、それも協力者の体を装う。  さながら魔王のごとく暗躍した。金があるバカが逆恨みでプロを雇って正体をつかまれるまで、よく稼がせてもらった。  つぐみさんへの債務はほとんど返済しているし、とりあえず大学に通える分くらいのたくわえもある。  なるほど学校に通う意味はあったかもしれない。  それでも、父からは何の連絡もなかった。  郁人に言っていないことがある。  マナカがなぜ姿を見せたのか。  ようは「魔王が危険だと勇者に認識させる」ことがマナカの目的である。  実は、この計画はマナカが現れないでも成立する――それどころか、現れたほうがばれるリスクがあるため成功率は低くなる。  あるいは、もっと「存在するだけで無尽蔵に魔力を放出する」という風に演出することもできたはずだ。仮に存在の優位性の観点から大規模な破壊ができなかったとしても、「郁人や乙女と一緒なら魔力は行使されない」なんて予防線を張る必要などなかった。  さらにいえば、乙女を巻き込む必要はなかった。協力者が増えるほど危機感は薄まる。自ら乙女の住所を教え、その目の前で無差別召喚を行うなど、しなければ乙女が協力することはなかった。郁人が付きっ切りで育児を行うことになっただけだ。  その辺は、ひとつの言葉で片がつく。  それに気づいてしまったのが、いやだった。  思い返すのは、いつかの帰り道。  マナカと初めてまともにしゃべったときだ。  それまで乙女に対してだけは妙に緊張していたマナカだったが、あのときは本音でしゃべってきたように感じた。 「……ああ、もう」  スマホの時計が深夜十二時を回ったことを知らせた。  あと十二時間で、ひとつの生命が絶たれる。  別にどうだっていい。確定された未来だとは言っても、今現在の自分にとっては何の義理も責任もない存在だ。気にする必要はない。  窓から空を見上げると、流れ星が三つ同時に飛んでいった。  月の裏側で発生した謎の爆発により、周囲に大量のアステロイドが発生し、月には土星のような輪ができている。その一部が地球の大気圏内に入ってくるため、しばらく流星が多く観測できるらしい。  爆発は天文所の観測や磁場の乱れなどから確定された。月の地軸や公転軌道がずれ、二六日周期になってしまったらしい。原因は特定されていないが、隕石の激突や地下火山の噴火、大地震、果てはアメリカの新兵器の実験や宇宙人の襲来など、いろいろな仮説や憶測が生まれている。  勇者とドラゴンの戦いなどと、誰が信じるだろう。  そしてその勇者に、次は魔王が狙われている。  あくまでたわむれに、解決法を考えてみることにする。  ゴールは、マオを――ひいてはマナカを助けること。  まず考えられる手段は、水天宮を排除すること。彼女は光がなければ本来の力を発揮できない。夜のうちに襲撃するか、あるいは光の届かない地下に閉じこもるかすればいい。  しかし約束は明日だ。自分が水天宮の立場なら、東に飛びながら休む。地球の半分は昼なので、光速移動できるなら夜の区間には入らなければいい。  地下に閉じこもるほうが現実的だが、それは一時的な回避にはなるだろうが、根本的な解決とはいえない。  もっとも勝率が高い手段は、郁人が水天宮の処女を奪うことだ。  幸い、正気を失った水天宮はあの男に執着している。実に理解しがたいが、正気を失っているのだからしょうがない。  マオを地下に隠し、郁人が水天宮を誘惑する。  それでも、成功率は一割にも満たないだろう。正気を失ったとはいえ、愛欲よりも勇者としての使命感のほうが強いように見えた。魔王を引き渡さないとみるや、あっさりぶっ殺されるのが目に見えた。  やはり、光速に対抗しうるだけの力は必須だろうか。  ――いや。  光速化する前なら、どうだろう。不意打ち。だが、相対する状態からは不意打ちも何もあったもんじゃない。先にこっちから見つけられればいいが、不意打ちは向こうだって警戒するだろう。しかし――。  乙女は、首を振った。  もう寝よう。  明日からは普通に登校する。成績は問題ないが、出席日数は怪しくなってきた。ちゃんと行かなければならない。  泣き声に邪魔されることのない睡眠を、久しぶりにとろうではないか。                     9  翌日。  郁人は出発の準備を終える。  乙女に蹴られたあと、意識を取り戻してからずっと考え続けたが、結局答えは出なかった。 『渡すのか』  ムーウアが聞いてくる。 「……うん」 『そうであるか』  それだけだった。  出発する前に、ミルクを飲ませる。  郁人の腕の中で勢いよくミルクを飲む。食欲はかなりあるほうみたいだ。そのせいか、丸々と太って見える。マナカが「ちょっと太りすぎじゃない?」とやたら気にしていたが、水天宮さんいわく、はいはいが始まれば運動量も増えるので、今は気にしないでいいらしい。  実際、体重も増えた。最初にきたときより、一キロは増えている。半月で体重が二割増えるというのは、なかなか大したものだ。  あっという間にミルクを飲み干す。 「……あれ?」  げっぷをさせようとして、ふと気づいた。  頭を支えなくても、首が立っている。  いわゆる、首が据わったというやつか。  何もいわずに見つめていると、自分で「げっ」と息を吐いた。 「……なんだよ」  もう最後かもしれないというのに。  なに成長してるんだよ。 『どうした』 「いや、なんでもない」  そう、なんでもない。  郁人はマオをスリングに乗せて、家を出る。  特に場所の指定は受けていなかったが、水天宮さんと子犬を渡した公園に来た。  あの子犬は水天宮さんを動揺させるため、犠牲にしたように見せかけただけだとムーウアに言われた。その後、呼び出したドラゴンと全力の戦いをさせ、心身ともに磨耗しきったところに精神攻撃を加える。恐ろしくも念が入った計画だ。  ちゃんと子犬は助けて、逃がしたらしい。  そのあたりに、安心する。  マナカは魔王だが、人の心は失っていない。  だからこそ、こんなことをやったのだ。 「こんにちは」  声に振り返ると、水天宮さんだった。  服はちゃんと白いワンピースに着替えていた。あのままだったらどうしよう、とちょっとだけ心配していた。 「またせちゃったかな?」 「……いや、さっき来たところ」 「そっか。よかった」  そういって、はにかむような笑顔を見せる。いつもの水天宮さんの笑顔だった。  昨日までの壊れた雰囲気ではなくなっていた。  もしかして、一晩経って正気を取り戻したのか? 「じゃあ、ぶっ殺すからその子ちょうだい」  いつもの笑顔のまま、壊れていた。 「あれ。そういえば、乙女ちゃんいないね」 「あいつは逃げたよ。もう関係ないって」 「そっか。残念。一緒にぶっ殺そうと思ったのに」  郁人は短くため息を吐く。 「こいつ、首が据わったんだ」 「へえ、早いね。普通は三ヶ月くらいかかるんだけど。これからはタテだっこもできるし、もう少ししたらお座りもできるね」 「そうだな」 「じゃあ、ぶっ殺すよ」  話にならない。 「マナカ、いただろ。あいつ、未来のマオだったみたいなんだ」 「えっ、そうなの! お化粧でわかりにくかったけど、たしかにちょっとだけ乙女ちゃんに似てると思ってたんだ。マオちゃん、やっぱりキレイになるんだねぇ。よかった」  マオに向かって優しい笑みを浮かべる。 「じゃあ、ぶっ殺すよ」 「――なんなんだよ」 「うん?」 「なんでそんな風に、笑いながらぶっ殺すとかいえるんだよ!」 「郁人くん、変なこと言うね。勇者は魔王をぶっ殺すものなんだよ? そりゃ、わたしだってマオちゃんはかわいいと思うし、すくすく元気に大きくなってほしいと思う。でもね、前にお父さんに言われたんだ。世の中のお仕事には全部意味がある。たとえ辛いことばかりでも、楽しさやおもしろさを見つけていきなさいって。だから、マオちゃんをぶっ殺すよ」  もうダメだ。  どうしようもない。  水天宮さんはしっかり壊れている。  こうなれば、切り札しかない。 「水天宮さん。どうにか、見逃してほしい。これで、お願いできないだろうか」  郁人は、懐から通帳を取り出す。  乙女名義の通帳だった。 「一億円、入ってる。好きに使ってもらっていい」 「……郁人くん、真面目に言ってる?」  水天宮さんはため息をついた。 「こういうことを金銭で解決しようなんてダメだよ? たしかにお金が焦点になる場面もあるけど、基本は、きちんと誠意をもって対応しないと。人間どうし、人と人として話をしないと。、お金と話をしているんじゃないの」 「……ごめん。ダメ元で聞いてみただけなんだけど」 「そんな不誠意な対応、ダメでもともとどころか、マイナスだよ」  ショックだった。  正気を失った水天宮さんに、真面目に叱られた。 「だから、それはしまって。もっと必要な場面があるから。今はマオちゃんをぶっ殺すのが先決だよ」 「……それは、やっぱりできない」 「そっか。残念」  水天宮さんがつぶやき、一歩踏み出そうとする。  郁人はマオを抱えるようにして身構える。  と、足を踏み出しかけた水天宮さんが、その場に立ち止まった。  なんだ――と考える前に、彼女の様子がさっきと変わったことに気づいた。  手に、赤ん坊を持っている。  マオだった。  ちぎれたスリングと、人間の両腕がぶら下がっていた。 「え?」  手元を見る。  あるべきものがない。  マオも。自分の両肘の先も。  肘の切断面から鮮血がほとばしる。  それでようやく、自分の両腕が切断されていたことに気づいた。 「――――っ」  声は出なかった。痛みは不思議とない。ただただ混乱する。傷口を押さえようとするが押さえるべき腕もない。結果、噴出する腕を振り回し、血まみれになっていく。わけがわからないまま意識が遠のき、その場に倒れてしまう。 「あーあ、だからおとなしく渡しておけばいいのに」  水天宮さんの声が遠い。  傷口から体温がどんどん抜けていくのがわかる。  ――死ぬ。  死んだら、マオはどうなる? 生まれるはずがない。確定された未来じゃなかったのか? それともさっきのがすべてを打ち砕く超光速の一撃だったのか?  思えば、つい最近も同じように死にかけたことがあった。たしか、骸骨戦士に囲まれたときだ。剣で切られ、マオを地面に落としてしまった。泣きじゃくる彼女をなぐさめようと、声をかけたのだ。 「痛いの痛いの、飛んでけ」  郁人の体が巻き戻しのように再生する。飛び散った血液は傷口から血管に吸い込まれ、光速で吹き飛ばされた腕は同じ速度で傷口に戻る。手にはマオを抱えたまま。切断面どうしが接合し、何事もなかったかのようになった。  郁人の体から黒い光がふたつ飛ぶ。それは公園の太い木にぶつかった。  木の幹が吹き飛ぶ。  みしみしと音を立てながら、倒れてしまう。 『事象の転移と結果の遡及! 勇者に腕を切断されたという事実そのものが遡り他者へと移送したのだ! そのため負傷という結果も過去に遡り回復する!』  乙女の金の力と同じ、マオの魔力の逆流だ。乙女はマオに触れていないと行使できないと言っていたが、切断された腕は触れてはいた。  ムーウアの声は郁人の耳には入っていなかった。  目の前で、水天宮さんが倒れた。  傍らには、黒いジャージを着たランナーがいた。黒いサンバイザーとミラーグラス。そして手には大型のスタンガン。  乙女だ。 「お前、なんで――」 「寝てないのよ」  意味のわからない返答だった。たしかに目は充血していて、寝不足のようだ。 「おかげで、光速娘の倒し方、いろいろ考えちゃったじゃない」  乙女は気絶した水天宮さんのスカートをたくし上げ、股を開かせる。  白いパンツが丸出しになった。  さらにそのパンツにまで指をかけようとする。 「な、なにやってんだよ!」 「暴走したこいつを止めるには、勇者の力を消すしかない。子安、突っ込んで」 「できるか!」 「あのね、真面目に言ってるの。いつ目を覚ますともしれないし、そうなったらおしまい。殺される。一刻を争うの。わかったら早くやって。どうせ早いんでしょ」 「だ、だけど心と体の準備というものが……人もいるし……そもそも本人の同意なしに行為に及ぶのは道義的にも倫理的にも法的にも……」 「ぐだぐだうるさいわね! こっちは一応気を使って優先してやってるのに。あんたが不能なら、他の男にやらせるわよ!」  こいつ鬼か。  いや、魔王の母だった。 「……わかった」 「じゃあはい」  投げ渡された白い布を何の気なしに受け取る。  まだぬくもりの残った、パンツだった。 「――ッ」  両腕を切断された時以上の混乱に襲われる。  水天宮さんのスカートはうまい具合に戻って、ぎりぎり太ももの根本辺りで隠れている。ほんの数センチ。風が吹くか、かがみこむか、身じろぎひとつするだけかでその中が見えてしまう。 「……どうやら、準備はできたみたいね」  大っぴらな場所で愛の準備をしろなんて言われて一体どれだけの男が即座に可能状態となるだろうか。あまつさえ童貞。  そこを脱ぎたて生パンツと絶妙なチラリズム、重要な部分は隠すというイマジネーション喚起の手法を巧みに操り、郁人を可能状態へと導いた。  恐ろしいほどの手腕。つくづく敵にしたくない。  乙女ににらまれる。 「こっち見ないでくれる? こんな状況で臨戦態勢に入れるサルみたいな男に見られたくない」  味方にもドS。 「臨戦態勢ってなに?」  水天宮さんがあどけない笑みを浮かべて、その場に立っていた。 「――ずいぶんお目覚めが早いのね」 「うん? わたしお昼寝はあんまりしないの。お日様でてるのに寝てるなんて、もったいないでしょ」 「なるほど。日光の下じゃ、回復も早いのね」 「乙女ちゃんも着たんだ。よかった、これでまとめてぶっ殺せるね」  乙女が手で制する。 「あんた、パンツはいてないわよ」  水天宮さんの顔が疑問符でいっぱいになる。  すっと、自分の腰周りを触れた。  見る見るうちに、顔が赤くなっていく。 「なななな、なんで!」 「パンツは隠したわ。私たちをぶっ殺したら、パンツはもう戻ってこない。そもそも、パンツはいてないまま光の速さになってもいいのかしら」  水天宮さんが、内股になりながら腰周りを押さえる。頬を紅潮させたまま、こちらをにらみつけていた。 「……なんか、全然緊迫感もないけど」 「バカ言ってんじゃないわよ。パンツ一枚で命がつながってんのよ」  ひそひそと乙女がたしなめてくる。  たしかに、水天宮さんからすればいつでもぶっ殺せる状況だ。勇者としての使命感が歪んで現れたのか、魔王をぶっ殺すことに関しては異常な執着を見せているが、他に関しては通常の水天宮さんの思考な気がする。パンツがなければ何もできない。 「うぅぅぅぅ」  涙目でこっちをにらみつけてはいる。白いワンピースの生地はやや薄いようで、日の光で脚のシルエットがうっすら透けて見える。実はかなりきわどいのではないか。 「……なんで、そんないじわるするの? わたしはただ魔王をぶっ殺したいだけなのに!」  半泣きになりながら訴えてくる。追い詰められた姿を見れば見るほど、嗜虐心が沸いてくるから不思議だ。 「さて。とりあえず車と黒いゴミ袋が必要ね」 「なにするんだよ。そもそも車なんて、免許ないぞ」 「車つきで運び屋を手配すればいいわ。ゴミ袋は、水天宮の全身覆って日光と遮断する。あとは、煮るなり焼くなり好きにできるわ」  魔王というかもはやヤクザだ。 「……郁人くん」  水天宮さんが言った。 「責任、とってよね」 「え?」  言葉の意味を確認する間もなかった。  水天宮さんが光と化し、熱風が吹き荒れる。 「開き直ったか!」  ワンピースのスカートもめくれ上がるが、光が強すぎて直視できない。  そもそも、やばい。  パンツない状態で腹をくくられたら、裸同然なのはこちらのほうだ。 「ああ、ちくしょう!」  吐き捨てるように毒づき、乙女が、郁人のほうへ手を伸ばすのが見えた。  正確には、その懐に。  だがその前に、光が炸裂する。  やられた。  目の前も頭の中も、真っ白になった。  が、急速に光が晴れていく。  チカチカする目をこする。自分たちがまだ公園にいて、ちゃんと形をもって存在していることを確認した。  光の本流は残像を残し、空へと伸びていっていた。  わずかだが、それた。  いや、そらされたのか。  乙女を見ると、同じように呆然としている。  周囲を見ると、わずかに景色がにじんで見える。まるで水の幕で隔てられたように。 「――なんで」  光と化してキラキラをまとっている水天宮さんが、地面に着地する。その表情が戸惑いに染まっていた。  その動きが止まる。一時停止を押したかのような、完全な固定。彼女の周囲の空間ごと四角く切り取られ、万華鏡のような乱反射空間と化す。 「屈折だよ。おかあさんの力が光なら、わずかな水分だけで避けることはできる。それを応用すれば、封じることもできる」  幼い少女の声。  郁人は言葉を詰まらす。  次の瞬間、不思議な浮遊感に襲われる。  耳鳴り。圧迫感。  景色は変わらないのに、まったく別のところにきたような感覚があった。  見ると、公園内には誰もいなくなっていた。 『異相空間! 架空の空間に転送する高等空間術! こんな御業を為せるのは、三千世界にただひとり!』 「マナカちゃん!」  いた。  唇を尖らせ、視線をわずかにそらした彼女が立っていた。 「よかった、戻ってこれたんだ!」  乙女は表情を崩さない。それでも、力が抜けたように息を漏らした。 「パパも、ママも……なにやってるのよ」  マナカがマオだとわかった今、戯れだと思っていたその呼び名もこそばゆく感じる。 「なんで私をちゃんと渡さないの? なんで私、戻ってきてるのよ!」  声は荒げようとしているが、しゃくりあげる涙が先にあふれたようだ。 「わたし、世界を滅ぼしちゃうんだよ? 早くしないと、自分でも制御できないくらいに、おかあさんでも倒せないくらいに強くなっちゃう。その前に消さないといけないのに」 「まあ、先のことはそのとき考えよう」  何の説得力もない先送りだった。  それでも、ぽろぽろと泣くマナカは、しゃくりあげながらうなずく。 「それでいいの?」  郁人がうなずきながら、乙女を促す。 「――好きにすればいいじゃない」 「お前なぁ」 「なによ。別にどうでもいいのよ、子供たったひとり生かしてるだけで滅ぶ世界なんて。そんなヤワなもんに気を使って死ぬなんて、バカよ。バカは嫌い」 「うん。ママに嫌われないように、がんばる」 「――ふん」  郁人も肩をすくめる。 「ところで、水天宮さん、元に戻せないのか?」 「できるよ」 「ホントか! じゃあ、早速――」 「でも、ごめん」 「え?」 「もう限界だ」  ぱん、とガラスが弾ける音が響く。  突如、光で空間が埋め尽くされる。 「オオオオオオオッ!」  声ともうねりともつかない音が響き渡る。 「不安定な状態のまま、力を使いすぎてる――暴走する!」  倒れかけたマナカが悲痛な声をあげる。  頼みの綱のマナカがこれでは、もうダメだろうか。 「バカね」  乙女が郁人のスリングからマオを抱き上げる。 「マナカが戻ってこれたってことは、もう勝利の未来が確定じゃない」  スマホをつかんだ左手を横に伸ばす。  示された画面は、七〇〇万円の預金残高表示。  乙女は静かに唱える。 「七〇〇万、時よ止まれ」  そして世界は停止する。  スマホの中の預金残高は恐ろしい速度で減少していく。せいぜい十数秒。それで乙女の全財産を消費する。  しかし、水天宮は動いていた。 「おとめちゃんも、こーそくになったの?」  昨日と同じ、暴走状態の水天宮になっている。 「逆ね。私以外の時間を限りなくゼロにした。だから、光の速度だったあんたとタメを張れる」  空気が粘りつくようだ。自分以外は動いていない中を押しのけるのだからしょうがないかもしれない。呼吸も難しく、息苦しい。どの道、長くは持たない。 「わたしとタメ? ちがう、わたしのほうがはやい!」  さらに加速。  水天宮の体は輪郭を失い金色の光の粒子そのものになりかけている。  光速を超えた速度。  しかし、乙女の相対時間の中ではせいぜいジェット機程度の速度しかない。光速に比べればなんてことない。  おののく必要もない。 「もう未来は確定してる」  乙女は右手を横に伸ばす。 「胸くそ悪いけど、このアイディア思いついた瞬間に戻ってきやがったのよ。まったく、恐れ入るわね」  それは、乙女名義の預金通帳だった。  絶対に使うことはないと思っていた金。  見るだけで負けだと思った金。  乙女は思念を払うがごとく、叫ぶ。 「持ってけ一億ッ!」  通帳を振りかぶり、迫り来る水天宮の頬を捉える。 「目ェ、覚ませッ!」                     * 「えぇぇ、一億円、使っちゃったの?」  少女は目を輝かせながらおかあさんにたずねた。  おかあさんは読み聞かせていた本から顔を上げると、優しくほほ笑みながら答える。 「そうね。金額もそうだけど、絶対に使わないと決めたお金を使うことにしたんだから、すごいことだと思うわね」 「すごいすごい! ねえおかあさん、そのあとどうなったの? 勇者のお姉さんはもとに戻ったの? 魔王のパパとママは、ちゃんと仲良くなったの? 魔王の女の子は世界を滅ぼしちゃったの?」 「さあ、どうかな? どう思う?」 「うーん」  少女は腕を組んで考える。 「パパとママはうまくいかなかったと思うな。魔王の子は生むことになると思うけど、生まれてすぐに別れちゃう。で、捨てられたパパと、勇者のお姉さんが結婚するの」 「……ずいぶんシビアな展開、考え付くんだね」 「もう三年生だから!」  誰に似たのだか、この子は妙にませたところがある。 「たしかにそういう世界もあったかもしれない。けど、わたしはそうじゃないと思うな」 「うーん……そうだね。そのまま魔王になっちゃうかも」  そのとき、部屋のドアが開かれた。 「行くわよ」  黒髪の女性だ。恐ろしく美人で、凍えるほど冷たい目をしている。 「はぁい」 「返事は短く。時間の無駄」  ぴしゃりとそう言って、視線をおかあさんに向ける。 「いつも悪いわね。あのバカ、こんなときに限って仕事なんて、役に立たないんだから。私のほうが稼ぎがいいんだし、辞めちゃえばいいのよ」 「わたしのほうこそ楽しませてもらってるから、気にしないで」  ママが笑顔でうなずく。  次に視線を少女に戻し「早くなさい」と厳しくたしなめ、行ってしまった。 「げえ、怖っ。あーあ、おかあさんが本当におかあさんだったらよかったのに」 「そんなこと言っちゃダメよ。ママだって、ああ見えてちゃんと心配してるのよ。じゃなきゃ、忙しいのに迎えになんて来ないじゃない」 「そうかなぁ。だって、お小遣い三〇〇円だよ? お菓子もろくに買えないよ。早くお姉ちゃんみたいにバイトしたいな」 「お姉ちゃんは元気?」 「うん。高校生だよ。おかあさんにも会いたいって言ってた。あ、もう十人に告白されたみたい。全部振ったみたいだけど」 「そうなんだ。綺麗だからね」 「うん。理想のタイプがパパっていうから、そこはどうかと思うけど。私もママやお姉ちゃんみたいに綺麗になるかなあ」 「なれるよ」  おかあさんはやけにはっきりと断言した。 「絶対に」 「じゃあ、そろそろいかないとママに怒られちゃう。今度来たら、さっきの続き、聞かせてね」 「わかった。パパさんにもよろしく」 「ふふっ、愛してる、って伝えとく」  止める前に、少女は行ってしまう。ドアを閉める間際、こちらに向かって投げキッスしてきた。 「まったく、誰に似たんだか」  誰にでもなくつぶやく。  そして、さっき読み聞かせていた本をぺらぺらとめくった。  だいぶマイルドに書いているが、子供に聞かせるにはちょっと偏りすぎた内容な気がする。  それをちゃんと楽しめるということは、あの子もそれだけ成長しているということなんだろう。 「そういう世界、か」  この世界には無数に平行世界がある。  可能性の数だけ分岐した無限の世界。その中には、魔王に滅ぼされた世界もあるだろうし、勇者が魔王を倒した世界もあるだろうし、なんだかうまいこと共存した世界もあるかもしれない。  可能性全部ひっくるめて勇者がぶっ殺してしまった世界だって。 「そういうのも、あったのかな」  壁に留められた写真を撫でた。  高校の制服を着たまま、トイプードルを抱える女の子の写真。日に焼けて、台紙もよれよれ、何度も画鋲で打ち直したため穴だらけ。それでも、ずっと部屋の片隅にありつづけた。  それをそっと撫でて、おかあさんはドアを開ける。  優しい光が流れ込んでくる。その中へと、消えていった。                                     了 1